風雷作戦 陸の王者達
1937年7月19日午前11時
扶桑帝国軍は攻勢を開始した
後方を荒らしていたレジスタンスが自由共和国のレジスタンス狩りによって狩られつつあり、物資や兵員の輸送・移動の心配があまり必要では無くなった為、掻き集められた稼働する車両を中心に再編成された突撃部隊が多数の重砲や航空隊の支援の元合衆国軍の防衛線を突破、前進しつつあった
だが合衆国軍も学んでいた、事前に防衛線から引き揚げていた戦車部隊を中心に迎撃部隊を編成、温存していた航空隊と共に迎撃に出たのである、これに扶桑軍戦車隊も答え大戦において最初で最後の大戦車戦が繰り広げられる事となったのである
1937年7月21日午前10時
セント・ジョージ市近郊
この日から大戦車戦が始まった
始めに交戦した戦車は合衆国軍はM4A3E8戦車『イージーエイト』、扶桑軍は35式中戦車改3型『チハ・薙刀』だった
『イージーエイト』はセント・ジョージ守備隊に配備されていたM4シリーズの傑作でヨーロッパでゲルマン軍相手に好成績を出していた52口径76.2ミリ戦車砲を搭載している戦車で12両が歩兵の支援の元迎撃に出てきた
『チハ・薙刀』は主砲を弾薬の都合からサンディエゴで生産されたり鹵獲した52口径76.2ミリ戦車砲に換装した物で、機動力が高い事から主に偵察部隊を中心に配備されていた、因みに薙刀とはとある戦車兵が換装した主砲を見て言った一言が元で愛称として定着した...この場には7両が出てきていた
『イージーエイト』は歩兵の支援を受けつつ自軍の重砲の射程圏内に引き込むべく機動戦を展開し、『チハ・薙刀』はそれに付き合ったが重砲の砲撃を受け1両履帯が外れ即座に退避、これ以降両軍ともに積極的な行動は起こさず本体の到着を待つ事となった
初めに到着したのは合衆国軍迎撃部隊の重戦車部隊だった、尤も迎撃部隊が動く前に扶桑軍も重戦車部隊が到着したので拮抗状態になった
この時の両軍の戦車隊の主力は、合衆国軍はM26E5A3重戦車『ファイティング・パーシング』とM38対戦車自走砲『ストーンウォール・ジャクソン』、扶桑軍は36式主力戦車改2型『チリ・小太刀』と9式主力戦車改5型『シロ・太刀』に支援車両で9式支援戦車改1型『オロ車・クリス』が付いていた
合衆国軍の『ストーンウォール・ジャクソン』はM36を基に主砲を120ミリ砲に換装した対戦車自走砲で『ファイティング・パーシング』は『パーシング』に改良を重ねに重ねた重戦車で戦局打開の切り札だった
扶桑軍の『チリ・小太刀』は90ミリ砲を新型の砲に換装し前面装甲を増やしエンジンを新型に変えるなど改良された車両で、9式主力戦車改5型『シロ・太刀』は『チリ・小太刀』と同じように改良が施された新型だった、『オロ車・クリス』は主砲を120ミリ砲から新型の高精度高貫通力を誇る100ミリ砲に換装した物だった、因みに『小太刀』と『太刀』という追加名は『チハ・薙刀』の事を聞いた戦車兵が基本コンビを組んで出撃するチリとシロへの愛を込めて命名したものが正式名になったもので、『オロ車・クリス』は東南アジア方面軍に配備されたオロ車を現地で改造した際に使い勝手が良かった事から現地の刀剣になぞらえて命名されたものだった
役者が揃ったことで始まった戦いは始めは防衛の合衆国軍が優位に立っていた、扶桑軍は連戦続きで戦車自体にガタが来ているのが多かった事、合衆国軍は地理を知り尽くしていたのと戦車の数が上回っていた事や単純に戦車の主砲の大きさが上回っていた事が主な理由だろう、しかし扶桑軍も随伴の歩兵部隊が奮戦し合衆国軍戦車隊を食い止めており迂闊にも突っ込んできた戦車を複数地点からの対戦車砲や携帯式の37式対戦車噴進砲を同時に叩き込むなどして撃破していった
そして戦闘が暫く続いていた際に、1両の見慣れない戦車が現れ砲撃を開始した
その砲弾は重装甲で扶桑軍を苦しめていた合衆国軍の『ファイティング・パーシング』を1発で爆発四散させると従来よりも遥かに速い速度で砲撃し始めたのである
その戦車は史実に置いてT-55と呼ばれる戦車の欠点を補ったもので半自動装填装置を取り付けた試作車輛、同盟陣営次期共通主力戦車『HKKSKー3』扶桑国防研究所戦車研究部の頭文字と試作番号が割り振られた試作車だった
攻勢に間に合わせる為、部品の取り付け工事を輸送船内で行うなどの苦労しながらも持ち込んだ主力戦車候補の1両だった
合衆国軍にとってさらに災難だったのは制空権を扶桑軍に握られた事だろう、戦闘が始まる前から熾烈な制空戦が繰り広げられていたが、一度合衆国軍航空隊が補給等でいなくなった隙に扶桑軍航空隊の温存していた爆撃隊を展開し前線飛行場を空爆し一時的に使用不可能に追い込んだのである、それにより地上攻撃機や対地掃射機と呼ばれる大型地上攻撃機を展開し合衆国軍に攻撃を開始したのである
その攻撃は後に『鉄の暴風』と呼ばれる程苛烈なもので、そのあまりの惨状に合衆国軍は撤退するしか無く、扶桑軍が勝利し戦線を押し上げる事となった、しかし扶桑軍も弾薬や車両などの物資を始めとする戦闘を行う上で必要なものが払拭しておりもう限界だった
4日間続いた戦闘は扶桑軍の粘り勝ちで幕を下ろし戦線はさらに拡大していった、合衆国内では戦争継続は困難として講和派や融和派が動き出した
そしてアメリゴ合衆国では重大事件が発生した
合衆国内各地の都市で強制労働に従事させられていた黒人等の有色人種の民衆の反対運動に対し軍や警察等の治安維持組織が発砲、規模こそ小さいが自衛の為民衆も反撃
後に『大暴動』と呼ばれる史上最大の暴動の始まりだった




