遭遇 2
3
俺は、両親と妹との4人家族だった。
しかし、親が共働きだったせいもあって、家にはいつも妹と二人きりのことが多く、だからだろうか、妹──スズカは俺によく懐いてくれていた。
俺が二人の代わりに、スズカを守らなくては。
そう思っていたから、妹を守れるだけの力が欲しかったから、両親には無理を言って、妹と二人で護身術を習うようになった。
もし俺がいなかったとしても、自分の身は自分で守れるように。
しかし、そんなある日だった。
たしか、スズカが中学一年生、俺が二年生の頃だ。
時間割の都合で、スズカの方が早く授業が終わったその日。
いつもなら俺のクラスが放課後を迎えるまでは、図書室で本でも読んで待ってもらって、それから一緒に帰るはずだった。
しかしなぜかその日は、その日だけは、スズカは『今日は一人で帰る』と言って聞かなかったから、彼女だけが先に帰宅していた。
スズカもそれなりに強くなっていたし、ちょっとした暴漢程度なら一人でもなんとかなるだろう。そう思って一人で帰らせたのが、その日──二月十三日の俺のミスだった。
なぜならその日、『買い物に行ってくるね』という置き手紙を残したまま、彼女は帰ってこなかったのだから。
4
目を覚ますと、車の中にいた。
馴染みのない景色だったので、俺はすぐに目を開かずに薄目にして、状況を確認する。
視界に映る座席の配置から、おそらくハイエースだろう。
記憶をたどってみれば、たしか腹を殴られて気絶させられた覚えがあったから、おそらくあのスーツの二人に誘拐されたに違いない。
……誘拐といえば、警察も、スズカは監視カメラの映像から何者かに誘拐されたと言ってたっけ。
胸中を不安のモヤが渦巻く。
恐怖が背筋を這いまわって、呼吸が次第に浅くなっていくのを自覚する。
きっとスズカもこんな気持ちだったのだろうと思うと、早く見つけ出してやりたい気持ちでいっぱいになる。
……あれから、もう三年も経つというのに。
「起きたか。
意外と長かったね?」
そんなことを考えていると、知らず知らずのうちに握っていた拳に気が付いたのだろうか。一人の少年が俺の顔を覗き込んできた。
中性的な顔立ち。
前髪ぱっつんのコケシ頭で、鋭い一重瞼の目は黒曜石のように輝いている。
「……随分内臓に効かせてくれたみたいだからな」
無視しても無駄か。
それならばいっそ、情報を得ることに尽力した方が身を守ることになるだろう。
そう判断して俺は目を開けると、助手席からこちらを振り向く少年に嫌味を吐いた。
「あはは。
でも謝らないよ?
君だって、素直に従っていれば乱暴な真似はされなかったんだからさ」
「ハッ。
素直に、ねぇ」
拘束されていなかった手をポケットに突っ込む。
大方、何かしようものなら後ろにいるのだろうスーツの二人が俺に乱暴して、いうことを聞かせる算段なのだろう。
全く、いやらしい配置だ。
たとえ俺がこの場で振り向いて二人を攻撃しようとしても、背もたれが壁になって手出しができない。
一方で彼らの方はといえば、背もたれという壁があるにしても、俺の動ける範囲なんて高が知れているわけで、足元に逃げ込んだとしても多分長い棒か何かが出てくるのかもしれない。
下手すると拳銃を突きつけられる可能性もある。
さっきは外で人目もついたし、いくら人の体で見えないようにしていたとはいえ、血の痕跡を完全に拭い去るのは不可能に近い。
片や、車の中ならば見られる心配もないし、血の痕なんて部品を交換すれば済む話である。
本当に、いやらしい配置だ。
「あ、ちなみにスマホは僕が持ってるから」
「だろうな。
そんな気はしてたよ」
ポケットに手を入れた理由を見越しての言葉に、俺は苦笑を浮かべる。
まさに四面楚歌とはこの事だ。
「それで。
こんな一般の男子高校生なんか拉致って、なんの目的があるんだ?
残念だが、うちは金持ちじゃない。
身代金を期待するなら別の家を狙うんだな」
「あはは、面白いこと言うね。
ここまで用意周到な僕たちが、まさかそこまで調べずに誘拐なんてするはずないじゃないか!」
「ハッ、笑えないな。
全くもって面白味にかけるジョークだ、この誘拐が金持ちのお遊びなら尚更なッ!」
強がった笑みが強ばるのを自覚する。
きっと今の俺は怖い顔をしているに違いない。
語尾が若干荒くなるのは、恐怖を表に出さないためだった。
少年が少し驚いた顔つきで、怒る俺の表情をしばらく見つめた。
わずかな沈黙の間、彼はいったい何を考えていたのだろうか。
それを知る術は俺にはなかったが、しかし一つだけ分かっていたのは、俺の怒声に驚いたのは、きっと彼が普段から怒鳴られなれていないせいだろうということだけだった。
「……もういいかな。
そろそろ本題に入りたいのだけど」
「あぁいいぜ。
俺もちょうど、それが聞きたいところだったんだ」
咳払いして許可を求める少年に、俺はさぁどうぞと掌を差し出すように向けた。
それから彼が話し出した内容は、全くもって奇想天外な話だった。
「《鬼蜘蛛》って知ってるかい?
