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恋をしない生き物もいる

作者: 雪野千夏

彼女はとりたててどうということのない人だ。

特におしゃれというわけでも、不細工というわけでもない。

仕事をして、時々失敗して、時々おいしい料理を食べて、たまには一緒に出かけたりもする。気のいい友人の一人だ。

一緒にいて楽だった。なんの約束があるわけでもなく、一緒にいた。

僕に彼女がいたころは彼女も遠慮していたようだったが、だからといって疎遠になることはなかった。


彼女に同じにおいを感じていたのかもしれない。だけどそれを確かめることはしなかった。

僕らは色んな話をした。仕事の話も趣味の話も、まずかった昼飯のことも、腹が立つ上司の話も。政治の話も、未来の話もした。ただひとつ、僕らはお互いの恋の話はしなかった。

僕が話せば彼女は頷いた。だけど、決して彼女から「結婚は?」とか「仲良くしてる?」なんて言葉はなかった。


こんなふうに話すと彼女がとても物わかりのいい、菩薩のような人みたいだけど、彼女はそんな都合のいい人間ではない。むしろ逆だった。



彼女と出会ったのは行き慣れた小さなバーだった。繁華街から一本入った細い路地の雑居ビルの2階。隣のキャバクラと同じ名前のバー。本当はこちらの店だけでやっていきたいけど経営がね、というのが酔ったマスターの口癖だった。マスターのこだわりのつまった手彫りの木の看板と並ぶピンクのウサギのロゴ。理想と現実が並んでいた。



その日の僕は友人と一緒だった。


店に入ったとたん酔っぱらった女の声がした。僕の苦手な体に纏わりつくような甘い声だ。狭い店内僕らは一つ席を開けカウンターに並んだ。


「結婚ねえ」

「ま、ね」


女性二人、もう片方の女が彼女だった。硬質な声は耳に心地よかった。狭い店内聞くとはなしに会話が耳に入った。


「だから、有紀もいい人見つけて結婚しなって。仕事も会社も自分を守ってくれないよ。頼りになるのは、最後は家族じゃん。考えてもみなよ、年取って一人孤独死とか、うわ、想像しただけで鳥肌たった」


「飲みすぎ、お水ください」


甘ったるい声の女は酔っているのか饒舌だった。有紀と呼ばれた彼女は顔色一つ変えることなく、マスターに声をかけた。


「大丈夫。有紀だいたい彼氏いたことあるの?人嫌いもいい加減にしないとさあ、こんなこと言いたくないけど、おばさんだっておじさんだって心配してたじゃん。実はそれとなく聞いてくれって頼まれてさ」


「そ」


そのあと二人の間でどんな会話があったのかは聞いていない。僕は久しぶりにあった友人と楽しく飲むためにきていた。


「なんなのよ!」


大きな声に振り向けば、彼女は水をかけられていた。


「お客さん」

「なによ!」


女はマスターを睨みつけると万札を二枚置いて立ち去った。後に残ったのは濡れた彼女。

彼女は何事もなかったかのように、おしぼりで顔を拭いた。着ていたジャケットをぬぐと、マスターの差し出したタオルでそっと水気をぬぐった。


なんのてらいもない、その仕草がなぜだかとても艶めかしかった。中のシャツが透けているわけでもない。およそ性的なものを想起させるものは何もなかったはずなのに、僕は目が離せなかった。


「大丈夫ですか?」


気付けば声をかけていた。


    ※


それから何度か彼女と飲んだ。約束などはない。バーで顔を見かければ、会釈をし、どちらも一人なら一緒に飲む。その程度の仲だ。

だけどいつしか僕は一人で行くことが増えた。彼女の顔があれば嬉しかったし、彼女が誰かと飲んでいると少しだけ気分が落ちた。


それだけだった。それだけのはずだった。だけどどうしようもないけれど、恋をしているのだと気づいた。そして、愛とか恋とかそういうところとは違う気安さは、家族になってほしいと思っているのだ、と気づいた。




    ※




僕らの関係が変わったのは、それからしばらくしてのことだ。僕の恋煩いは友人に相談すれば、いい加減告白しろとせっつかれた。彼女がよく来る土曜の夜に友人と二人バーへ行った。


「で、話せよ」


彼女の隣の席に座り、聞こえるように恋バナをする。それで彼女がどう思うか反応を見るのだ、と友人は言っていたが、彼女はそんなものに反応するような人ではない。それならもっと昔になんらかの反応があったはずだ。


