第一話【親友がノーマルであることを信じたい】
「一体何があったんだ?」
俺の知っている宇佐美兎乃はそりゃあ昔は病弱で線が細く、中性的な顔立ちだということもあって服装くらいでしか性別を判断できなかった。けれど中学二年生くらいからは成長期が来たのか声もすっかり低く大人びたものになって、身長なんかはあっという間に俺を抜いて180センチを超えていた。顔つきは未だに中性的なものに近かったが、最も記憶に新しいのはそんな高身長できりりとした目つきが特徴的な鬱陶しいくらいのイケメンの姿をしていたはずだ。
それが、どうだろう。
あれだけあった身長は150センチほど。俺の方が長かったくらいの髪は身長とは真逆にベッドに広がるくらいに伸びている。男よりだった顔つきはぐんと女よりの中性に近づき、髪の長さもあってどう見ても女にしか見えない。俺の名前を呼ぶ声などは声変わりする前よりも女じみている。
紛れもない、完膚なきまでの美少女がそこにいた。
「兎乃、で間違いないんだよな?」
ここは兎乃の家で、少なくとも母親と兎乃の二人暮らしであって妹はいなかったはずだ。姉という感じでもないだろうし、親戚だとしても兎乃の部屋にいるというのはなんだかおかしい。それに、きちんと見れみれば容姿の所々には兎乃らしさというものも間違いなくある。
「……うん、間違いないよ。僕は、正真正銘君の大親友の宇佐美兎乃さ」
そのふてぶてしいまでにふてぶてしい態度は、まさしく俺のよく知る友人のもので。しかし、その赤紫色の瞳にはいつもある鬱陶しいほどの自信はどこにもない。生気と呼べるものが欠けていて、元気がないと一言では語れないどこか焦点が合っていない虚ろなものに見えた。
「四日前、日曜日だ」
ぽつりぽつりと兎乃が口を開き始めた。
四日前と言えば確か、兎乃は気になっている小説が出るから買いに行くと言っていたはずだ。いつもなら小説の感想を聞いてもいないのに長電話で聞かせて来るのに、電話の一つもなかったから不思議に思っていた。
「出かけた帰りだったんだ。急に胸が苦しくなって、視界が霞んで。気が付いたらこんな風になってた。すぐに女になったんだって気づいたよ、だって付いてないんだからね」
なるほど、そりゃあ確実な判断だ。
「着ていた服もぶかぶかになったから、急いで帰ろうとした。けど、後ろから捕まったと思ったらいきなり路地裏に引きずり込まれて――――五人くらいかな、男たちにレイプされそうになった」
「は」
「野性的っていうのかな、とにかくギラギラした気持ち悪い目だった。生きも荒くて、口も半開きで、飢えた獣って感じだったよ」
「お、おい」
「顔を、肌を、あいつらのざらついた舌が這うんだ。荒い息遣いとズボン越しでも分かるくらいに膨らんだアレが、僕がこれからどうなるかって言うのを嫌ってくらいに教えてくれたよ。当然逃げようとしたさ、でも全然力で敵わないんだ。むしろ掴まれたところが痣になるくらいに食い込んできて、もうダメだって思った――――けど、そうはならなかった。気が付いたら皆倒れてて、僕は這いつくばりながら逃げ帰って来たんだ」
ぼうっと焦点の定まっていない瞳で兎乃は俺の目を覗き込む。
「帰って来てもずっと頭の中で腕を痛いくらいに掴まれる感覚が、身体を這う舌の感触が、息遣いが身体中を蠢きまわってるんだ。もう頭がおかしくなりそうだよ、気持ち悪いはずなのに身体は熱っぽくてたまらない。少し眠ろうものなら続きの夢を見るんだ――――正直、男なんてもう見たくもない……のに」
胸をぎゅうっと掴む兎乃の荒い息がここまで聞こえてくる。顔は熱にうなされているかのように赤く、瞳は潤んでいるのにやはり焦点が合っていない。チロリと舌で濡らされた口元はどこか笑みを浮かべているようですらあった。
「なぁ、クロぉ。僕、どうなっちゃったんだろうなぁ」
