一
俺の名前は、えっと、なんだったか。思い出せない。ああ。そっか。いつもそうだったかも知れない。だがコードネームは覚えている。キリツギ。そう。そうだ。俺は自分をキリツギと呼んでいる。二十歳の男で軍国主義普及委員会の生体兵器実験部隊に所属しそこで与えられた死んでも必ず生き返るという能力を使って実験という名の作戦に参加している。
俺は港湾地区にあるしんと静まり返った巨大な倉庫の中の一角で外で静かに鳴っている波音を聞きながら自分の中にある自分に関する記憶を反芻していた。
「何を考えてるの?」
甘えるような媚びるようなとろっと溶けてしまいそうな女の声が耳元から聞こえて来た。
「自分の事だ。俺はお前と違って死ぬ前の記憶が残らない。だからこれはたぶん俺の原初の記憶という物だと思う。俺には何があってもこれだけは必ず覚えているという記憶があるんだ。いや。覚えているとかじゃないのかもな。そう作られているとかなんだろう」
「ふうん。じゃあ、アクの事は覚えてる?」
俺の隣に座っている女の名はアクレイギア。覚えているのはブリーフィングで聞いたその名前と持っている技術や能力と俺と同じ実験部隊に所属し俺と同じように作戦に参加している奴という事だけだ。
「俺と同じ実験部隊にいる」
「それだけ?」
俺はアクレイギアの方に顔を向けた。薄闇の中で綺麗な碧眼が微かに差し込んでいる月明りを受けてきらきらと光っている。俺は吸い寄せられるようにアクレイギアの瞳をじっと見つめてしまった。
「うふ。熱視線。で?」
何も覚えてなどはいない。俺はそう思いつつもアクレイギアの事をなんでも良いから思い出そうとしてアクレイギアの顔をまじまじと見た。切れ長な目は意志の強さを感じさせるがその下にある鼻は綺麗に整った形をしていて目の印象をうまく尖らせないようにしている。かわいくふっくらとしている唇は薄い桃色をしていて少しかさついていた。
「すまない。覚えてない」
「あーあ。凄いショック。アクはこんなに君の事が好きなのに。アクの唇の味も忘れちゃった? 他の事も? もっとたくさん色んな事した事も?」
アクレイギアが体を寄せて来るといきなり抱き付いて来た。
「おい。何をしてる。今は作戦行動中だ。やめろ」
俺は慌ててアクレイギアから離れようとした。
「平気だよ。ていうかさ。アクは君の恋人なんだけど? そんな態度で良いの?」
なんだと? 今、俺の恋人だと言ったのか?
「ちょっと待て。どういう事だ?」
「どうもこうもない。そういう事。君とアクは恋人同士。深い深い仲って事」
おい。俺。なんだってこんな、記憶もなくなるし危険な事もやってるのに恋人なんて作ったりしたんだ?
「二人とも、何をしているのかしら? 近くまでお客さんが来てるわよ。アクレイギア。毎度の事だけど、キリツギをからかうのはやめた方が良いわ。キリツギ。アクレイギアは噓つきだという事を覚えているように核を改造してもらった方が良いと思うわ」
耳に装着しているインカムから実験部隊作戦統括部のオペレーターの女の声が聞こえて来た。
「ちぇっ。なんで言うの?」
「あなた達の会話の内容を聞かされているこっちの身にもなって欲しいわ。アクレイギア。悪趣味過ぎよ。あなた達は普通の人間じゃないのよ。冗談でもそういう事はしない方が良いと思うわ」
普通の人間じゃないか。その通りだ。
「アク達の事大して知らないくせに嫌な奴ね」
アクレイギアが冷たい声で呟くと俺から離れた。数人分の足音が俺達のいる倉庫の入り口に近付いて来ているのが聞こえた。
「来たな」
「そうね。ねえ。少し遊ぼっか? アクが変身して相手を驚かせてから殺すの。どう?」
「お前の言う事はもう聞かない。嘘つきらしいからな」
俺は携帯しているサプレッサー付きのサブマシンガンをいつでも撃てるように構えると入り口の扉が開かれるのを待った。
「酷い。そんな事言うならなんかあっても助けてあげないからね」
アクレイギアが拗ねた声を出す。助けるとは笑わせる。
「最後は証拠隠滅の為に自爆だぞ。どうやって助けるんだ?」
「何その言い方かわいくない。ちょっと騙したら怒っちゃって。アクも怒るからね。今日はアクが先に撃つ。自爆もアクが先にする」
入り口の扉が軋みながら開き始めた。
「ここで良いの?」
「ここのはずだよ」
