寝とられるなんて、そうそうあるわけないじゃない。…は?え?うそ?
初投稿がこんなんでいいんだろうか。だが後悔はしていない。
ざまぁはわりかしあっさり目。主人公ちゃんに幸せになってほしかっただけ。
最近巷で婚約者が他の女に寝とられるなんて事件がよくあるらしい。まぁ、平民同士の間なら婚約の重要性もそう高くないだろうし、不貞による婚約破棄、なんてものも珍しくないのかしら。
私たち貴族同士の婚約ではそうはいかない。
一例として、この私。ヴァンデシュ辺境伯長女リリエレールの婚約は、私が5歳の頃に決まった。お相手はキューレモ侯爵のご子息、三男のディルク様。私と年が近いのと、家柄的にも利害関係としても申し分ない。そして我が家にはほかに直系の子供がいないため必然的に婿を取ることになるのだが、彼は三男なので我が家に婿入りするのにも障害がない。
なんて素晴らしい政略的な婚約。
これが相手の不貞で破棄、なんてことになったらどうなると思います?
まず、私の被害。相手の不貞なのだからこちらに被害がでるなんておかしなことですが。社交界ではくちさがの無い人が多いこと多いこと。必ず、不貞の原因を知りたがって、事情もろくに知らない人から私に欠陥があったため他の女に惹かれたーなんていう噂が出てくることでしょう。
そしてその噂は我が家の後継者選定にも影響を及ぼしますわね。もともと息子がいない我が家の婿養子を得るための婚約なのに、他の女の腹に種をまくような男はおよびでありませんことよ?だからこそ幼い頃から婚約を結び、教育に携われるようにしたというのに…。この10年の努力が水の泡ですわ。今から新しい婚約者を探すとしても、めぼしい方々はすでに売約済み。もはや親戚から養子をとるしか無いのでは。そしたら私はただ飯ぐらいの役立たずに成り下がりますわね。
では、相手の被害についてお話いたしましょうか。
不貞なんて、相手の非であることは一目瞭然な訳です。当然、婚約を破棄したことによる損害の賠償は相手に求めることになるでしょう。ディルク様の教育に使ったお金もきちんと返していただかなければ。当然でしょう? あの教育は我が家の次期当主に対する投資であって、どこの家のものともわからない女の婿に対してのものではありませんのよ?
そして、これまで相手の領内で盗賊などが出た場合私たちの兵を貸す、なんてこともして参りましたが、それももうおしまいですね。これからは自分達で駆除してもらわなければ。まぁ、他国の侵略を防ぐために鍛えられた我が家の兵と比べれば侯爵家の兵なんて子供もいいとこ。被害は倍ではすまないでしょうが自業自得ですわね。
他にも婚約を前提とした取引なんかはぜーんぶ白紙。財政が苦しくなりそうですわね。私たちには他にも取引相手はいますし、別に困りませんわ。
他にもまだまだたくさんありますが、これくらいでいいでしょう。要は、相手の方が被害は大きくなりそうだということをわかってもらえればいいのですもの。
つまりね、不貞による婚約破棄、なんてことはまともな頭を持つものの間なら起こるわけがない、ということよ。私も相手に不満がないわけではないけれど、だからって浮気をしたりはしないわ。心の奥で、そっとお慕いするかたはいらっしゃるけれど。それだって表に出さなければなにも問題ないし、そもそも出すつもりもないわ。
私たちも来年には結婚。それが終わっても今まで通り家の維持と発展のために仕えるわ。
は? え? うそ?
