ガリアの落日
「我がガリア共和国は同盟陣営構成国の1つである扶桑帝国に対し降伏を申し出たいと考えている。」
1937年 3月11日 午前11時
この日、世界はこのガリア共和国の声明に驚きを隠せなかった
連合陣営の国々はこの裏切りにも等しいこの行為に耳を疑い怒りの声を上げ、同盟陣営の国々は喜びの歓声を上げると同時に首を傾げる事となった
『『なんでゲルマンじゃ無くてフソウなんだ?』』
「...何で自分に?」
連合と同盟関係無く世界各国と扶桑の反応としてはこの言葉が1番表現しやすいだろう
しかし少し考えると気が付いた
『『『あ! ゲルマンからの復讐が怖いのか!』』』
ガリア共和国は開戦してから反撃されて元の国境線に押し込まれるまでの期間に占領地域から大規模な資源の接収に自国領でない事を良い事に焦土戦術を繰り返しており、ゲルマン連邦帝国首都のベルリンも5ヶ月にも及ぶ包囲戦で無差別爆撃と砲撃を行い焼き払っており、ゲルマンの軍人市民問わず
『絶対ブチ殺す、例え弾丸が無くなっても焼き払ってやる...』
と恨みの声を上げられており、もし仮にゲルマンに降伏したら虐殺や強姦に加え、雑草も生えない位大規模な資源の接収や農地に塩をまかれたりするだろう(尚ガリアは全部した、現にゲルマンは盟友モスクワからの後先考えない大規模支援が無ければ復興できなかった)
そうなるなら交戦国ではあるがそれなりに交流のあった扶桑帝国に降伏する方が良い、そうなればゲルマンは手を出せないし出したら内部争いを始めるからその隙に復興すれば良い、どう転んでも我々の得だ
とガリアは考え、扶桑に降伏したのである
ガリア共和国の蛮行等で命を落とした家族や友人達の敵を討つ為、老若男女問わず最初期から戦っていたゲルマン帝国軍の将兵達は、扶桑帝国に降伏し敵を討つことが出来ない事に血が出る程拳を握り締めると共に目を充血させながら、ガリア共和国繁栄の象徴であるパリに気まずそうでありながら静かに敗戦濃厚になったから当事者では無い自分達にこうも簡単に降伏したことに静かに怒りを浮かべながら隊列を組み入っていく1万人の扶桑帝国欧州派遣軍将兵達を見送る事になる
パリに入った扶桑帝国軍将兵達がパリの大通りを見て最初に思ったのは
『全然壊れてないし戦争の影を感じない。』
だった
パリは1ヶ月の間V1の攻撃を受けてはいたが、ゲルマンから接収し残っていた僅かな資源を使い復旧を行い、市民生活なども開戦初期に接収された膨大な資源により生産工場の大規模な拡充により物資不足なども無く特に変わっていなかった
扶桑帝国軍将兵達は宿営地代わりに開店休業中だったパリのホテルやマンションやアパートなどに宿泊する事となり、各部隊の司令官達は最高級5つ星ホテルのスイートルームが宿泊場所として提供される事となり、絶えずガリア共和国の有力者達との会談が繰り返される事となる
そしてガリア共和国降伏から7日後の1937年3月18日
この日パリ近郊の空港に着陸した要人輸送型の富嶽から扶桑帝国代表団が降り立ち、ガリア共和国軍儀状隊と政府要人からの歓待を受け会談が執り行われる事となる...




