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61 男と女と母と妻

 ……あんな思いはもう二度としたくない。ネリアは小さく粗末な小屋の中でそう考えていた。


 あの後、疲労困憊の身体を無理矢理動かして魔法を使い、近くの大樹の根元にミリーナを葬り、精気の抜けたようなハルを半ば引きずるように連れながらその場を離れ、『黒き木々』にいる協力者とどうにか連絡を取り、食料や飲み水を確保しながら用意されたこの小屋に逃げ込んで一週間が経つ。その間、ハルはまるで魂を死神に奪われたような気の抜けた有様だった。


 そしてネリア自身、ミリーナからの「大切なものの受け渡し」以後、自分の魔力がひどく衰えているのを感じていた。

 『危機回避』の能力を失った実感だけではなく、以前は岩ですら灼熱化させ紅く色を変えさせられていた火炎魔法が、1本の樹を燃やしつくす前に火種が消えてしまった。水を凍らせても、以前は凍らせた水に手を触れるだけで瞬時に軽い凍傷になっていたものが、今ではただ氷を作り出す程度に過ぎなくなっている。

 ただ魔力が枯渇しているだけという理由も思い浮かぶが、恐らく魔力が完全に回復したとしても以前のような威力の魔法を行使することはできないだろう、とネリアは薄々予感していた。

 何故なら、それがあの時の自分の願いだったから。

 

 そして、その結果として、自分のお腹の中で順調に命は育っている。

 ハルとミリーナが生を与え、自分が育ててこの世に産み落とすであろう子供。


 前世の経験も含めて恋愛や性行為すらろくに知らない自分にとって、それはすべてが新鮮だった。

 本来と順番が違うのは重々承知してはいたが、それもいずれはハルとの生活の中で徐々に変わっていくだろう。ネリアはそう楽観視していた。



 ……しかし、今ネリアの目の前にいる男は、生への執着はおろか、生きることへの絶望感すら漂わせている。そして半ば死んだような目で、どこか虚ろを見つめている。

 食事も自分で取ってはいるし、最低限のことは自分で何とかする程度の自我と意識はあるようだ。

 だが、自分はこの男を愛することができるのだろうか。

 少なくとも、このお腹にいる子の父親として、尊敬することができるのだろうか。


 その答えは、今のネリアにそう簡単に出せるものではなかった。



 ……そして、そんな日々に突如終わりが訪れた。

 ネリアの悪阻が始まったのである。


 本来であれば、多種多様な種を取り込み続けたダークエルフには、悪阻は存在しないはずであった。実際に、ネリアも『黒き木々』の住人が悪阻にかかったのを見たことはない。


 だが、絶えず吐き気に襲われ、食事もろくに取れないようなこの症状は前世で聞いた悪阻で間違いないだろうとネリアは判断していた。

 何しろ、魔法で胎児をこの身に宿すという妊娠の過程からして普通の人間とは大きく違うのである。何が起こっても不思議ではなかった。それに加え、人間であるミリーナの子をダークエルフであるネリアがお腹の中で育てているという奇跡のツケは、どこかで廻ってくるだろうと薄々感じていた。


 そしてそれは即ち、それまで死人同様のハルの面倒を見てきたネリアが、逆に助けを必要とする身になったことを意味していた。

 たまにやってくる『黒き木々』の協力者の助けを借りることはできても、それは一時しのぎでしかない。この場に住み込みで生活の手助けをしてもらうのはあまりに彼らにとってのリスクが高すぎる。それに加え、当然のことながら半ばハルと共にお尋ね者になっているネリアが街の病院に行くわけにもいかない。



 ……そんな日々が数日続いたある日。

 ネリアがふと弱気な言葉を漏らした。


「ごめんなさい、ミリーナさん。あなたの子供、ひょっとしたら産めないかもしれない……」


 ネリアがそんな弱気の言葉を吐いた直後。

 彼女の傍にいたハルがその弱気な言葉を聞いたのに気づいた。


「いえ……これは……」


 必死に取り繕うとするネリアを背に、ハルが振り返って部屋を後にしようとする。そして同時に呟いた。


「……そうだよな、ネリアのお腹の中には、俺とミリーナ、そしてネリアの子供がいるんだ……まず俺がしっかりしなくちゃ始まらない……」


 続いて厨房で何か料理をする音が聞こえ、しばらくするとハルが深い器に盛った料理を持ってきた。


「昔見た何かの本に書いてあった、卵粥を作ってきた。食べられるか?」


 ハルの差し出したスプーンに盛られた卵粥を、ネリアはゆっくりと口にする。


「……美味しい」


 ネリアの心からの言葉だった。


「……良かった。よし、素人料理で不味いかもしれないが、がんばって食べてくれ。ネリアと……お腹の子供のためにも」


 その言葉にネリアは思わず涙を浮かべた。


 その涙を見て、ハルが笑顔を返す。


 それに答えるように、ネリアは泣きながらも笑みを浮かべた。

 何よりまず、ハルが自分のことを「ネリア」と呼んでくれたことが嬉しかった。

 自分はミリーナの代用品ではない、ネリアという存在として認めてくれたのだと。


 ハルとネリアは本当に……本当に久しぶりに、笑みを浮かべあった。




 ※ ※ ※




 ……しばしの時が過ぎる。


 ハルも団長たちとの連絡ルートをなんとか確立させ、半ば人目を忍んだ世捨て人のように暮らしている自分たちの代わりに情報収集を任せていたのである。


 ……そしてその結果入ってきたニュースは、驚くべきものだった。


 エリクシア王国のとある小さな領地、アルゼンド。

 土地も痩せて特産品も何もない、ただ隣国のゴライオン共和国と国境を境に睨みあっているだけという土地。


 そこに、ダークエルフやドワーフ、ギガースやゴブリンといった亜人が攻め込み、領主を殺して領地を占領したというのだ。

 元々、アルゼンドは共和国に面しているというだけで、特に重要な要衝というわけでもなかった。奪おうと思えば奪え、取り返そうと思えば取り返せる土地。

 それゆえに王国に重要視されることもなく、なおかつ国境であるため王国としてもうかつに手は出しにくい場所だった。それを利用して領主は悪政を繰り返して私材を蓄え、領民から相当の恨みを買っていたらしい。