「誰かいますか?」
「おーい」
子供の声? どういう事だ? 標的は武装した兵士だと聞いていた。
「子供の声だよ? どういう事?」
「すぐに確認する」
俺はインカムに向かって状況を伝えた。
「なんだって?」
「雑音が酷くて何も聞こえない」
「アクも聞いてみる」
「どうだ?」
「駄目。ざーざーいってるだけ」
倉庫の中に子供達が入って来た。きょろきょろと辺りを見回しながら俺達の潜んでいる奥の方に向かって歩いて来る。
「四人だね」
「ああ。どうするか。ここで静かにしてればやり過ごせそうだが標的である兵士達が来たら困る」
「あの子達が兵士とかってないよね?」
「少年兵とかいう奴か。俺には記憶がないから分からないが、今までにああいう子供達と戦った事があるのか?」
「ないけど、今までブリーフィングで聞いた情報が間違ってた事なんて一度もないよ。ひょっとして見た目だけ子供で中身は違うとか? アク達みたいなものいるんだもん。同じようなのだったりして?」
俺は子供達の姿を注意深く観察した。全員が十歳前後の男の子のようで武装などはしてはいないように見えた。
「どうするの?」
「判断しかねるな。アクレイギア。お前はどう思う?」
一秒にも満たない沈黙の後、アクレイギアが突然立ち上がり子供達の方に向かって数歩進んだ。
「おい。何してる。早く身を隠せ」
「君達。ここに何しに来たの?」
アクレイギアが俺の言葉を無視して声を上げた。
「出たー」
「幽霊」
「ぎゃあー」
「許してー」
子供達が驚き混乱して騒ぎ始めた。
「アクレイギア。なんて事するんだ」
「直接聞いた方が早いと思って」
アクレイギアが答えた瞬間、アクレイギアの右肩が血飛沫を上げて吹き飛んだ。
「アクレイギア」
アクレイギアの体が撃たれた反動で回転しながら倒れて行く。俺はその体を受け止めると物陰に引っ張り込み床の上に寝かせた。
「いったーい。やってくれた」
「自業自得だこの馬鹿。子供達は撃ってない。どこから撃たれたか分かるか?」
「倉庫の外から。微かに光ったのが確かに見えた。あの子供達は囮かも。外に行く。殺してやる」
アクレイギアが苦痛で顔を歪ませながら怒気を孕んだ声で言い立ち上がろうとする。
「待て。俺が行く。お前はここにいろ」
「嫌だ。撃たれたのはアクだ。殺してやる」
アクレイギアの体が不気味な音をたてて変形し始めた。
「子供に化けて行く。小さくなるから怪我も消せる」
「落ち着け。そんな事をしたらあの子供達を巻き込むかも知れないぞ」
「どうでも良い」
アクレイギアの変身が終わった。アクレイギアの姿はどこからどう見てもただの小さな男の子の姿になっていた。
「全員殺したら自爆する。君は好きにして」
アクレイギアが上半身を起こした。
「待て。おい。アクレイギア」
「邪魔すると殺すよ?」
アクレイギアが体が小さくなった事でスリングが肩から外れ床の上に落ちてしまっていたサブマシンガンを素早く拾うと俺の額に突き付けて来た。
「そんな事で俺が驚くと思うのか?」
俺はサブマシンガンの銃身をそっと掴んだ。
「ごめん。ついかっとなった。でも、邪魔しないで。そうだ。良い事思い付いた。君は子供達の相手しててよ。それなら良いでしょ?」
アクレイギアがサブマシンガンを俺の額から離した。意識を子供達の方に向けると倉庫の中に響いている悲鳴と泣き声が俺の耳に入って来た。
「お前が子供達の方を見ろ」
「ブリーフィングの時に言ってたでしょ。アクの方が殺すの上手なんだよ? アクよりも早く相手を全員殺す自信ある? もたもたしてたら子供達が死んじゃうかもよ?」
アクレイギアがいたずらっ子のような笑みを顔に浮かべた。
「この状況で良く笑えるな。確かにお前の方が殺すのはうまいらしいが今のお前は怪我をしてるだろ?」
「ありがと。アクが相手なのにそういうアクを行かせないって思ってくれるとこ大好き。けど。全然平気だから。小さくなったから怪我の分は帳消し。知らないでしょ? 小さくなると肉とか血とか余るんだよ。その分はなくなっても平気なの」
アクレイギアがなんの前触れもなしに不意打ちで俺の唇に唇を重ねて来た。
「お、おい」
「うふ。今、アクは男の娘だから。ねえ、興奮した? 目覚めちゃった? 目覚めちゃった?」
何が男の子だからだ。こいつ、大丈夫か?