………いえ、淑女らしくない声を出してしまって申し訳ございません。ただね、少しあり得ないものを見聞きしてしまったものですから。
えっと、ことの始まりはある噂が私の耳に届いたことでした。私の婚約者のディルク様がとあるご令嬢と親しくしている、という。言い遅れましたが、ディルク様は王都の学園に通っておられます。ほとんどの貴族の子女が通うところで、女子は礼儀作法、社交界のマナーなど。男子は領地の経営のための学問や、人脈作りの練習など。それぞれ将来のために自分を磨くところです。
私も一年間通っておりましたが、その後領地へもどっております。辺境を守るものは少し他の貴族と違う知識が必要になりますので。
とにかく、ディルク様はいまだに学園で学んでおられます。本当ならば私と一緒に領地へ帰り一緒に学ぶはずでございましたが、ディルク様の希望と、幼い頃からの教育で大体のことは終わっていたので数年なら構わないと私の父が判断したため学園に残られたのです。
そのディルク様が他の女と親しくしている、ねぇ……。いえ、怒っているわけではありませんよ? 呆れているのです。辺境にいる私には学園の様子などわからないとでも思っているのかしら。幸い、まだ関係を持っているわけではないようなので、醜聞になる前に相手のかたには身を引いていただきましょう。かなり身分の低いお方みたいですし。
えぇ……(ドン引き)。
あれだけ警告したにも関わらず、ついに関係を持ってしまったようで。
……仕方がありません。直接お話しするしか無いようですね。 急ぎ王都に向かいましょう。まだ噂の段階ならば揉み消すこともできなくはありません。しかし……婚約破棄も視野に入れなければ。
そう思って王都にやってきて、婚約者に会おうとしたら不在。夜会へのエスコートもすっぽかされた。これでどうやって火消しをしろっていうの!? ……ふぅ、落ち着きなさい。婚約者がいなくても、いないだけならどうとでもなるわ。最悪なのはここにその女をエスコートして現れること…………!!!???!?
「リリエレール! 貴様との婚約は破棄する! 私はここにいるサーシャと一緒になるのだ!」
「ディルク様、嬉しいです。ここにいる皆さんが証人ですものね! これであなたは自由になれるわ! ディルク様大好き!」
「あぁ、私も愛しているぞ、サーシャ!」
「…………………。」
「む、どうしたリリエレール。さっさと退室しないか。私の婚約者でなくなったお前には夜会に出る資格など無いだろう。それとも、私たちを祝福してくれるのか? 次期辺境伯の私の機嫌はとっておいて損はないからな!」
だれだろう、このひと。
あまりの衝撃に言葉もでない私をおいて意味のわからないことばかりを言う。
……こちとらてめぇの醜聞を何とかしようと駆けずり回ってんだよ。そんなときにとどめをさすようなことをするんじゃねぇよこの能無しが!
こほん。つい仮面が外れてしまいました。でも外に出さなければセーフですよね?
とりあえず私の悪評が広がるのを阻止しなければ。それ以外は、例えば婚約なんかはどうでもいいですがね。
「申し訳ありません。あまりに突拍子の無いことを言われて少々戸惑っておりましたわ。差し支えなければ、そちらのお方をご紹介していただけないかしら。私、そのお方を存じ上げないの。」
笑顔を崩さない、言葉遣いは美しく、語調は柔らかく、背筋を伸ばして。
「サーシャといったろう。そして、彼女を知らないだと? 白々しい。」
「本当に存じ上げませんの。挨拶も受けた覚えはありませんし、どこの家のかたかしら。」
「ひどい! そうやって、わたしの家が爵位が低いのをバカにするのね。最低!」
「サーシャ! ああ、かわいそうに。こうやっていじめられていたんだね。全てはこの女の本性に気づかなかった私が悪いのだ。私を許しておくれ。」
「ディルク様はなにも悪くないわ! あなたも彼女に冷たくあたられて辛かったでしょう? だからもういいの、あまり自分を責めないで!」
「あぁ、サーシャはなんて優しいんだ! 我が最愛のひと!」
「ディルク様!」
「サーシャ!」
なんだろうこの茶番。ああほら、周りの野次馬の方々が目をキラキラさせている。
はぁ、でもこれよりひどい状況のなかで交渉をしたことだってある。やればできるわ、頑張れリリエレール!
