遭遇
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空から女の子が降ってくる。
物語の始まりだとすれば、それはなかなかに使い古されたお馴染みの光景だろう。
しかしそれが現実のものとなったとき、それは自殺現場に遭遇した時か、あるいは彼女をヒロインに、これから何かの物語が始まるプロローグである。
……それはほとんど起こるわけがない事象だが、しかしその日の俺は、偶然にもその物語の始まりのような状況に出会ってしまう事になるのだ。
──街灯が明滅する夜の公園。
光に集められた蛾たちがバチバチとイカロスのように突撃するその影に、俺はこの世で最も巨大なのではないかと思うほどデカい蜘蛛に睨まれていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……っ」
呼吸が浅くなるのを自覚する。
雨の音ばかりが遠くなって、自分の息遣いがうるさくなる。
(なんで、こんなことになったんだっけ)
時刻は夜の11時を少しすぎたところだろうか。
少しだけ遅くなってしまったアルバイトの帰り道。
今日はちょっと早く帰りたいなと思って近道を使って、普段は通らないこの公園にやってきた。
しかしそれが間違いだったのだろう。
不意に背後に気配を感じて振り返ってみれば、そこには悠に俺の身長を超える体高を持った、巨大すぎる八つ目の蜘蛛が、息を殺して近づいてきていたのだ。
視界が雨にブレる。
自然と傘が手から滑り落ちたのには気が付かなかった。
ただ、俺は目の前にある異形に魂削ていた。
口と思われる部分から、ピンク色の、少し泡を吹いたような、ネタネタとした唾液のようなものが溢れている。
その鋭い牙の端には、人間の髪の毛のようなものが挟まっていたりしているから、おそらくあのピンク色の液体は、奴の唾液に被害者の血が混ざり込んだものなのだろう。
髪の長さから推測して、おそらく餌食になったのは女性か。
きっと、近いうちに男女が1人づつ行方不明になったニュースがテレビで報じられるに違いない。
……そのうちの1人が自分だというのだから、笑えない冗談だが。
それに、まだ俺にはやるべきことがあるのだ。
三年前に行方不明になった妹がまだ見つかっていない。
彼女を見つけるまでは、俺は死ねないのだ。
だからだろうか。
俺は脚が震えて動けないにも関わらず、頭の中は真っ白にならず、冷静に思考することができていたのは。
「……っ!」
俺は、辛うじて落とさずに持っていたビニール袋を思いっきり投げつけ、一気に後ろを向いて逃げ出した。
袋が蜘蛛の眼球に当たっただろうが、それだけで奴が怯むとは思えなかった。
むしろ怒って俺をつけ回してくるに違いない。
やっぱり俺の頭は冷静ではなかったようだ。
「うぐっ……!?」
足がもつれ、うつ伏せに地面に倒れて泥が跳ねる。
「──ッ!」
息を呑む。
こんな震えた足で走って逃げようだなんて、所詮無理な話だったのだ。
俺は這いずりながら必死で蜘蛛から逃げだそうとした。
泥が服に擦りつくのも構わずに。
(動け、動けよ俺の足……ッ!)
金縛りにあったように、手足が自由に動かない。
体が硬く、指先一つ動かすこともやっとだ。
このままでは食べられてしまう……っ!
「ぁ……ッ! ……ぁ……ッ!!」
助けを呼ぼうにも声が出ない。
喘ぐような呻き声を、細くなった喉から絞り出して助けを呼ぶが、効果の程は雀の涙ほどもなかった。
むしろ、蜘蛛を楽しませるのに一役買っていたかもしれない。
ゆっくりゆっくりと、走らず、音を立てず、叫ばず、黒い異形が忍び寄ってくる。
人間が恐怖を感じる条件は3つだ。
即ち、言葉を話さず、正体不明で、不死身だということ。
この時不死身というのは、自分の力ではどうしようもない、というように置き換えてもいい。
要するに隠されているが確実にそこにあると認知できれば、人は心の底から恐怖する。
絶体絶命。
もはやまな板の鰻のように暴れ回ったところで、目打ちされては逃げる術もない。
恐怖のあまりに心臓が口から飛び出そうだ。
それでも俺は死ぬわけにはいかなかったから、逃げるため、生きるため、妹のために抗い続けた。
必死に、必死に、必死に、必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に──
「スズカ……ッ!」
──と、その時だった。
雨に濡れた視界の奥。
その朧げな街灯の上だ。
そこに、現実を疑うような、真っ白な髪の少女が、巨大な鎌を片手に狙いを定めているのが見えた。
「……ぇ?」
恐怖のどん底だというのに、とんだ余裕だ。
蜘蛛のことなんかよりも、その凛とした空気を纏う蝶のような殺気の方に、俺の意識は惹かれていた。
少女が街灯から飛び降りる。
ほんの四、五メートルほどの高さからくるりと体を捻り、回転しながら俺を飛び越えて、その巨大な鎌を静かに蜘蛛の頭と胴体の隙間に滑り込ませた。
綺麗だ、と思った。
アール・ヌーヴォー調の黒い大鎌のポールグリップとヘッド。
薄桃色のブレードと漆黒のピークとのコントラストが、街灯の淡い光と相まって、恐怖を全て拭い去ってくれる。
「……」
一瞬、少女と目が合う。
猫のような縦に開いた瞳孔の黄色い右の瞳と、夏の雲一つない蒼穹の様な色をした左の瞳。
(オッドアイだ……)
気づけば青い炎の塵となって燃え尽きていた大きな蜘蛛に一瞥もくれず、少女は無表情にこちらに手を差し出した。
