52 生き方
ネリアは黙っていた。これ以上自分のためにハルが犠牲になることは避けたかったからだ。
正直に言えば、アリアスや兄の考えが自分には理解できなくなりつつある現在、ハルにはまだまだ側にいて助けてもらいたい。だがそれを自分から言い出すことはできなかった。
「ですが、俺は……」
ハルがアレクシスに反論しようとする。ハルにとっては妹である冬乃を助けてくれたかけがえのない恩人である。転生してから今までの努力も全てそのためのものであった。それをこんな中途半端な状態で投げ出すことはためらわれたのだ。
だが、その言葉は途中でアレクシスに遮られた。
「言いたいことはわかる。こちらの世界に来てすぐだったならそれも良かっただろう、お前は今までそのためだけに生きてきたんだからな。だがハル、俺もお前もこの世界でもう20年は生きてきた。俺もハインやグレイ、エミルといった人とのつながりができた。お前も一度立ち止まって周りを見渡してみろ。今までずっと、お前の側にいたのは誰だ?」
「え?」
アレクシスの視線の先。
そこには、ミリーナがいた。
「ミリーナ……」
ハルとアレクシスの視線を受け、ミリーナはこくりと頷いた。
この世界に転生してから、孤児院でずっと一緒だったミリーナ。
ハルが孤児院を去った後も、自分の助けになるために魔法の腕を磨き、追いかけて来てくれたミリーナ。
ハルがアレクシスたちを裏切った時にも、先も見えない自分についてきてくれたミリーナ。
「……あたしは、ハル兄ちゃんについていくよ。ハル兄ちゃんが行くところが、私の行きたいところだから」
ハルは、そのミリーナの決意に声を返すことができなかった。
「今ミリーナが言った通りだ。これからもきっと、そいつはお前についていくだろうよ。たとえお前が地獄に落ちようとも、笑って一緒に飛び込んでくれるだろう。ミリーナはそういう奴だ」
「……」
ハルはもう、言葉を出すこともできない。
「……ハル、以前俺はお前に言ったことがあるな、俺はもうお前を貸し借りで繋がった関係だとは思っちゃいない。お前は俺の友人だ、とな」
丘の上で街を眺めながらアレクシスの過去を聞いた時の情景を、ハルは思い出していた。
そして、アレクシスが叫んだ。
「だがな、ハル。自分を想ってくれる女が不幸になるのを指をくわえて見ているような奴は俺の友人、いや男じゃねえ! そんな奴はな、二度と俺の前に顔を見せるな!!」
アレクシスの叱責を受けたハルは、左にいるミリーナに目をやった。
自分の命なら、どうとでも賭けられる。
自分の命なら、どのようにでも捨てられる。
その覚悟はあったハルだった。
だが。
……もう、自分は一人ではない。
それはハルにとって自分を縛る鎖でもあり、そして同時に救いでもある。
ハルは遅まきながらも、そのことに気づいた。
「……」
ハルは、少しの間ためらった後、目を閉じ、空を見上げ、歯を噛みしめ、ネリアに向き直る。そして。
静かに頭を下げた。
「……わかりました。短い間でしたが、どうも有難うございました」
ネリアがハルの謝罪に応え、目を瞑って静かに頭を下げた。
「……それで、これからどうするんだ? ここからしばらく先で王国の間諜が網を張ってる。俺たちはまだ見つかってないと思うが、あんまり大人数で行くと危険性が増すぞ?」
「とりあえず王都に戻る。ミリーナは顔も割れてないし、擬態の魔法も使えるから大丈夫だろう。ハルは……顔を隠して俺たちについてこれるか?」
「大丈夫です」
「なら良し。姫さんは確か、エミルが何か用意したとか言ってなかったか?」
「ええ、ある種の化粧品ですね。ダークエルフの肌を一時的に白くしてエルフに見せかけるパウダーです。これをつけて我々と同行すればすぐには気づかれないでしょう。その後ご自分で『黒き木々』に戻っていただきます。少なくともそこまでは我々も手出しはしないとお約束しましょう」
「そんなものがあったんですか?」
「逆の品もありますよ。エルフがダークエルフに変装するためのパウダーです。主にエルフがダークエルフの敵情偵察をするために使うものですが」
「私たちが使う幻術魔法みたいなものですね……」
「そうですね。ただ、あの魔法と違って効果はそれほど長く持ちません。せいぜい丸1日です。まあ、数回分の手持ちがありますから大丈夫でしょう」
「よし、それで姫様はご実家に、俺たちは王都に戻ったとする。その後はどうするんだ? ミリーナはともかく、ハルはお尋ね者だ。いつまでもうちのクランハウスに閉じ込めておくわけにもいかないだろう?」
「それなんだがな……」
アレクシスがハルの方に向き直り、言った。
「前に言ったことがあるが、俺は王国の北の方にある子爵家の実家を飛び出して、この『キンタロウの斧』を作った。今は親父が体調不良で引退して兄貴が領主を継いでいる。覚えてるか?」
ハルが頷いた。
「んで、兄貴が継いだ領地だが、北のほうに未開拓の森があってな。たまに魔物が領地に入ってくるんで常駐の警備兵を置いている。腕が立つこと、人里離れた場所で暮らしていけること、それが求められる。正直言って簡単な仕事とは言えないが、今のお前にはこれ以上ない隠れ場所になるだろう。推薦状は俺が書いてやる、どうだ?」
