アミフィーバナ
「アミフィーバナは海を渡るんだよ」
ユキちゃんは、凪いだ海の水平線をぼんやり眺めながら言った。
灰色の雲が薄く膜を張ったような空が、切れかけた蛍光灯のような仄暗さで私とユキちゃんを照らす。どこかいつも後ろめたい気持ちを持った私たちにはおあつらえ向きな天気だと、私はこっそりと思った。
「ユキちゃんと一緒だね」
ユキちゃんは感慨深げにこくりと頷いた。
いつの間にかふたりの秘密の場所となったこの砂浜は、五百メートル程歩くとビーチへと辿り着く。設備が古くなっているので人気があるとはあまり言えないが、夏になれば地元の人々が集まりそこそこの賑わいをみせている。
私たちがこの砂浜を見つけたのは小学四年生の頃。私の家族とユキちゃんとで海水浴に行った時だった。干潮で浅瀬が続くビーチを、軽い昼食を終え暇を持て余した私たちは延々と歩いた。ユキちゃんは脇目も振らずにずんずん歩いていたけれど、元来臆病な性質の私は、人の気配が遠くなり砂浜が少し狭まっていくのを感じるとすぐに心細くなってしまったのだが、かと言って格好悪くて素直に「戻ろう」とは切り出すことも出来ず小さなユキちゃんのビーチサンダルをとぼとぼと追いかけ続けた。
「あ」
威勢の良いビーチサンダルが立ち止まる。
「あ」
目線を上げ現れた景色に、私は思わずユキちゃんと同じように声を上げた。
砂浜の奥の鬱蒼とした茂みから這い出るように、そこには砂浜一面に軍配昼顔が広がっていた。
白い砂浜を覆い尽くすような蔓はまるで海に手を伸ばしているかのように力強く、その若い緑色の合間ぽつぽつと咲く薄紫の花は焦がれるように皆海に向けられているようで、私たちはしばし言葉を失い、そしてそのままこの光景に溶け込むように腰を下ろした。いつもなみなみと注がれたような海は、今やごつごつとした岩肌を見せつけ少しばかり凶暴に見えた。でも不思議と恐ろしく見えなかったのは、陸地のように続いて見えたからだろう。これなら歩いていけそう。私はぼんやりと軍配昼顔がこの浅瀬に広がる姿を想像した。ずっと遠くまで続いていく蔓草の海が、何だかとてもいいものに思えたので、そのことをユキちゃんに伝えると、ユキちゃんはちっとも面白くなさそうに「ふうん」と答えた。ユキちゃんは近くに咲いていた薄紫の花を徐に手折って、
「これを摘むと雨が降るんだって」
と言い、かんかんに照り付ける日差しと馬鹿みたいに青い空を五分ほど睨みつけ、何も起こらないと知るやいなやつまらないと言わんばかりに海に投げ捨てた。
「よその国で降っているかもしれないよ」
私が宥めるようにそう言うと、ユキちゃんは不機嫌さを隠しもせずに手あたり次第に花を摘み始めた。
「よその国に私はいないもん。ここに降ってほしいの」
波打ち際にユキちゃんが投げ捨てた軍配昼顔が浮かぶ。
ユキちゃんも私もきっと軍配昼顔だってどうしようもなかった。
それぐらい、その日は晴天だったのだ。
その日を境に、ここは私たちのお気に入りの場所となった。
「あかり」
「なあに?ユキちゃん」
ユキちゃんは海から目を逸らさない。私はユキちゃんの整えられた眉と、長いまつ毛に縁どられた気の強そうな目をそっと盗み見る。相変わらず綺麗な子だ。パーツパーツがすべて完璧な配置でそこにあるのに、お人形のように見えないのは、きっと剥き出しのユキちゃんの感情がいつも生々しくそれを覆っているからだろう。いつだってユキちゃんは苛烈なのだ。
「あんたと私はあまりに違いすぎたよね」
ーー何を今更。突拍子のない言葉に私が呆れた顔で今度はまじまじとユキちゃんの顔を見つめると、ユキちゃんはようやく私の方を向いて、何だかよく分からない苦笑いらしき表情を浮かべた。
「あんたってさ、優等生ぶっている割にはとんでもなく不真面目だし、割とキツイ言葉を吐くくせに変に勘が良くて絶対にひとの地雷は踏まないし、私さあんたのそういうところ――――」
「ぜんぶ嫌いだった」
ユキちゃんは綺麗な顔を歪ませてそう言い終えると、もう用はないとばかりにまた海を見た。風がでてきた海は、先程と表情を変え少し騒がしい。
「ユキちゃん、私はユキちゃんの人が傷つくと分かっていてもそうやって何でも口に出しちゃうとこ、嫌いだよ」
淡々と私が答えると、ユキちゃんは思いっきり眉を顰める。ほら、やっぱり。私は思わず笑ってしまう。ユキちゃんは昔から何でも顔に出る。態度に出る。言葉に出る。とてもとても正直な人。馬鹿がつくくらい。
ユキちゃんは小さい頃から苛烈だった。好きなものには惜しみなく愛を注いだし、嫌いなものにはためらいなく拒絶の意を表した。ユキちゃんの周りには初めこそこの華麗な容姿と強烈なキャラクターに魅せられ、男女問わず群がっていたが、すぐにそれはなりを潜めた。
ユキちゃんは決して明るい人ではなかったのだ。