「心配して損した。本当に怪我は平気なんだな?」
「平気だって言ってるでしょ。あ。分かってると思うけど、子は娘の字の方だから」
何を言ってるんだこいつは?
「じゃあね。また後で」
アクレイギアが散歩にでも行って来るというような感じの声で言うと立ち上がり倉庫の入り口に向かって歩き出した。俺は気を付けろよと叫ぼうとしたがアクレイギアの姿はもう敵に視認されているはずだと思うと慌てて口を噤んだ。
「まったく」
俺は小さな声で呟くと物陰に隠れながら子供達のいる方へと進んで行った。子供達は三人が一緒に同じ場所にある物陰に隠れていて一人だけが外に逃げようとしたのか入り口の扉の近くで蹲っていた。
「おい。お前ら大丈夫か?」
まずは三人の方へ行きできるだけ刺激しないようにと意識しながら声を掛けた。
「うわー許して」
「殺される」
「さっきの銃声? おじさん悪い人?」
俺の方を見た子供達が一斉に声を上げた。おじさんって。俺はまだ二十歳なんだがな。
「しー。静かにしろ。俺は敵じゃない。何もしない。今、俺の仲間が撃って来た奴らの所に行ってる。しばらくこのまま隠れていれば終わるから言う事を聞け」
「殺さない?」
「怖いよ怖いよ」
「ここにいれば良いの?」
子供達の声が先ほどよりも小さくなった。
「殺さない。大丈夫だ。お前らはとにかくここで大人しくじっとしてろ。俺はあの子を連れて来る」
俺は入り口の扉の近くで蹲っている子供の方に顔を向けた。
「レブは殺されちゃう?」
「おじさん早く」
「お願いレブを助けて」
子供達が泣きそうな声で懇願して来た。
「安心しろ。すぐに連れて戻る」
俺は笑顔を作る訓練もして欲しいものだ、などと思いつつ子供達を安心させようと顔の筋肉を引きつらせながら笑顔らしい物を作るとできるだけ優しい声で言ってから入り口の扉の近くにいる子供の方に向かった。
「おい。大丈夫か?」
俺が入り口の扉の近くにいる子供の傍まで行き声を掛けたのとほとんど同時に倉庫の外から連続して鳴る激しい銃声が聞こえ始めた。
「怖いよー。やめてー」
蹲っていた子供がいきなり立ち上がると倉庫の外に向かって走り出してしまった。
「駄目だ。そっちは」
俺は急いで追いかけた。子供は銃声の轟く中をわーっという叫び声を上げながら走って行ってしまう。早く取り押さえないとまずい。アクレイギアは子供に変身している。早くしないとあの子も狙われ撃たれてしまうかも知れない。前を行く子供の姿がふっと消えたと思うとどぼーんという音がして水飛沫が上がった。何事かと思う間もなく俺は子供が海に落ちたのだと理解した。
「すぐに助けるからな」
俺は水の中でもがいている子供に向かって叫ぶと走っていた勢いのままに海に飛び込んだ。飛び込んでからはっとした。俺、泳げたっけ? ……。駄目だった。俺は泳げなかった。死んだら記憶がなくなるんだからそういう事は伝えておけ馬鹿野郎。もぶふ。もががががが。いや。もう。アクレイギアに俺の前を走っていた子供。本当に本当に申し訳ない。俺はここで終わりらしい。なんだよこれ。こんな終わり方かよ。ごふっ。息が。もう、でき、ない。