 そこに突然現れた亜人の連合軍……中には金で雇われたらしい人間の兵も多数いたそうだが、彼らは領主を殺した上にこの領地は自分たち亜人のものだとし、実質的に独立宣言を行ったそうだ。

 当初はダークエルフやゴブリンたち亜人を含む連合軍に難色を示していた領民もいたが、その後すぐに連合軍は税率の軽減や今年度の税金の免除、労役の軽減などを領民に伝え、前領主の横暴に対して不満をあおいでいた領民の支持をあっという間に得ることに成功したとのことだった。


 本来ならエリクシア王国もゴライオン共和国も何かの動きをするべきなのだろうが、王国側は暫定的にではあるが独立国の成立を認める立場をとった。反乱軍を悪政を働く領主を討ち取った義勇兵とみなし、王国への税金をこれまで通り納めるならば臨時の代官として認めるという異例の声明を出した。実質は領地の独自経営の黙認である。共和国は独立宣言を支持した。


 つまり、両者の思惑は一致したのである。

 王国としてはたいしてリターンのない領地を放棄するだけで、共和国との緩衝地帯を得ることができる。共和国は労せずして王国の一部を切り取ることができる。

 もしこれに呼応して独立に動く領地が多数出れば王国の根幹を揺るがす事態であり、王国も動かざるを得なかったのだが、幸いにしてその動きはなかった。


 ……こうして、『亜人が治める土地』は形式的にではあるが成立した。


 勿論、その裏にどのような動きがあったかに関して、ハルとネリア、それにアレクシスを始めとする関係者は薄々感づいていた。しかし国家間の争乱が絡んだ案件に対してはハルたちもアレクシスたちもそう簡単には動けない。歯噛みしつつ経緯を見続けるほかはなかったのである。




 ※ ※ ※




 そして、ある晩。

 悪阻も治まり、魔力で胎内にあるミリーナの胎盤と胎児が完全に定着したと確信できた夜。

 ネリアはハルの部屋をノックした。


「何か用事か?」

 ハルが気のない返事を返したが、ネリアの思いつめた表情を見ると、すぐに考えを改めた。何か大事な用事があるのだろうと。


 ……そして数分。

 もじもじしながらも口に出したい、でも口に出すのは憚られる、そんな表情をしていたネリアは、意を決したように言葉を出した。


「……わたしを、あなたの本当の妻にしてくれませんか? ミリーナさんの子供を預かる女性としてではなく、本当の意味で……」


 その言葉が察するところは、さすがにハルにも瞬時に理解できた。


「今になってどうして?」


「体がそういうことに耐えられるようになったということもありますが……何より」


 ネリアがごくりと唾を飲みこんで、言った。


「……前から思っていたんです。あなたを知らないのに、あなたの子供を産んではいけないんじゃないかと……」


 ハルが問い返す。


「それは、ミリーナへの意地なのか?」


 少し間が開いた後、ネリアが答えた。


「……ええ、意地です。女としての」


「ただの意地だけで、愛してもいない相手とそんなことをするのか?」


「違います!」


 ネリアが即座に否定した。


「ミリーナさんから預かりものをしたあの日からしばらくは、確かにそうだったかもしれません。 正直に言うと、あなたは私をじゃなく、あたしのお腹にいるミリーナさんの子供しか見ていないんじゃないかと思ったこともありました。でも……」


「……でも?」


「ハルさんが作ってくれた卵粥、美味しかったです。卵も粥もお腹の子供に必要な栄養ですが、ハルさんは少しカモミールを効かせてくれましたよね。あたしの好きな香りの……」


「ああ、ミリーナから、ネリアがカモミールの香りが好きだと聞いていたから」


「あれが最初にハルさん……いえ、あなたの気遣いと気持ちに気づいたきっかけです。その後もあなたは、少しずつ暮らしの中でいろいろなものを変えていきました。ミリーナさんが好きだったものを、わたしが好きなものに替えていってくれました。料理の味も、テーブルに飾る花も、カーテンの色まで……」


「ああ、確かに。だがそんな単純なことで?」


「単純かもしれません。でもあなたが私に歩み寄ろうとしてくれていることは感じていました。躊躇していたのは私の方です。何しろ最初に……これ以上大きなものはないほどに大切なものを預かった身ですから」


 ……少し考えた後、ハルは答えた。


「ネリア……いや、君が望んでくれるなら、俺は君のすべてを受け入れられるよう努力する。君のお腹の子も、そして……君自身も」


「……ありがとうございます、いえ、ありがとう。ハルさん……あなた」



 ……そしてその夜。

 ハルとネリアは、本当の夫婦となった。




 ※ ※ ※




「正直に言うとね、あの時のカモミール、あの卵粥の味からするとちょっと多すぎましたよ。次からは気をつけてくださいね」


「……素人料理だったんだ、細かいところは勘弁してくれよ」


 すべてが終わった後、ハルはネリアにチクリと釘を刺された。

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