今のハルにはこれ以上ない申し出だった。
「はい、お願いします。団長、ありがとうございます」
ハルは頭を下げた。
そして、アレクシスはミリーナに向き直る。
「……お前も、ついて行くんだろ?」
ミリーナはこくりとうなずいた。
「んじゃ、ハルとミリーナで夫婦者ってことにしておいてやるよ。そっちの方が色々と自然だしな」
「夫婦者、ですか」
ハルがミリ-ナの顔を横目でちらりと眺める。ミリーナの顔は僅かに赤くなっていた。
「えーと、その……団長、その設定、ちょっと変えていただいていいですか?」
「ん、何かまずいのか?」
アレクシスがハルに聞き返す、しかしハルはなぜか横を向き、気を落ち着けるように空を見上げて深呼吸をしていた。
奇妙な行動のハルを不思議な目で見つめるアレクシスに、何か考え事をしていたネリアが意を決するように言った。
「……アレクシスさん、その紹介状に、わたしの名も加えていただけませんか?」
「「「え!?」」」
アレクシス、そしてハルとミリーナが同時に声を上げた。
「どういうつもりです?」
グレイがネリアに尋ねる。
そしてネリアは、少し考えた後答えた。
「……考える時間が欲しくなったんです。私はこのまま帰れば、なしくずしに兄やアリアスたちと共に王国と戦を交えることになるでしょう。もちろん父の無念も晴らしたいし、父や兄についてきてくれた領民たちのためにも戦わなければなりません。ですが、そのために……カルナックのように、無関係な人間を巻き込むのが本当に正しいのか、そしてそれを避ける方法が本当にないのか、少し考えたいのです」
……嘘だ。
そのことをネリアは自分でも分かっていた。
自分は、戦うことが怖いのだ。
人を殺し、殺されるかもしれないという覚悟をまだ持っていないのだ。
だから逃げたい。ただそれだけなのだ。
だが、その本心を心の片隅に押し込め、ネリアはアレクシスに懇願した。
「……だそうだ。ハル、ミリーナ、どうする? 正直に言うと俺はあまり気が進まない。お前たちにとっては厄介事のリスクが増えるだけだからな」
アレクシスがハルたちに尋ねる。
アレクシスの懸念はもっともだった。只でさえハルは国から追われる身である上に、ダークエルフはとにかく目立つ。ほとんど人に会わない仕事とはいえ、全く人と接触がないということはないだろう。それを考えれば、答えは決まっていた。
だが、ハルの答えは皆の予想を裏切った。
「……構いません。ネリアさんがそれを望むのであれば」
驚くアレクシスが聞き返すより早く、ネリアが叫んだ。
「どうしてです! どうしてあなたは何もかも、自分で抱え込もうとするのですか! 私が……私があなたの恩人だからですか! 前世はともかく、この世界ではもう十分に私たちの手伝いをしてくれました! あなたは……あなたは、残された人生全てを他人のために費やすつもりなのですか!」
感情を爆発させたネリアの叫ぶような問いかけに、少し間をおいてハルが答えた。
「恩返しのため、という気持ちも全くないではありません。ただ、それが全てではありません」
ハルが続ける。
「俺は前世で銀行強盗をやりました。他にも、妹のためにいろんな人に迷惑をかけました。そしてこの世界では、お金のため、そして自分の腕を磨くために人まで殺しています。そんな俺が言う資格があるのかはわかりませんが……」
「……人間、他人を殺さなくて済むなら、それが一番いいですよ。その方法を考えるため必要なら、どうか俺を頼ってください」
言い終わるとハルはにこやかに笑い、ネリアの手を取った。
「……ごめんなさい……、いえ、ありがとうございます……」
ネリアはハルの手を握り返し、涙を流しながら言った。
「それに、俺もそろそろ自分のための人生を生きてみようかと思いますから」
「どういう事だ?」
「あー、それなんですが、団長にひとつ相談が。それよりも、ミリーナへの相談もあるか……」
「私に?」
ハルは目を丸くしたミリーナを見つめると、もう一度深呼吸した後、言った。
「……俺と、結婚して欲しい。もちろんミリーナが良ければだけど……」
「え?」
いきなりの台詞に、ミリーナだけでなくその場の全員が固まった。
それを後目にハルが言葉を続ける。
「ミリーナは今までずっと俺の側にいてくれた。だからこれからも俺の側にいて欲しい。ダメか?」
そして、アレクシスにも声をかける。
「先程言いかけた相談なんですが、『夫婦者てことにする』んじゃなくて、『夫婦にしてほしい』ってことなんです。まあ、何が変わる訳でもないと思いますけど……」
その直後、ようやく硬直から立ち直ったミリーナが叫んだ。
「だ、ダメだよ! 私なんかそんな資格ないよ! ハル兄ちゃんならもっと似合う人がいくらでもいるよ! 私はそばにさえ居させてくれればいいんだから!」
「俺は、ミリーナがいい。いや、ミリーナじゃなきゃ嫌なんだ……ミリーナは嫌なのか?」
「嫌じゃないけど、すごく嬉しいけど……」
「……私には、本当にそんな資格はないの。だって……」
ミリーナの顔に影が差す。そしてそれに気づいたグレイも顔をしかめた。
「私はもう……汚れちゃってる身体だから」