「こほん。もうよろしい? サーシャさん。あなたの家名を教えてくださらない? 私が忘れているだけかもしれないわ。家名を聞いたら思い出すかも。だからどうか名乗ってくださらない?」
しかたがないから下手に出てみる。私の印象的に不利になるからあまり使いたくない手ではあるがこうでもしないと話が進まない。
「ふん。しかたないわね。サーシャ・ルッツよ。どう? 思い出した?」
やっと名乗ってくれた。これで話が進められる。
「ルッツ男爵家のお嬢様ね。お初にお目にかかります。私のことはよくご存じのようですが、やはりお名前に聞き覚えがありませんわ。誰かと勘違いなさっているのではなくて?」
「勘違いなわけないじゃない! ディルクの婚約者……いえ、元! 婚約者ね。リリエレール・ヴァンデシュでしょ! 学園で私に嫌がらせをしたじゃない! 知らないなんて言わせないわ!」
「まぁ、嫌がらせだなんて、どうして私がそんなことをしなくてはならないの?」
「そんなの、私にディルクをとられて悔しかったからに決まっているじゃない! どれだけ恥知らずなのかしら、自分のしたことくらい自分で責任をとりなさいよ、見苦しい。」
恥知らずって、あなたが言う? 責任、責任ねぇ。ふふ、ちゃんととりますわ。ですからあなたも自分のしたことの責任をとらなくっちゃ、ねぇ?
態度を崩さず返してあげると、面白いように喋ってくれる。ああ、隣国の狸たちと違ってやりやすいわ。自分が何を喋っているのか気づきもしないで。
「あら、ではあなたは、私の婚約者であると知りながらディルク様に近づき、関係をもったのですか。それも学園で。」
「ええそうよ。だからあなたもそれを知って私に嫌がらせをしたんでしょ。」
「いえ、初めて知りました。」
「……はぁ!?」
ふふ、嘘と本当はうまく使い分けなければね。隠し通せる嘘だけしかついてはいけないのよ?
「私は、1年前に学園を出て領地に帰っております。知っての通り私の領地は辺境で、王都の内情には明るくありません。ましてその中にある閉じられた学園で起きた出来事など到底知りようがありませんの。」
「う、うそ、だってストーリーでは…」
「やはりだれかと勘違いしていらっしゃったの? でも私のことは知っていらっしゃったようですし……。そうだ、嫌がらせというのはどのようなことをいうのでしょう。」
「そ、そうよ! ディルク様に近づくなっていう手紙が届いたり、それから物を隠されたり水をかけられたりするようになったわ! ディルク様の婚約者のあなた以外に誰がこんなことをするっていうのよ!」
「証拠は?」
「へ?」
「証拠ぐらい用意してあるのでしょう? ただでさえ身分の低いものが高いものに対して非を訴えるのです。確固たる証拠がなければそのようなことはしようともおもわないでしょう?」
「と、届いた手紙があるわ! 筆跡を調べればわかるはずよ!」
そういってハンドバッグをがさごそしはじめるサーシャ様。ディルク様はそんな彼女を励ましたり撫でたり髪に口付けたり。…矢面に立って差し上げたりはしないのね。相変わらず受け身なこと。むしろ自分から婚約破棄を言い出すなんてびっくりしたわ。でも全然変わっていないのね。
「あったわ! これよ! あなたが書いたのでしょう!」
そう言って取り出したのはグシャグシャになってはいたけれど確かに「ディルク様に近づくな」という内容が書かれた紙だった。
「私のものではありませんね。」
「嘘よ! じゃあ侍女にでも書かせたんでしょう!?」
「いえ、その紙、学園で使われているものでしょう?」
「へ?」
「学園で使われる紙には薄く学園の紋章の透かしが入っていますわ。グシャグシャになってはいますが、ここからでもその透かしが見えます。学園を去った私にはその紙は手に入りません。ですから、私のものではありませんわ。」
きっぱりと言いきって差し上げた。周りの方もたしかにそうだと頷きながら囁きあっている。
「でも、でもっ! 1年前まではいたのでしょう?そのときの紙を使ったかもしれないじゃない!」
「いえ、ありえません。」
「どうしてそんなことが言えるのよっ!」
