25 望郷
「どのスキルを取るか、決めました」
「そうですか。では、他にご質問がなければ失礼いたします。どうぞごゆっくり」
「はい」
そういって女将はその場を後にした。
鎧と服を脱ぎ、取得する能力を頭に浮かべながらハルは足から温泉に浸かる。
心地良い湯加減が残った体の疲れを和らげてくれるのが感じられた。
「確か、頭まで浸からないと駄目だったんだな」
意を決したハルがその場に座り込み、身体の全てを湯に委ねる。
その瞬間、ハルは体の中で何かが起こったのを感じた。
「これが、スキルの再取得か……」
不思議なことに顔まで浸かっているのに息苦しさはない。ただ温かい心地良さだけが感じられた。
『転生を選ぶ人間にとってはこれが新しい命のための子宮ってわけだな……』
そう思えば、この心地良さにもなんとなく納得はできた。
さて、そろそろ上がろうとしたハルがなんとなく足を延ばしたその時。
足の先が一段深い部分の湯を掻いた。
『これは……』
間違いないだろう。底すら感じられないその足先の深み。
これが……地球への再転生への扉。
ハルの頭に地球での記憶が浮かぶ。
冬乃は病気にかかる前も季節の変わり目にはいつも風邪をひいていたな。大丈夫だろうか。
洋介のやつ、真面目だったけどちょっとおっちょこちょいな所があったな。冬乃に変な心配かけないだろうか。
冬乃の病は治ったと思う。そう信じたい。だが、それを確かめる方法は少なくともこの世界にはない。
そう考えたとき、ハルの頭に一つの考えが浮かんだ。
『もし、このまま地球に戻ったら……』
考えてみれば、これが最後のチャンスではある。スキルの再取得、その上書きはできないとの事だった。それはすなわち、この温泉に浸かるチャンスはもう二度とないという事だろう。
団長。
アリスさん。
モモタロウさん。
カグヤさん。
ウラシマさん。
あの時、お世話になった……そして現在進行形でお世話になっている人々の恩を全て裏切れば、冬乃の顔をもう一度目にすることができるかもしれない。そんな誘惑がハルの脳裏をかすめた。
ほとんど無意識にハルは足を進め、段差に腰掛ける。ここからもう一歩踏み出せば、そこはもう地球なのだろう。
『会いたい……』
その思いは、さらにハルを一歩先に踏み出させた。
恐ろしくゆっくりとしたスピードで沈んでいく体。その中で目を閉じたハルの頭の中を様々な考えが駆け巡る。
……団長には結局お世話になったままだった。他の顔も知らない皆さんには、結局なにもできなかった。でもあの時、恩なんて返せる範囲で返してくれればいいって言っていたじゃないか。
……さっきだって、アリエルさんが心変わりしなければそこで俺は死んでいた。それなら結局皆さんへの恩は返せなかった。それと同じじゃないか。
様々な考えが頭をめぐる中、ハルは妥協しようとしていた。
……もう、いいじゃないか。
次の瞬間、声が聞こえた気がした。
それが何故、どのような理屈だったのかは分からない。
「お兄ちゃん。わたしは、大丈夫だから」
冬乃の声だった。
ハルの目は瞬時に見開かれた。
そして次の瞬間、ハルは右手を伸ばし、先程まで腰掛けていた段差の縁を掴む。
このまま沈めば、楽だ。
このまま沈めば、冬乃にまた会える。
でもそれは、逃げることだ。
この世界で生きてきた10数年、それを全てなかったことにしてしまう行為だ。
死なないとはいえ、10数年続けていた血のにじむような鍛錬。
この世界での多くの人々との出会い。
孤児院で出会った子供たち、そして院長先生。
団長、ハインさん、グレイさん、エミルさん、メリルさん、
そしてあの森で出会ったダークエルフの少女。
なにより……闘技場で奪った数多くの名も知れない多くの相手の生命。
それを全部意味のないものにしてしまうインチキだ。
それは損得勘定からの行動ではなかった。
一番近い言葉を探せば……意地。
このアリアドスという世界でわずかなりとも自分の力で生き続けてきたという意地。
それが、ハルの右手にさらなる力を込めさせた。
温泉から上がり、服を着て装備を整え、そのまますぐに宿を引き払ったハルは後ろを振り返る。
……もう、ここに来ることもないかな。
ハルの心にもう迷いはなかった。
冬乃は強い妹だ。あの病気だけじゃない、もっと辛いことがあったとしても、きっと乗り越えてくれるだろう。
洋介は大した男だ。ちょっとおっちょこちょいでも、失敗しても何度でも立ち上がる芯の強いやつだ。冬乃ともいろいろあるだろうけれども、きっと二人で幸せになるだろう。
あの時の冬乃の声は、きっとそれを自分に知らせるためのものだった。
ハルはそう思っていた。
そしてハルは、リューニコスの町を後にした。
「ようハル、首尾はどうだった?」
王都の事務所に帰り、団長室に報告に戻った早々、アレクシスが声をかけてきた。
「いろいろありましたが、結果的にはうまくいきました。あと、お借りしたお金も使わずに済んだのでお返ししておきます」
「ほう、そんな安上がりで済んだのか」
「まあ、いろいろありまして……」
そうしてハルは、一連の顛末を話す。
「『ネメシスの戦乙女』のアリエルか……そりゃ災難だったな。この王国でも5本の指に入るハンターチームのリーダー『闘姫アリエル』だ、強かっただろう?」
「多分、剣の腕だけなら団長よりも上だと思います。それに回復魔法まで使うなんて……反則ですよ」
「あいつらとウチはつくづく変な因縁があるなあ……。どこかで顔を合わせたら、ウチの若いのをさんざんいたぶってくれた借りを返さなきゃならんな」
「因縁といいますと?」
「グレイの嫁さんが元ハンターだってのは知ってるだろ?」
「はい、以前聞きました」
「そのハンターってのが、『ネメシスの戦乙女』の元サブリーダーだ」
「え!?」
「『雷撃のリーゼ』って二つ名で、アリエルの右腕だったんだがな……結果としてチームを引退させちまうことになって、当時はさんざん嫌味を言われたものさ」
「世間って意外と狭いんですね……」
ハルがため息をついた。
「まあ、トップクラスの傭兵団やらハンターチームやらは、たいていどっかで顔を合わせてるものさ。腕利きはあちこちから声がかかるって飛び回ってるからな」
「そういうものですか……」
「そういうこった。さて、こっちも他に話すことはあるんだが……ハルが取ったのはどういうスキルなんだ?」
ハルに少し違和感を感じさせる言葉を挟みながら、アレクシスが興味深そうに聞いてきた。
「……実はこれ、俺ひとりじゃ使えないスキルなんですよ。だからまだ試したことないんです。よろしければ団長、ちょっと手伝っていただけませんか?」
「どんなスキルなんだ、そりゃ?」
「詳しくは、裏の練兵場で。できれば誰もいない方がいいんですが……」
人払いをした練兵場で、ハルはアレクシスと相対する。
「ではやってみます。団長、俺に何かあっても気にしないでください。すぐにわかる……はずですから」
「分かった。正直何が起こるか想像つかないんだがな……」
「ではいきます」
ハルは深呼吸をした後、アレクシスの肩に手を当て、スキルを発動した。
「『ポゼッション』!」
その直後。
音もなく、ハルはその場に崩れ落ちた。