巨大な蜘蛛の妖怪でね、疫病を振り撒いて、弱ったところを食い殺すのさ」
妖怪だとか怪異だとか、そういうことにはほとんど知識がなかったが、しかし少年が呟いた『巨大な蜘蛛』という言葉に、俺の記憶の隅が突つかれる。
雨の降る公園。
遅くなったバイトの帰り道。
巨大な鎌を持った女の子──。
(そういえば、俺はあの夜、どうやって帰ってきた?)
今となってはほとんど一人暮らしも変わらないような生活とはいえ、流石にあの時間になれば両親のどちらかは帰ってきていてもいい時間だった。
それなのに、二人に何かを言われたような記憶がさっぱりない。
それどころか、あの少女に助けられたところから先が、さっぱり思い出せないでいた。
「その蜘蛛と俺に、なんの関係が?」
不審感を切り払うように頭を振って、俺は少年に話の続きを促した。
「君のご先祖──あぁ、僕のご先祖でもあるんだけど、要するに悪魔祓いとしての物部家の始祖がね。
数百年前にある瓢箪の中に数十人がかりで封印したんだけど、三年ほど前かな。とある悪魔崇拝者に盗まれちゃってね」
(三年前……)
妙な胸騒ぎを覚えたのは、おそらくその時期がちょうど、スズカが行方不明になった時期と重なったからだろうか。
何かの繋がりがあるような、そんな直感を覚えて、俺はその言葉を心の中で繰り返した。
……それ以外にも、俺の先祖が悪魔祓いだとかいうオカルトチックなことをしていたとかいろいろツッコミたい部分は山とあるが、とりあえず割愛する。
「本家は僕とそこの二人、それからあと十数人を残して壊滅。
このままじゃ、悪魔祓いとして人間の世界を守るには人手が足りないってわけで、関係者の血筋をたどって、適性のある子供を回収して回ってるのさ」
なるほど。
俺を誘拐した理由はわかった。
だが理由を理解するのと誘拐されたことを納得するのはまた別の話だ。
ここだけ聞いても、俺からすればタチの悪い宗教の勧誘か、あるいは金持ちの企んだ厨二病のお遊びに付き合わされている気分にしかならず、どうにも話を信じることができなかった。
できなかったが──
「適正?」
ちらり、と後方に視線を送ると、二人のスーツの男が、何やら黒い長方形の物体を弄っているのが見えた。
おそらくスタンガンだろう。
──俺には、素直に従う他に選択肢が残されていなかった。
「簡単に言うと霊感の有無だね。
見たことない?
この世ならざる──たとえば、幽霊とか妖怪とか」
尋ねた質問に対して、少年──彼の話が本当ならば遠い親戚なのだろう──が、簡単に答える。
それを聞いて思い出すのは、昨晩の──夢かどうかも記憶が曖昧だが──巨大な蜘蛛の怪物だった。
「ま、君が信じられないのも無理はないさ。
適性があったとはいえ、これまで普通の人として過ごしてたんだからね。
そのうちわかるよ」
言って、チラリと窓の外の方を向く。
釣られて俺も窓の外を見た。
とはいえ、後部座席の窓ガラスは防弾なのか、分厚くて暗く、光をほとんど通さないため外の景色が見えないので、フロントガラスを座席越しに覗くくらいだが。
「……どうやら、着いたようだね」
小さな教会の様な建物の前に車が駐車したのを見計らって、少年が呟いた。
どうやら、この教会が目的地らしい。
後ろのスーツの男が、車から出る様に訴えてくるのに、素直に従うことにする。
話の間中、フロントガラス越しに道順を覚えてきたとはいえ、ここで暴れてもきっと帰ることは叶わないだろう。
スーツの二人の口ぶりからして、住所はおろか、学校の場所まで特定されているだろうし、となればどこへ逃げようがすぐに捕まるのだろう。
玄関で待ち伏せされた時点で、俺はもう詰んでいた。
心理学でサーカスの像とか言う思考実験があったが、俺もそうならないように注意すべきかもしれない。
5
教会の扉を潜ると、内部は外から見た時よりも異様に広い空間が広がっていた。
いや、と言うよりもむしろ、屋内のはずなのに広い庭園が広がっていた事にまず驚くべきだろうか。
空気が変わった、程度では済まされない変化が、目の前に現れていた。
真っ白な石畳の道は、広い薔薇園の中心に十字路を敷き、奥に巨大な洋館が建造されている。
薔薇園というだけあって薔薇の甘い香りが鼻孔をくすぐってくる様や、室内であるはずなのに天井に広がる蜘蛛ひとつない青空、天壌無窮に広がる庭園のその様子は、決して昨今流行のプロジェクトマッピングやミクスドリアリティとは格が違う。
例えるならば、そこには一つの異世界が広がっていた。
「なん……だ、これ……。
幻覚……?」
有りえるとすればそれしかないだろう。
たとえば、この香りが実は、幻覚作用を催すお香によるものの可能性。
ただの男子高校生をあんな手の込んだやり方で拉致し、脅してくるやつだ。
金持ちの気の狂った娯楽でこんな遊びに付き合わされているのだと考えれば、まだ平成を保てた。
だけど、わかるのだ。
直感的に、この現象は現実に起きていることだと。
「ただの結界さ。
仕組み的には幻覚に近しいものだけど……うん。
こっち側に来られたと言うことは、やはり適正有りで間違いないみたいだね」
少年がクスクスと笑いながら、俺に軽く説明する。
「……?