「その紙、完全なものですよね。」
「え?」
「なにも書かれていない、完全未使用の紙は持ち出すことを禁じられています。上質な紙は重宝されますし貴族の通う学園で使われる紙ですので、売られたり、犯罪に使われることを防ぐためです。その紙にはその文章以外に何も書かれていませんよね。そして破かれてもいない。ですから、私のものではありませんわ。」
「う、いや…でも…!」
「その紙が発端で嫌がらせが始まったのですよね? そしてそれは私のものではありません。つまり、その嫌がらせにも私は関与していないと考えられますね?」
「でも、ディルク様のことを妬んで……!」
「その事は知らなかったと申し上げました。」
「うぅ……!」
「ほかには無いようですね。では、婚約破棄のことについて少しお話しましょうか。」
私の濡れ衣()はとりあえず晴らされたようなので、決着をつけに行くとしよう。
案の定、婚約破棄という単語を聞くと、令嬢は目を輝かせてこちらを攻撃しようとする。
「そうよ、嫌がらせはあなたじゃなかったかもしれないけど、もうディルクの心は私にあるの! おとなしく諦めなさい!」
「ええ、わかりました。」
「軽っ! えっ? いいの!?」
「婚約解消ならともかく、ディルク様からの一方的な破棄ですもの。私になにかできることがありまして?」
「いや、そうなんだけど…ディルク様が好きだったんじゃ…」
「政略です。」
「えぇ……なにもう、全然違うんだけど……。」
「ディルク様、婚約破棄とおっしゃいましたが、ちゃんと意味は理解していますか? 頭ははっきりしていますか? 大丈夫ですか?」
「ば、バカにするな! お前のそういうところが嫌いなんだ! 婚約は破棄だ。これは決定事項だ! サーシャをこんなにうろたえさせて…次期当主についたらおぼえていろよ! お前なんて追い出してやるからな!」
あらまぁ、ここまでおバカさんだったかしら。
「かしこまりました。では最後に二点だけ…いや三点、やっぱり四点…? んん、際限が無さそうなのでやはり二点申し上げますね。まず一点目。」
そして私はそれまで意図的に浮かべていた笑みを消してひたとディルク様をみつめた。
「先程も申し上げましたが、この婚約は政略的な意味がとても強いもの。婚約破棄における双方の被る被害をお考えになったことは。」
「は?そんなの、お前が行き遅れるくらいだろう。」
「それだけならば政略とはいいません。そうですね、ざっと思いつくだけでこれくらいあるでしょうか。」
そうして私は予想される被害を、とくに侯爵家のほうの被害を重点的に懇切丁寧に説明して差し上げた。
「……そしてその影響により侯爵領の産業のおよそ六割が打撃を受け、経営が困難になり、うち半数が倒産。そして物価が……」
「ちょ、ちょっと待て、なんでそんなことになるんだ! ただお前が婚約者でなくなるだけだろう!?」
「……二点目にする予定でしたが、あなたはなぜ婚約破棄後も自分が辺境伯になれると思っているのですか。婚約破棄にともないあなたが我が家を継ぐ話もなくなりますよ。」
「……………………?」
意味がわからないとばかりにキョトンとして首をかしげる様子はなかなか可愛らしい……これが成人間近の男性でなければ。ああ、あまりのバカさ加減に無意識に現実逃避を。
「なぜ意味がわからないという顔をしているのかこちらこそ理解に苦しみます。我が家と侯爵家に血の繋がりはまったくといっていいほどありません。その家の三男のあなたが、なぜ我が家の直系の私との婚姻なくして当主となれるのか?普通に考えればわかりそうなものですが。」
「だ、だがっ! 私は幼い頃から次期当主となるべく教育をうけてきた! 教師からも現当主からも優秀だとのお墨付きだ。私以外にだれが当主となれるのだ!」
「それでも、です。しかも優秀だと言われていたのは数年前まで。今は領で受けなければならない教育からも逃げてその令嬢とお楽しみをかさねていたのですよね?」
「こちらに残るのには辺境伯からも許可をいただいたはずだ!」
