6:穏やかならざる目覚め
猛然とベッドから立ち上がるハル。あたふたと靴を探し、ようやく足をつっこんだところで、彼は急に力なく座り込んだ。
「あら。立ちくらみ? 急激な運動は体に悪いのよ」
職業意識を刺激されたのかゆったりと近づいたルカの耳に、ぐるぐると仔猫が鳴くような間の抜けた音が聞こえた。
あらら、と呟いたルカの顔を見上げ、ハルが真っ赤になる。
「ひ、昼飯ぬきだったもんだからっ」
慌てる彼に、うんうんと頷いて、白衣のポケットを探る。ひょいっと出てきた手には、チョコレートバーが乗っていた。
「食べる?」
すごい勢いで頷いて受け取ろうとするハルの手をうまくかわし、届かない位置まで持ち上げてから、彼女は優しげな笑みを浮かべた。
「交換条件」
「お金ならあとで払います」
物欲しげにチョコバーを見上げ少年は疲れたように言う。もう少し元気ならば、彼女の持つチョコバーに飛びついてじゃれたりする処だが、あいにくいまは本当に力が入らない。
「んー。それはルカ先生いらないんだけど。もっと簡単なこと」
もったいぶる女医に、少々殺意を覚える。
「は、はやくください、先生。くらくらします」
「んー。交換条件?」
くいっとかわいく小首をかしげて聞く。
「わ、わかりましたから」
「ルカ先生、物分かりのいい子、好きです」
チョコバーを渡された上に、なでりなでり、と頭をこねくりまわされる。また赤面して、けれどそれを振り払うでもなく、チョコバーの包装をむいてゆく。
「で、なんですか」
既にばくつきながら、尋ねる。なんだか体中の血液が胃に集まってゆくような感覚を覚えて、余計にくらくらした。
「神月さんを、怒らないでほしいの」
ねっとりとしたアーモンドペーストと、ぱりぱりしたチョコが溶けてゆくからみあいを舌の上で味わいながら、ハルは眼だけでほのかの姿を追った。
ベッドですやすやと寝息をたてる彼女を見て、急にさっきの香りとやわらかな感触を思い出し、三度、彼は赤くなる。
「怒るというか……。何がなんだかよくわからないし……」
首を絞められたときのことを思い出し、ぶるっと身を震わせる。けれど、彼は言葉を続けた。
「でも、まあ、人間誰でもわけがわかんなくなることありますからね……。神月が、もうしないなら、別に」
「んー」
ハルの答えを吟味するかのように女医は眼鏡の奥の眼を上にむけてしばらく黙り込み、ん、と微笑んだ。
「それでいいかな、とりあえず。いきなり怒鳴りつけたりはしないでね」
「はい」
彼女との会話から開放されたハルはばくばくとチョコバーを食べる。あっと言う間に食べ尽くし、ほうっと満足の息をもらした。
「で、どこに行くの? もうたいていの授業は終わってるけど」
「あっ」
ようやく思い出した風情で彼は立ち上がり、足をふみ出しかけて、しかし、ためらうようにその足をふみ下ろした。
「四時って言いましたよね」
「うん、いま、四時一二分」
どれだけ三人の変な泥棒女と追いかけっこをしていたかはよくわからないが、彼とほのかがぶつかったのは午後一番の休み時間だろう。
つまり二時前だ。
それからだいたい二時間が経つ。
いくら常識はずれに大きい学園だとはいえ、もうこの中にはいないと考えるほうが自然だ。
考えろ、考えろ、考えろ。
ハルは己にむけて、そう命令する。
どこを探せばいい?
いっそ、警察か自警団にまかせようか?
いや、当面、大事になるのは避けたいところだ。
じゃあ、どうする?
ぐるぐると頭の中を思考の渦が回る。
もう街の外に出たろうか?
あの格好で元から街中にいたとは考えにくい。
どこかからやってきたのだろう。でも、どこから?
街の外に出た可能性はとりあえず考えないでおくことにした。
もしそうなってしまっていたら、彼の手には負えない。
諦めて警察に知らせるしかないだろう。幸いこちらには写真もあることだし。
……写真?
何かが頭にひっかかった。
もやもやと形にならぬものに注意を割かれながら、スマートホンをひっぱりだす。久隅から来たメッセージを表示させようとして、彼は固まった。
「そうだ、メッセージだ!」
ハルは猛然とボタンを打ちはじめた。一気に書き上げたメッセージを友人はじめ、メモリにあるアドレス全てにむけて、一斉送信する。
「僕の知り合いだけじゃあ、足りないかもしれないな……」
たたっとベッドに駆け寄り、ほのかの体に手をかけようとして、彼は背後を振り返る。その瞬間、すさまじい早さでなにかが髪の毛をかすめた。
「ルカ先生、神月って起こしても……な、な、なんですかそれ」
いったいどこから取り出したのかまがまがしい金属バットを構えて自分を伺っているルカをおびえた目で見あげる。
「だって、夜光君が神月さんを襲うとしてるから」
きゃー、ふじゅんいせいこーゆーとかわいらしい声をあげて、バットを抱えて身もだえる。
「ち・が・い・ま・す」
人殺しはどこの誰だか、と呆れて呟く。
「あら、冗談よ」
と本気だがそうでないのかよくわからない口調で言って、彼女はひらひら、と手を振った。いつのまにか、バットはどこかに消えている。
「大丈夫、大丈夫。でも、どうせなら王子様の接吻で起こしてあげるといいんじゃないかな、とルカ先生は思うな」
後半はまったく無視して、彼はかがみこむ。
頭を打ったというほのかを、あんまり揺するのも可哀相だと、優しく肩に手をかけたとき。
ぱちり、とほのかの眼が開いた。
彼女は見た。
自分に覆い被さるように身をかがめる男の翳を。
「きゃああああああ」
悲鳴とともに、肌を打つ高い音が医務室に響きわたった。