熱にうなされているかのような熱くぼんやりとした声。これは本当に兎乃なのか? 段々と、俺の知っている宇佐美兎乃が消えて行っているような気がして恐ろしくなった。
「おかしいんだ、僕は。今もこうしてクロと話しているだけで頭の中がパンクしそうになってる。クロにはもう、ここに、僕のところには来てほしくなかったなぁ」
「どうして」
「クロに嫌われたくないからに、決まってるじゃないか」
はっきりとした口調だった。一瞬だけ、俺よく知っている宇佐美兎乃が顔を覗かせた。しかし、それもすぐに消えてしまう。
「クロに嫌われるなんて、僕は嫌だよ。クロは僕の親友なんだ、たった一人の大事な親友。クロがいなくなったら僕はまた一人になってしまうよ。クロだけなんだ、僕を見てくれるのは。だからクロに嫌われるなんてダメだ。クロに嫌われるなんて嫌だ。僕とクロはずうっと一緒、一緒に二人でいなきゃいけないんだ。クロに嫌われる何て嫌だ――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…………あぁ、そっかぁ」
ゾクリと背筋に冷たいものが走る。兎乃がゆらりゆらりと定まらない動きで俺の元まで這い寄り、そしてしな垂れかかる。明らかに普通じゃない。ニタニタと粘ついた、肌をぞわりぞわりと這いずり回るような笑みを浮かべた。
「親友がダメなら、こうすればいいんだ」
「こうするって一体――っ!?」
何かに憑りつかれたように、はさりと纏っていたシーツをはだける。
一瞬、甘い匂いが鼻をくすぐる。
シーツの下は裸だった。暗がりに慣れてきた目が、はっきりとその白く輝いてすら見える肌を捉えていた。美術品のようななだらかな曲線を描いた、しなやかな四肢が露わになる。まるで未踏の雪原のように白く滑らかな透き通った肌、丘陵のような形の整った胸、簡単に手折れてしまいそうなほどに細くも肉感的な腰のくびれ、すらりと伸びた長い脚。
時が止まったかのような錯覚の中、俺はただただ視線を動かすことができずにいた。何かの魔法に掛けられたように、俺の眼球と脳がバチリバチリと激しく火花を散らしながら目の前の光景を焼きつけている。
「くふふ、情けないなあその顔。さあ、クロ、おいで。親友がダメなら男と女になればいいんだ、どうして僕はそんなことに気づけなかったんだろう。むしろ、身体の繋がりである分よっぽど確かで純粋な関係だ」
このままだと戻れなくなると思った。頭の中へと忍び込んできたその魔法を、俺は振り払おうとした。
あれほど熱を帯びていた頭は冷や水を浴びせられたように冷たくなる。身体の自由が戻った。
「仕方ないな」
腕を振り上げる。まだ少し痺れているような感覚がした。この分だと手加減なんて器用なことはできないだろうけど、我慢してもらおう。
「とりあえず、正気に戻れ」
思い切り、兎乃の腹に拳を打ち込む。
「ぐべっ」
兎乃は潰れた変えるような声を出して、ぴくぴく震えながら腹を抑えて蹲る。
「……ふう。どうだ? 元に戻ったか?」
「ごほっごほっ…………う、ぐ。ひ、ひ、あはは。や、やるねえ、君。仮にも女の子のお腹に、お、思い切りパンチなんて、そんなの。フェミニストの僕には、できそうも、ない……ぐふっ」
「おお、戻った戻った。でもまだ完全じゃないかもしれないなあ……もう一発行っておくか?」
「え、遠慮するよ……この通り、僕は元通りさ」
両手を広げて、大分無理をしているであろう痛みをこらえながらニヤリと笑う。そこにさっきまでの危うげな雰囲気はない、俺の知っている宇佐美兎乃がいた。
「そうか。それならまずは服を着ろ。それだと裸を見せびらかしてるだけだぞ」
俺の心臓は未だにバクバクしていたが、それを表情には出さないようにしながら指摘する。
「そうは言ってもね、僕の服は大きすぎて。そうだ、クロの服を貸しておくれよそのワイシャツだけでもいいからさ」
