急変
先生は、ぐいぐいわたしの手を引きながら、どんどん足を速めていく。
「くそっ!」
露骨に、毒づいているのがわかり、わたしはびくっとする。
「なんでこんなときに……!」
あとは口のなかのつぶやきとなり、聞こえない。
「先生!」
「タクシー!」
大通りに出たとたん、先生はタクシーをつかまえる。
転がるように乗りこんで、肩で息をする。
「先生、わたし、気分を害するようなことを……」
したんでしょうか、とききかけて、先生の異変に気づく。
首がぐらぐらと揺れているのだ。
握っている手も、猛烈に熱くなってきている。
「きみのせいじゃ、ない」
先生はしっかりとわたしを見ようとしているようだけれど、その瞳も揺れていた。
「黙ってください、先生」
明らかに具合が悪いのだ。
背中に手を添えるようにすると、先生は少し落ち着きを取り戻した。
わたしのほうにもたれかかってくる。
頭を抱くように支えた。
目を閉じるようにいうと、素直にそうする。
体調が悪かったのに、気づかなかったのだ。
先生自身でも、このくらいなら平気だと思っていたのだろうか。
それとも、昨日の食べすぎ飲みすぎも、原因のひとつなのだろうか。
本当に、鈍感な自分が、いやになる。
運転手さんに、できるだけS駅に近いルートを通ってもらうように頼んだ。
先生のからだが熱い。
重かったので、ひざを貸した。
こんな形で、わが人生初のひざ枕だ。
この状態なら、先生の記憶に残らないかもしれない。
そんな余計なことを頭の隅で考え、もう一方の頭の隅で時間と場所を気にする。
裏道を使ったおかげで、いくぶん早く先生のお宅に着いた。
肩を貸すようにして、タクシーから降り、なんとか先生の部屋までたどり着く。
初めて先生の寝室に入り、からだを横たえ、衣服を緩めてやった。
「すまない」
荒い息で、詫びられた。
わたしは首を横に振り、体温計で高熱があることを確認すると、冷えたタオルで頭を冷やす準備をした。
「おやすみになれるようでしたら、眠ってください」
額にタオルをのせ、耳元でいうと、先生はわずかに頭を動かしてからまぶたを閉じる。
とりあえず安堵したものの、心配で帰るどころではなくなってしまった。
せめて熱が下がるまで、先生の看病をしていたい。
先生が、うわごとのようなことをいった。
口元に耳を持っていく。
「リリカ……」
先生が、人名らしきものをつぶやく。
「悪かったよ、リリカ……」
ぼくを赦してくれ、
そう確かに聞こえた。
誰なのだろう。
昔の女のひと?
それとも、奥さん?
胸がずしりと重くなる。
でも、いまはいちいち詮索している場合ではない。
うなされるほどの高熱は、わたしでは対処できない。
それだけははっきりしている。
「どうしよう……」
こういうときに、医学知識のひとつでもあればいいのだろうに……。
先生は、大ごとにはしたくないだろう。
救急車を呼ぶようなことはしたくないのだろう。
でも、この場合、どうしようもない。
スマホを取り出し、タップしようとして、あ、と声をあげた。
綾乃ちゃん!
確か、ご家族に、お医者さんがいらしたはず!
迷うことなく、番号を入力した。
数回のコール音のあと、綾乃ちゃんが出てくれた。
『どうしましたの、綾乃ちゃん』
「あのね、先生が大変なの」
『しっかりしてください、泣かないで……。
いったいどうしたんですか』
「先生が急病で、熱がすごくて……」
簡単に理由を説明した。
『わかりました。
懇意にしている先生がいらっしゃるので、そちらに往診をお願いします。
すぐ着くと思いますので、しっかりなさってください』
「綾乃ちゃん、ありがとう……」
『いえ、わたしも先生といのりちゃんのことが心配ですから……。
落ち着いたら、理由をうかがいますけれど』
頑張ってください、と綾乃ちゃんは告げ、電話は切れた。