「で、これまでの相手と違うって?」

「話してて気楽で、ずっと一緒にいたいなって」

「じゃあ結婚もか?」


僕は頷く。彼女がどんなふうに思っているのか彼女が座る左半身だけ焼けるかと思った。


そろそろ帰らないと嫁に怒られる、という友人を送るためにながら店を出た友人に背中をたたかれた。


「ユタ。いいひとじゃん、告白しろよ」


気のいい男だけど、人にアドバイスをするというより猪突猛進で全て片付けてきた男の言葉は僕には響かなかった。


彼と別れたあと、もう一度バーに戻れば、彼女はまだいた。


「忘れ物?」


彼女は僕を見ると言った。もう一杯飲みたくて、そういった後で思い切って口を開いた。


「あなたの意見も聞いてみたくて、女の人の」


相変わらず彼女はふうん、と気のない様子で、グラスに口をつけた。ゆっくりとグラスに口をつけ、こくりと飲み込む。白い首筋が薄暗い灯りに照らされた。


「どうして?」


彼女は僕を見た。僕の目をじっと見た。それは永遠のようにも、一瞬のようにも思えた。初めて僕たちが見つめ合った時間だった。


すっと彼女は視線をそらした。


「私には分からないよ」

「いや、女の人の意見も参考にしたくて」


僕は焦ったように言葉を続けた。


「そ」


それはあの日、はじめて会った日、甘ったるい声の女に言ったのと同じトーンだった。


「何か、悪いこと言った?」


彼女はほんの少しだけ、僕を流し見た。よくできましたとでも言われているようだった。

彼女はグラスに人差し指を入れた。濡れた指先で机の上に直角三角形を書いた。


「底辺が10センチ、高さ6センチ、この直角三角形の面積は?」

「バカにしてる?」

「べつに」


彼女は濡れた指先で机の節目をなぞった。

底辺×高さ÷2。簡単だ。


「30平方センチ」

「違う」

「え、違わないだろ。求め方が違うってこと?」


彼女はもう一度指先をぬらした。ぴちょん、とグラスの中に落ちた滴に波紋が広がる。


「この直径を10とする」


彼女は机に円をかいた。


「この円周上ならどこでも直角三角形になる」


彼女はもう一度円をなぞった。


「この直径は10――」

「あ!」

「分かった?」


直径が10なら、自然半径は5。直角三角形であることが、円周上のどの点をとってもということは、半径5以上の高さがある直角三角形はないということだ。


「同じだよ。私も」


彼女は言った。


「答えがあると思っているというけど違うということ?」


自分の恋の話など自分で解決しろ、そういうことだろうか。そう問えば、彼女はうっすらと笑った。


「違う。前提条件がそもそも違うってことに気づかない人が多いってこと」

「前提条件?」

「恋をしない生き物もいるってこと」


恋をしない、そう彼女は言いきった。その横顔は僕が好きになった横顔だった。

「そう、なんだ」


「ああ」


本当に?とか今まで一度も?なんて言えなかった。僕が好きになった彼女の気高さは、彼女が孤独と向き合ってきたからなのだと分かってしまった。


「なんで、泣くの?」


彼女の細い指先が僕の目尻をそっとなぞった。


「そんな風に泣くほど好きになれるっていいね」


ちょっと羨ましいよと彼女は言った。だけどそんなこと本当は微塵も思っていなくて、泣いてしまった僕を慰めるために言っているのだというのも分かってしまった。


好きな人にそんなことを言わせている自分が苦しくて、また涙が出た。


「僕ら、友達?」


彼女はくすりと笑った。僕が憮然とすると、


「だって、ほら今時小学生でも言わないよ。でもね、そうだね、友達っていいね」


彼女は笑った。三十をこえて、僕にはずっと大事にしたい友達ができた。


   ※


それから彼女とは休みの日にも会うようになった。恋人にはなれないけれど、彼女の友愛は心地よかった。ときどき僕の下心がざわついたりもするけれど……。気づけば休みの日はほとんど彼女と会っていた。一緒に遊び、一緒に食べ、一緒に寝る。そこに彼女からの恋情はひとつもない。家族、になってもいいけれど、きっと彼女の中でそれは違うのだろう。


結婚はどうしてこんなに人にやさしくない法律なのだろう。


「ちょっとトイレ行ってくるわ」


ある日、トイレへ行くために席を立てば、彼女が僕を見た。


「純粋な疑問なんだけど」

「なに?」

「ユタってどっちのトイレに入っているの?」


昼ごはんおいしかったねくらいの自然な口ぶりだった。

だけど、会ってから一年以上たってその質問って!

本当に彼女は傑作だ。


「ナイショ。僕の下半身ジジョーに興味はないんだろ?」


彼女は目を見張った。

こんなの、ときどきうずく僕の下心の意趣返しにしたらかわいいものだ。


「ま、ね」


彼女はふっと笑った。

僕らの関係に名前はいらない。僕らは明日も一緒にいる。

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