「きちんと勉強に励んでいたらこうは言われなかったはずですよ。さて、話がだいぶそれてしまいましたが、あなたが我が家を継ぐことはありません。これが二点目です。この二点、ご理解いただけましたか?」
「ふざけるなよ貴様! そうやって私を惑わすつもりだろう。だがなんと言われようとサーシャと一緒になるという私の決意は変わらない。残念だったな!」
「そうですか。では、もともと拒否するつもりもありませんでしたが、婚約破棄承りました。この場の皆様が証人となってくださるでしょう。」
「ふん、せいせいしたな! ……サーシャ、やっと君に正式に申し込めるね。私はこれから辺境伯となってあなたに不自由な思いはなに一つさせないことを誓うよ。だから私と結婚してくれますか?」
「まぁ! 嬉しいですわディルク様! 喜んでお受けいたします!!」
感極まったように抱き合う二人。そしてあの女はちらりと私に視線をやり、ニヤリとわらった。
(計画通り! …とでもいいたいのかしら。そうね、計画通りね、私の。)
「皆様、お騒がせして申し訳ありませんでした。このような騒ぎを起こしてしまったことでもありますし、私はこれで退室いたしますね。ごきげんよう。」
私がいなくなれば、少しでも事情を知りたい他のお貴族様方がバカップルに接触するでしょうし。あとはお二人がいい感じに自分の愚かさを宣伝してくれれば完璧ですね。それにしても、まさか私が婚約者を寝とられるなんて。どの階級にもああいう愚か者はいるのですねぇ………。
その後のお話になりますが。思っていたよりも私に対して同情する声が多くなり、一番の懸念であった私に対する悪評は流れませんでした。むしろあの愚か者に自分の状況を教えて引き返すチャンスを与えた慈悲深い令嬢として噂になっているとか。だれそれ。
噂には尾ひれがつくものとは言いますが、優しくたしなめる様子は聖女のようだとか心を鬼にして相手の非を諌める素晴らしい人だとか浮気相手をやり込める様子はスカッとするとか……最後のはまぁ……。しかし、私の評価は下がるどころかそのような噂のせいで上がりっぱなし。新しい婚約者もすぐに決まりそうなほどの勢いです。そんな私は現在お見合い中。
「はじめまして。ヴァンデシュ辺境伯が娘、リリエレールでございます。」
「はじめまして。…といっても私はあなたの姿を見知っているのだけれどね。」
そういって微笑むのはロイネット公爵家の次男、ウィルコット様。留学していたが、最近我が領と接している隣国の学園から帰ってきたそう。だから初対面だと思ったのだけれど。
「あら、申し訳ありません。どこでお会いしたのかしら。」
「覚えていなくても仕方がないよ。幼い頃、ここに遊びに来たことがあるんだ。近くに別荘があってね。」
彼はそのときのことを話してくれた。話が進む度にもしかして……という思いが膨らんでいく。だってそれは、私の一番大事な思い出。私の初恋のきっかけだったもの。
それは婚約がきまって何年かたった頃。婚約の意味を理解し始め、ディルク様と良好な関係を築こうと。政略だとしてもディルク様と愛を育もうと頑張っていた頃だった。
女の子の方が精神が成熟するのが早いという。あれも、そのせいだったのかもしれないと今ならそう思えるが、当時はとてもショックを受けたのだ。ディルク様に喜んでもらおうと一生懸命作ったクッキー。それをあの方は食べずに捨てて、踏みつけたのだ。
「_____!」
その時何て言われたのかも覚えていないのに、そのときの悲しみとショックの大きさだけは鮮明に覚えている。そして彼は走り去ってしまい、クッキーの残骸の前でぼうっとしていると、館の方から男の子が現れたのだ。
とっさに私はしゃがんで顔を隠した。もしディルクだったら、私の泣き顔なんて見られたくなかったから。
その男の子は私に近づいてきて、しばらく私のそばにたたずんでいた。そして唐突に私の頭を撫でられる感触がして、驚いて顔をあげたらそれはディルクではなく、見たことのない男の子だった。
「…なにしてるの………?」
意味がわからず思わずそう尋ねてしまった。すると彼は、
「悲しいときはね、こうしてもらうといいんだって。」
