1 風のハル
「さあ、本日のラストバトルです! 『風のハル』が、ついにドラゴンスレイヤーの座に挑みました!」
おお、という歓声が満席の場内に響く。
控室で半ばまどろんでいた黒目黒髪の少年は、その声を聞き、ビクリと跳ね上がるように飛び起きる。年の頃は14といったところだ。
そして、おぼろげながらも夢の中で最後に頭に浮かんだ言葉を思い出す。
『あと2か月だ』
忘れもしないその一言が、脳裏に思い出される。
「……あの時の夢だったか」
これから少年は、文字通り命を懸けた戦いに挑むことになっている。
それまでの僅かな休息の間に、緊張していたはずの自分がうたた寝した上、先程のような夢を見た。
偶然かもしれない。だがその僅かな夢は、少年にあのときの決心を再確認させてくれるには十分だった。
その声を聞き、少年は再度装備を確認する。腰に帯びたショートソードの柄に、滑り止めに巻いてある革紐の具合い。予備武器のダガーをホルダーしてある金具の調整。
すべては今の少年にとっての日常だった。
だが、今日の日常は、少年にとっては『特別な日常』となるはずだった。少なくとも少年はそれを信じていた。
※ ※ ※
そこには、都市があった。
町の建造物は一見中世~近世のヨーロッパ風だ。しかしよく見ると明らかな違和感がある。
一言で言えば、物理法則を無視した造りなのだ。
平らでない積み木を縦に並べて、傾きそうな所を接着剤で無理やりくっつけて垂直の柱を立てている、という感じの大邸宅が、数多くそびえ立っている。
その都市の裏道を進んだ先には、スラムがあった。
中心部とはとても同じとは思えない町並み。そしてそのスラムの片隅に、小さな小屋があった。
見た目はただの貧困層の住居にしか見えない。だが、その小屋に入っていく人間は妙に多い。
そしてその人間の多くが、いかにも身分を隠そうとした姿をした上流階級の者である。
その地下には、地獄……もしくは天国があった。
自らの腕に自信を持っていた戦士が、己の無力さを感じながら怪物の糧となる場所。
そして、自らの命をチップに賭けた者が、血で手を染めながらも数年は遊んで暮らせるような大金を手にできる場所。
富裕な者が大金と引き換えに血が滾るような刺激を得て、甘美な記憶と共に日常に帰っていく場。
非合法の地下闘技場である。
※ ※ ※
直径50メートルほどの円形闘技場、そこに少年が現れる。
そして向かいの入場口から、拘束具に縛られた異形の怪物が現れた。
トカゲの頭、長く伸びた首、野牛が鱗を纏ったような胴。肉食獣のような爪を持つ手足。そして長く伸びた尻尾。
全高は頭を含めて5メートルといったところだろうか。この世界、いや別の世界の誰かであってもその生物をこう呼ぶだろう。「ドラゴン」と。
元々この種のドラゴンは凶暴ではない。
精々牛のようなサイズであり気性も優しい。吐くブレスも、浴びた人間が「臭い」と感じる程度だ。
そして、その体からは多くの素材が取れる。食用としての肉は勿論、内臓も血も役に立つ。
知能も低く、繁殖力も申し分ない。つまり家畜として特化されたドラゴンだ。
だが、ここに現れたドラゴンは少々違う。
家畜の中でもひときわ巨大で気性が荒く育ったモノを選び抜き、薬物で凶暴化させ、ブレスも有毒化するように餌を調整された個体だ。
簡単に言えば「魔物」、それもかなり上位にいるような存在だ。
そして対する少年は、簡素な防具にショートソードを握り、予備のダガーを腰のホルダーに用意しただけの姿である。
人間は身体能力ではドラゴンには勝てない。勝てるとすれば、それは数年にひとりの天才だけだ。
目の前にいる魔物は毒の霧を吐き、下手に触れば手を切るような鱗と人を容易く輪切りにするような爪を持ち、なおかつまともに一振り食らえば内臓破裂はまぬがれない尻尾を持つ。
だからこそ、この勝負に生き残った人間は「ドラゴンスレイヤー」と呼ばれるのである。
だが、それと相対する少年には恐怖の様相は微塵も見当たらない。
あえて感じられるとしたら「決意」と「歓喜」だろうか。
俺はこいつを倒し、皆が驚嘆するような名声を手に入れる。
俺がこいつを倒せば、あの人たちの役に立てる名声を得られることができる。
そして、ハルと呼ばれる少年……かつて、村瀬春彦という名だった彼は、ここに至るまでの道程にしばしの間思いを馳せていた。