服が大きすぎる? ワイシャツだけなら大きすぎるも何もないんじゃないか。何か企んでいるんだろうが、裸のままでいられるよりはよっぽどマシだろうとワイシャツを脱いで押し付けた。
「クロの匂いがする」
「お前、何気持ち悪いこと言ってんだ?」
クンクンと何がそんなに気になるのかいそいそと着替えながらもワイシャツの匂いをしきりに嗅いでいる。犬かこいつは。
「どういうわけかね、女になってから匂いに敏感なんだ。男の匂いなんかは襲われた時を思い起こさせて自分の匂いですら吐きそうになったくらいなんだがね、うん。どういうわけかクロの匂いは嫌ではないらしい、なんか癖になりそうだ」
今の俺の目は間違いなく不審者や変質者、変態のそれを見る目だろう。俺の引きつった顔を見て自分の発現の気持ち悪さを自覚したのか、慌てて取り繕う。
「いや、うん。さっきからずっと気持ち悪いことを言っているししていると自覚はしているんだよね、襲い掛かって裸になって見せたり匂いが癖になると言ったり……擁護のしようがないくらいに気持ち悪いのは。けど仕方ないんだよ、どういうわけか身体が女であることに引っ張られて趣味嗜好が変わってるみたいなんだ」
果たして言い訳になっているのかいないのか。恐らく言い訳になってはいない。
「趣味嗜好が変わってる?」
「まずは味覚が違うんだよ。あとはものを触った時の手触りも、耳もよくなってる気がするね。とにかく五感全部が鋭敏になっているみたいなのさ。アレの時の感度が女性の方が高いっていうのはあながち間違いでもなさそうだね」
「まさか、お前」
「あ、いや違う違うっ! 流石にそんなことを試す勇気は僕にはないさっ」
とても怪しい。
普段のとても高校生とは思えない、大学のサークルじみた性的好奇心を見ているとあれやこれやと自分の身体が女になったのをいいことに試していてもおかしくはない。
「人が心配して来てやったって言うのに随分とお気楽な奴だな、あぁ?」
「心配、してくれたのかい? ふふ、それはそれは。嬉しいなあ。しかし実際困っていることはあるんだよ、言ったとは思うけれどね。どうやら僕は男性恐怖症になっているみたいなんだ」
「男性恐怖症? いや、俺とは普通に話せてるだろ」
「この部屋に残っている自分の匂いですら気持ち悪くてね。服を着てなかったのも、自分の服を着るのは匂いが嫌だったからなんだ。窓の外に見える男の人を見ただけでも震えが止まらなくなるくらいさ。君に会うのも怖くてたまらなくて連絡を入れられなかった」
それで俺のワイシャツを貸せなんて言って来たのか。男性恐怖症というのは嘘ではなさそうだ。
「学校はどうする?」
兎乃の言った通りだとすれば学校を行くのは勿論、外出すら難しい状況にあるはずだ。
「しばらくすれば、何とか学校に行けるくらいにはしてみせるよ。クロがここに来て、踏み出しあぐねていたきっかけは貰ったからね。ただ、僕がどうしてこんな風になったのかを調べないで学校には行けそうにない。女になりましたなんて、信じてもらえるはずないだろう?」
「まあもっともだな。どうするつもりだ?」
「心当たりがないわけじゃあないんだよね。一つだけあるんだ」
「聞こう」
こほんと咳ばらいをした兎乃は仰々しくベッドに戻り足を組んでふんぞり返る。
「亜人化症候群って、知ってるかい?」
「そりゃあ有名だからな」
亜人化症候群、それは70年ほど前に発見された未知の病だ。主に第二次性徴期を迎えた少年少女に発症しやすい病気で、今のところ治ることはない。一説には宇宙から飛来した未知の粒子を吸い込むことによって発症するとも言われている。
症状としては亜人の言葉の通り、まるで伝承に出て来る悪魔や妖怪などと言った架空の生物とされている生き物と似た性質を持つようになる。それは現代科学では解決できないような超能力じみた能力の開花を差していて、昔は差別の対象とされていたが今となってはむしろそれを個性と取るような取り組みがされている。