「でね、思いっきり泣くといいんだよ。」
「そうするとね、悲しいのがぜーんぶ流れていって、スッキリするんだ。」
そういいながらずっと私の頭を撫でていてくれた。
私はなんだか無性に胸が苦しくなって、そのまま彼にすがりつくようにしてわんわん泣いてしまった。
その後寝てしまったのか、気がついたら自分の部屋でベットに横たわっていた。その頃から学ぶことは多くとても忙しかったし、なんとなく男の子のことを聞く気になれなかったので結局どこのだれかはわからなかったのだが。
そんな幼い頃の思い出と、彼の語る話は見事に一致していた。
「………あんな可愛い子に手作りのお菓子をもらったのに、なんてひどいことをするんだって思って。気がついたら女の子のもとに近づいていたよ。最初彼女は泣き顔を見られたくないのか顔を上げてくれなかったけど。それでね、僕は……え、ちょっと、どうしたの! ごめんね、こんな話して、思い出したくなかったよね!」
気がついたら私の目からは涙が流れていた。でもこれは…
「違います、確かにあのときはショックでしたけれど…。これは、多分、嬉し涙です。もう会えないと思っていたから……私の婚約者はディルクで、どんなにこがれても、あの人とは、こいびとに、なれないとおもって、だから、ずっと、かくさなきゃって、」
まるであのときみたいに泣きじゃくる私に、慌てていた彼は嬉しいような困ったような顔をして。やっぱり優しく私の頭を撫でてくれた。
「無理に泣き止まなくていいよ。たくさん泣いて、全部流してしまえばいい。どこぞの侯爵家の三男のことなんてすっかり忘れてしまえばいいんだ。」
ああ、やっぱりこの人だったんだって、私は泣いているのに嬉しくなって泣きながらわらった。とっても不細工な顔だったと思うけれど、しばらくあとに彼にそのときのことを聞くと。
「あんなに可愛い人はこの世にいないだろうなぁって思っていたよ。」
なんて言うんだもの。やっぱり、だいすき。
その後トントン拍子に私たちの婚約はまとまり、一年後に婚姻を結んだ。私たちの仲はとても良好だ。そして彼は次期領主としてとても有望だった。
彼が留学していた間に築いた人脈のおかげで、隣国との交渉は大分やりやすくなった。隣国の文化や貴族に詳しい彼の知識や人脈は、国境に接する我が領にとってとても貴重なものだ。彼自身ももちろん優秀なので、領主教育も、数年で問題なく終わらせることができるだろう。
そうそう、これは全く関係ない話なのだけれど。とある侯爵家の三男が度々我が領に襲撃してくるのです。なんでも、「正当な後継者は俺だ!」とかなんとかいって。
噂に聞くと、ちゃんとした婚約者がいたにも関わらず、浮気してその女と一緒になろうとしたとか。その女というのが、男爵の娘だっていっていたけれど、実際には妾の子らしかったのね。男爵にはとうに見限られている上に男爵家には正当な跡取りもいるため婿入りもできず、かといって三男だから家を継ぐことも家にいることもできない。
だからといって、八つ当たりのように突撃してくるのはやめてほしいわ。今度やってきたら捕らえて別々に実家に送って差し上げましょうね。こんな危ないひとを野放しにしないでほしいわ。私は旦那様とイチャイチャするのに忙しいの!
裏切り? 愛? なんのことかしら。昔も今も愛しているのは旦那様だけですし、裏切ったのはあなたの方。ではさようなら、二度とこないでくださいませ。ここにあなたの居場所はありませんわ。
そして、そこの方。私の旦那様に色目を使うのはやめてくださいまし。まぁ、旦那様に限って寝とられるなんてことはありませんね。だってこの方、ずっと私に片思いしてらしたんですって。婚約者も断り続けてずっと思ってくださっていたの。羨ましいの? でもあなたにはその方がいらっしゃるでしょう? 素敵じゃない。身分もなにもかも捨ててあなたを選んでくれるなんて。
あら、あなたもお迎えの方がいらっしゃったわ。ではごきげんよう。もう二度と会うこともないでしょう。
幼い頃の思い出って、何があったかわからないけどやけに感情だけ覚えてたり、ピンポイントの事柄だけ覚えてたりしません?