よく見れば、その少女は真っ黒な全身タイツのようなものに身を包んでいる。
身長の程は俺よりも頭二つ分は小柄だろうか。
綺麗な白髪は雨でしっとりと濡れていて、エナメル質な全身タイツの上を無数の水滴が流れている。
「……ど、も」
少女の手を取って、立ち上がる。驚きで腰が抜けていたが、不思議なことに彼女の手を握ればそんな感覚も吹き飛んだ。
ようやくのことで出た声は、少しだけ裏返っていたけど。
「……」
何も話さない彼女に、とりあえずお礼を言わなければと口を開く。しかしどうしたことか、今までならばすんなり出ていただろう言葉がなかなか見つからず、口をパクパクさせるしかできないでいた。
なぜなら、彼女のその見た目がほんの少しだけ、どこか自分が探していた妹に似通っていたから。
雰囲気の方は、全くの別人だったが。
「……えっと」
言葉が見つからずあたふたしているうちに、どうやら俺の無事が確かめられたのだろう。
少女は俺の手を離すと、くるりと背を向けて夜の闇へと消えていこうとした。しかし、ここで呼び止めなければ、なぜだろう、妹への手がかりを完全に無くしてしまいそうな、そんな予感がしてとにかく呼び止めた。
「あの……っ!」
「……?」
足を止めて、振り返る。
きっと、もたもたしていてはまたすぐにどこかへ行ってしまうだろう。それだけはなんとか阻止したかった俺は、こんな質問をした。
「名前を──っ」
ただそれだけ。
ただそれだけを口にして、俺は彼女の返答を待った。
空から降ってきたその少女は、そんな俺の質問の意図を理解するのにしばらく時間がかかったのか、少しだけ、本当に僅かにだけ首を傾げると、その柔らかそうな桜色の唇を震わせて、名乗った。
「……ユメ」
雨の音に負けてしまいそうな、か弱い声。
霞のような、どこか幻の中に消えてしまいそうな甘い声音に、俺は息を呑んだ。
(ユメ……)
心の中で、彼女の名前を繰り返す。
繰り返して、ふと、そういえば初めて聞いた彼女の声は、少しだけ震えていたような気がした。
雨の音が大きくなる──。
1
言うことを聞かなくなったテレビを、あの悪魔の男が殴りつけているのを見たことがある。
悪魔の男が言うには、物は大体叩けば直るのだそうだ。
その言葉を肯定するように、いつも壊れたテレビは我を取り戻したように息を吹き返すのだ。
だから、常日頃から殴られているこの私も、きっとどこかが壊れてしまっているのだろう。
私もいつか、直る日が来るのだろうか。
そんなことを考えていたある日だった。
その悪魔の男はどこかへ出かけたきり、二度と帰ってくることはなかった。
残された悪魔の女は、何かわからない言葉でキーキーとわめき始めた。
あの悪魔の女も、きっと壊れてしまったのだろう。
私は、その壊れた物を直すために、以前男の方の悪魔がテレビにしていたことと同じように、それを殴った。
何度も何度も、殴って、殴って、殴って。
気が付けば、狂った猿のおもちゃのように金属質な音を出していた悪魔は、頭から赤いものを流して静かになっていた。
どうやら、悪魔の男が言っていたことは正しかったらしい。
私は中学校で使っていた裁縫道具を引っ張ってくると、人形にするのと同じように、破れた頭皮を白い糸で縫い合わせた。
以前、テレビで見たことがあったのだ。
壊れてしまった悪魔は、こうやって糸で縫ってあげれば以前の様に動き出すのである。
しかし、どれだけ時間が過ぎても、その悪魔がもう一度何かをしゃべることはなかった。
2
「──ハッ!?」
止まっていたはずの心臓が再び動き出すような感触を感じて、俺は目を覚ます。
時は七月の下旬。蝉の鳴き声が鬱陶しい日の光と共に、窓という遮りを突き破って聞こえてくる。
気分は日の光を浴びて塵になる吸血鬼のそれだ。
申し訳程度にかけてあったタオルケットを払い除けて起き上がり、枕元のスマホの電源をつける。
時刻は午前8時手前。
完全に遅刻である。
「やっべ!?」
何か大切な夢……みたいなのを見ていた気がするが、すでに俺の頭の中は遅刻の二文字に支配されていた。
飛び起きて身支度を弾丸の如き素早さで済ませ、朝食を食べている時間は無いと急いで玄関の扉を開ける──と、そこにはこの炎天下にもかかわらず、ピッチリと首元までボタンとネクタイを絞めたスーツ姿の男が二人、立ち塞がっていた。
「物部ヒョーゴだな?」
何かヤバいことしたっけな、と、一瞬そんな思考が脳裏を過ぎるが身に覚えがない。
見た感じ、警察という様にも、或いはヤのつく自営業の人間という様にも見えないが。
「……なんスか?
俺ちょっと急いでんだけど」
ワイシャツの下から僅かに見える黒いタートルネックに、暑そうだな、なんて思いながら鬱陶しい気持ちを全開にして尋ねる。
「そのことについてお前が心配する必要はない。
既に話は通してある」
言って、二人組の片方が近づいてきて俺の手首を掴んだ。
咄嗟に、昔習っていた護身術の技を使って腕を振り解こうとする──が、動こうとしたその瞬間、鳩尾あたりに重い衝撃が入った。
「カハッ!?」
視界に映るのは、腹にめり込むスーツの拳。
どうやら、これは誘拐というものらしい。
徐々に霞んでいく意識。
体が重くなり、耳がキーンとなって音が遠のいていく。
その遠い音の中で一言、『乱暴な真似をしてすまないが、急を要するのだ』という言い訳だけが、水を潜らせた様に鼓膜に届いた。