幼馴染と言えど、私とユキちゃんが気が合っていたとは言い難い。互いにもっと気の合う親友はいたし、どちらかに彼氏ができると疎遠になるのはいつものことだ。ただユキちゃんと私は保育園から高校までずっと一緒にいた。多感な時期を一緒に過ごすと行動パターンだって読めてくるし、情だって湧く。いつの間にか、私はユキちゃんと一緒にいても傷つかない距離を取り、ユキちゃんも私のとる傾向と対策に概ね満足していた。ユキちゃんは近すぎる関係が苦手なのだ。ずっと昔、思春期の友情論に感化されて一時期ユキちゃんにべったりと纏わりついていたら見事にメッタ切りにされてしまった。それを傍目に見ていた他の友人がユキちゃんに良い印象を抱くわけながなく(ユキちゃんは同性の友人が極端に少ない)、何度も私に離れるよう忠告してきた。私だって鋼の心を持っている訳じゃないし、もう関わらないでおこうと胸に誓ったのも一度や二度ではない。けれど、どうしても気になってしまうのだ。幼馴染の無防備な感情が。ユキちゃんがユキちゃんでしかいられないことが、私は気になって仕方なかった。
「なーんで私こんなに性格の悪い友達しかいないんだろ」
ユキちゃんが空を仰いで投げやりに言う。
友達として数えられていることが何だかむず痒い。
「ユキちゃんにだけは言われたくないなぁ、それ」
空咳をひとつして、私もやはり同じように空を仰いだ。
灰色の雲をどこまでも引き延ばした、くすんだ明るさの空。
リアルタイムで相談事を持ち掛けることをしなかったのは、ふたりの一種の決まり事だった。相談事には私は(もしくはユキちゃんは)役に立たない。私たちの悩み事はいつも事後報告で、良くも悪くも何らかのケリをつけてからお互いに報告しあった。ふたりともどうしようもなく臆病だったのだ。何もできないことが。何もできないと思われることが。
私たちは少なくない頻度で、この砂浜に来た。
私の両親の離婚が決まった後。
ユキちゃんの何番目か分からない彼氏が浮気をして別れた後。
私が大学入試に落ち予備校に通うと決めた後。
ユキちゃんが通っていた大学を辞めると決めた後。
ただふたり、どうしようもない自意識をふたつ並べて。
ユキちゃんは私に大抵
「まぁ、頑張って」
と、毒にも薬にもならないことを言ったし、
私だってユキちゃんに
「元気出しなよ」
と、当たり障りのない言葉をかけた。
私たちにはそれで十分だった。
「手紙、書くよ」
「返事出せないよ。たぶん忘れる」
ユキちゃんがいけしゃあしゃあとそんなことを言う。
「それは期待していないから大丈夫」
ユキちゃんに送ったメールはいつだって片道便だ。
「……でも一応ちゃんと読む」
「うん。ちゃんと読んで。思い出して」
小学校も中学校も高校も、行かなければいけない場所が一緒だから必然的に友人たちとも会えた。いつでも会うことが当然で、卒業したってそれはきっと変わらないと、望めばいつだって会える、そう思っていた。だけれど、思った以上にひとは日常に忙殺されるし、忙しい合間を縫ってまでひとと会うことを望まない。
もう行かなければいけない場所は一緒じゃない。
私はあの水平線を越えてはならない境界線のように思っていたし、ユキちゃんはいつか越えなければならない境目だと信じていた。今に始まったことじゃない。私たちはずっとこんなにも違っていたのだ。
「雨を降らすから。ここに来たら私、このアミフィーバナを摘んで雨を降らすから。雨が降ったら思い出して。また会いに来て」
ここに。そして私に。
弱い人間がふたり一緒にいたってちっとも強くなれなかった。それでもいつだってユキちゃんは私にとって会いたいひとだった。
私たちの縁は鎖のように強固なものじゃない。軍配昼顔の蔓のように引きちぎってしまえばきっとそれまでだ。そんな弱い縁だ。性格も合わない、好みも感じ方も、おおよそ友情を維持するのに必要な要素は時間しか満たしていないのに、なぜだろうそれで十分な気がする。
理解や共感から外れた場所で私たちは相いれないまま一緒にいて、そして静かに花を咲かせた。
想いは違えど、同じ場所で同じ海を見ていた。
軍配昼顔は海を渡る。
ユキちゃんも一週間後には遠い国へお嫁にいく。
「行かなきゃいけないから」とだけ言って、あっさりと言葉も文化も違う国へ嫁いでしまうのは、本当に彼女らしい。
もう会えない気がした。
彼女にとってここは帰らなきゃいけない場所じゃないから。
私は会わなきゃいけないひとじゃないから。
「降らせてよね、雨。私がちゃんと思い出せるように」
聞き取れないくらいに小さな声だったけれど、それはちゃんと私の耳に辿り着いた。
意地悪で、尖ってばかりいて、偽ることができないどうしようもないひとだった。
かけがえのないひとだった。
何があっても、聞いてもらえれば大したことじゃないように思えた。
大切なひとだった。
「元気出しなよ」
ユキちゃんは底意地の悪さを隠そうともせず、艶やかに笑う。
「ユキちゃんこそ、まぁ、頑張ってね」
ぐずぐずと鼻をすすり、私は精一杯の強がりをみせた。
ついた手もとにある薄紫の花をそっと摘む。
風に乗ってどこからか雨の匂いがした。
軍配昼顔・・・亜熱帯地域の海岸でよく見られる、ヒルガオ科の植物。種子は海水に浮き、海流に乗って分布を広げる。
沖縄の方言名のアミフィーバナはこの花を摘むと雨が降るという言い伝えからきている。花言葉は「絆」「優しい愛情」