大体一万人に一人くらいの確立で発症するらしいが、うちの学校には亜人化症候群の患者が結構いたはずだ。
「けどなあ。性別が変わるなんてあり得るのか?」
「事例はないはずだ。けど、亜人化症候群なんて頭のおかしい病気なんだからあり得ないとは言えないんじゃないかってね。むしろそれくらいしか予想が付かない」
「まあ」
それくらい、亜人化症候群とは解明されていない病気だということだ。何が起こるか分からない。
「母さんに電話してみようと思う」
「そう言えばお前の母さんって――」
「ああ、亜人化症候群を専門に研究している科学者だよ。今や亜人化症候群患者は新時代の可能性とまで呼ばれているくらいだからね。家に帰って来る暇もないくらいに熱心さ、きっと僕の症状を聞いたら飛んで帰って来るに違いないね」
捻くれてるなあ。ふんと鼻で笑って顔を逸らして見せる。
「それじゃあ早速電話をかけて見ろよ」
「…………お、おうともさ。今にでも、電話を掛けて見せようじゃないか。はは、ははは」
「そんなに母親が苦手か。何なら俺が掛けてやってもいいぞ」
スマホに手を伸ばしては引っ込め手を繰り返している兎乃に呆れて溜め息を吐く。スマホを奪い取って『母親』とだけ登録されている番号へと電話を掛けた。ベッドの上では兎乃が「ああっ、何てことをしてくれたんだ君はっ」などと言って嘆いている。
しばらくして、電話が通話状態になる。
「もしもし、月乃さんですか? 狩生九麓です」
『狩生くん? 狩生くんって兎乃くんのお友達の? わざわざ兎乃くんの携帯から電話なんて、どうしたのかしら?』
こうして電話越しにでも聞いていると、今の兎乃の声は月乃さんの声を少し幼くしたようなもので、よく似た綺麗な声をしている。男から女になっても血の繋がりと言うのは残っているものなんだろうか?
「それが、兎乃が男から女になって」
『え』
濁点が付いた「え」だった。凍り付いたかのように電話の向こうからの声が途絶える。
『そ、それっていうのはつまりとうとう男色に目覚めたとか、そういうことかしら? 確かにあの子昔から離すのは狩生くんのことばかりで怪しいとは思っていたのだけどまさかそんなことになってるなんて。でもそれがあの子の決めたことなら――』
とうとう? ちらりと兎乃の方を見ると、こてんと首を傾げている。そっと兎乃から少し離れた。念のためだ。
「そういうことではなくて。兎乃の話だと亜人化症候群の影響で性別まで変わったんじゃないかと」
『亜人化――なるほど、そういうことね? うんうん、実例はないけれどそう言う可能性もあり得なくはないのよね。だとすると元になった空想と言うのは一体……男から女になる生物、いいえそうではなくてこの場合は――』
「月乃さん?」
『へ? あ、ああごめんなさい。私ったらつい夢中に、こんなだから兎乃くんから嫌われちゃうのよね。分かりました、今からそっちに向かうからそのまま待っているように伝えてくれるかしら? それと、できれば狩生くんにも一緒にいてもらいたいの』
「俺も?」
『ええ。あの子と上手く話せる自信がなくて』
「分かりました」
それじゃあ急ぐわね、と通話が切れる。いつの間にか空けた距離よりもすぐ傍まで近づいて来ていた兎乃が、俺のシャツを引っ張って「どうだったかな」と恐る恐るの様子で尋ねる。
「今から来るってさ」
「そ、そうか」
「手を放せ」
月乃さんが来ると聞いた途端にシャツをつかむ手の力が強くなる。
そしてそのまま俺から手を離すことはなく、月乃さんが到着した時に「やっぱり……」としきりに頷かれた。
親友の性癖がノーマルであると信じていいのだろうか、ぶるりと身体を震わせた。