幻仇
振り上げた短刀が、
喉元へは、届かずに。
そのまま短刀を叩き落された手は、引き寄せられて、
お香は心ごと崩れてゆく想いに泣き叫んでいた。
「離し・・死なせて、もう死なせて・・!」
それが、
胸内でなおも微笑みかけてくれる弟への、懺悔の叫びであればあるほど。
痛ましいその声を、
聞きながら沖田はお香の、その小さなからだを腕にきつく抱いた。
「駄目だ、刺すなら私を刺せばいい」
手にかけたその男を。
多数の激戦の中で沖田は思い出すことさえできなかった。
その場に隠されていた姉は、その時の弟の変わり果てて行く姿も、
弟を殺す沖田の姿も、
消し去ることもできない記憶のなかに刻み付け、二度と逃れ得ることも
叶わぬのに。
復讐を誓い、沖田へと近づいたお香が。
だが、
本当の罪は、―――殺しあうその罪は、
もっと別の場所にあることに。気がついたとき。
眠る沖田の隣にいながら、お香はその短刀を彼に向けて構えることが、
できなくなっていた。
罪深い、そして罪のない
この愛しい人を。
殺せぬのなら。
せめて弟の元へ行って詫びようと、
苛みの日々の果てに。お香は自身へ向けて短刀を手に取った。
沖田は泣き崩れるお香を腕に、もし己が偶然にも目を覚まさなければ、
お香が今頃どうなっていたかを。
思い。その恐怖に、愕然とした。
「・・・貴女の弟が、私に知らせたんだ」
「そんなこと・・っ」
お香が沖田の言葉を突き放した。
だが、気休めではなく。沖田は真にそう感じていた。
偶然、目が覚めた時すでにお香は短刀を彼女自身の喉元へと
振り上げるところだったのだ。
もし、あと一寸遅かったなら。
「お香、」
貴女の弟はきっと何も望んではいない
それを声にすることはできず、
沖田は、ただ、腕の拘束を緩め。お香の頤をそっと持ち上げた。
「私の代わりに貴女が死んでも弟は喜ばないだろう。
刺すなら私を刺せ。貴女にだったら刺されても構わない、」
だからもう二度と、こんなまねはするな
そう祈るように。再びきつく抱き締めたお香のからだが、
泣きながら小さく震えた。
「私をいつまでも狙い続けていればいい」
その日が、くるはずもないことを。
だが、沖田もお香も知っている、
お香がもしかしたらこの世で唯一、
沖田に刃を突き立てることのできる存在だとしても。
「正、許して・・、・・正・・」
弟の名を呼びながら、お香は幾度もしゃくりあげた。
自分を力強く抱きとめる弟の仇へと。
裂かれる心を抱えたまま、縋った。