どういうことだよ?」
てっきり否定されるかと思いきや、反対に半分くらい意見を肯定されて困惑する。
「水槽の脳、という思考実験は知ってるかい?
我々は外界の情報を、目や鼻、耳、舌、肌といった受容器から受け取って、電気信号として脳が理解することで知覚している。
これは生物の授業で習うことだけど、まぁ、感覚的になら小学生でもわかる簡単な理屈さ。
……じゃあ、だよ?
もし仮に、その電気信号が何者かに作られたものだったとしたら、どう感じると思う?」
顔を覗き込みながら尋ねてくる少年。
その質問の答えを、俺は知っている。
古い映画だ。
人は全てコンピューターによって、終わらない夢を見せ続けられている。彼らはそれを現実だと思っているが、実際はそうではないのだ。
「要するに、幻覚によって見えているものも、現実に見えているものも、実はそんなに違いはないってことさ。
魔術ってのは要するに、現実というその幻覚をちょっと上書きしているだけの話だよ。
つまりこの結界も然り」
言われて、ハッとする。
車の中で少年が呟いた『そのうちわかる』という言葉の意味は、おそらくこれのことを指していたのだろう。
明らかに手品では有り得なさそうな、物理法則を無視した現象を見せられては、俺もさっきの話を信じざるを得ない。
……ということは、あの女の子──たしか、ユメ、だったか。彼女との出会いは、もしかして現実にあったことなのだろうか。
あまりにも幻想的で、一瞬にしてそれまでの自分の常識を打ち砕かれた感覚に、心臓がわなわなと震える様な感覚を覚える。
脳の中を何か冷たいものが流れる様な、体がふわりと軽くなって浮きだす様な妙な感覚のせいか、俺はバランスを崩してその場に崩れ落ちた。
「それで、どうだい?
さっきの話は信じてくれた?
……って、ありゃ、いきなりはちょっと強過ぎたかな?
しばらくすれば慣れると思うけど、立てるかい?」
言いながら、少年が手を差し出す──が、俺は『ケッ、上手いもんだな』と返しながらその手をはたき落とした。
車の中で感じた彼に対する蛇の様な恐怖心とは裏腹に、人を安心させる様な対応をしてくる。
まさに飴と鞭の使い分けというやつだ。
「何のことだか」
「その手には乗らないからな、腹黒コケシ野郎」
眩暈がするのを気合いでねじ伏せて立ち上がり、鋭い目つきで少年を見下ろす。
彼の身長は幸い俺より頭一つ分は低かったが、しかしそこから漏れる覇気の様なものは、十分俺を怖気付かせた。
怖い。
本能的に、彼にそう感じてしまうのだ。
だから俺は、虚勢を張って自分を保たなければならなかった。
そうしなければ、俺は彼に懐柔させられていただろう。
もしそうなっては妹の行方を探すこともできなくなってしまいそうな気がして、不愉快な気分になるだろう。
「何だい、その変な呼び方は」
眉をほんの僅かに──おそらく誰も気づかないぐらい微妙に──動かして不快感を示しつつ、笑顔で反論してくる。
「お前にピッタリな渾名だろ」
「……褒め言葉として受け取っておくよ」
おそらく、これ以上言い合いを続けても無駄だと悟ったのだろう。
少年は回れ右をすると、少し前を歩いてから、振り返らずに最後に一言だけこう付け足した。
「それと、僕の名前はモリヤだよ」
そのセリフが少しだけ震えている様に聞こえたのは、おそらく聞き間違いではなかっただろう。
……ちなみに、その後スーツの二人にものすごい形相で睨まれたのは、また別の話。