5:かぐわしい目覚め
奇妙に心くすぐる香りが鼻をくすぐる。
甘い、とろけるように甘い香り。
どこかで嗅いだような気もするが、意識の表層に確かな記憶はのぼってこない。
ほんのりと感じるぬくもりは心地よく、覚醒しかけた意識をふわふわと漂わせてしまう。
自分のベッドよりも心地よい、そのぬくもりと柔らかさに囲まれて、意識は急速に眠りに戻っていこうとする。
ごそごそと寝返りをうつと、よけに柔らかい何かが体に触れる。あったかくてやわらかくて、いい匂いのする小さい何か。それを抱きしめているような気がする。
ふにゅう。
マシュマロのような弾力のあるものを掌全体がつかんだ感触。
なんだこりゃ……?
わきあがる疑念が半覚醒状態へと彼を導く。
むにゅむにゅと指を動かしてみても、その指がどこまでも沈んでいくような、けれど同時にぷっくりと押し返されるような……。
うっすらと開いた眼が、間近にあるものをぼんやりと映し出す。
なめらかな肌。
すらりと通った鼻梁。
おだやかに閉じられたまぶたを飾っている長い睫毛。
とてつもなくやわらかそうで、つややかなバラ色に輝く唇。
ハルの意識が一気に目覚めた。
目の前でかわいらしい寝息をたてているのは、彼の首を絞めていたあの少女。
頭の中が、疑問符でいっぱいになるといっしょに、恐怖で彼の顔が青ざめた。なんだか急に息苦しくなってくる。
けれど、彼女の体温が、彼女の寝顔が、彼女のからだから立ちのぼる香りが、彼の頭の中をいっぱいにして、恐怖をバターのように溶かしていく。
ふにゅ。
思わず力の入った彼の掌に、その感触再び。
途端、ほのかの顔が、微かに不快げにしかめられた。
ぎ、ぎ、ぎ、ときしみが聞こえてきそうな動作で、彼は視線を動かし、自らの手がつかんでいるものを視界に捉えた。
規則正しく上下する胸のつつましい膨らみの上に、彼の手が置かれていた。
「どわあっ」
一動作で起き上がり、あたふたと彼女から離れようとして、ベッドから転げ落ちそうになり、あわてて、ベッドの端ぎりぎりに踏みとどまった。彼女から少しでも離れようと体を妙な格好に開いて。
「な、なんで……」
パニックに陥りそうになる心をなんとか落ちつけようと、ぽかぽかと自分の頭を叩く。
ふう、と顔をあげて見回してみれば、カーテンで仕切られた空間の中で、二人は同じベッドの上にいた。
四方を純白のカーテンでふさがれたその小空間を隅々まで見渡して、彼はふと奇妙な不安に襲われる。現実感が霧散して、どこまでも落ちていくような感覚。
ここは、もしかしたら、どこともしれぬ世界ではないか。ほのかに首を絞められて、もはや自分は死んでいるのじゃないだろうか。
そんなとりとめもない妄想が、しかし現実味を持って、彼をゆさぶる。
あのカーテンの向こうは何があるのだろう。見たこともない異界か。それとも、話にきく地獄とやらか。
「あら、起きた?」
カーテンが揺れて、声とともに開け放たれる。
そこにいたのは、鬼ではなく、天使だった。
ああ、天国にきてしまったんだ。
彼はなんとなくほっとした。天国なら、あの人に会えるかもしれない……。
「だいじょぶ? 夜光君」
真っ白な羽で体が覆われた天使は、理知的な顔に抜群の笑みを浮かべた。リムレスの眼鏡の奥で、猫のように細められた眼。
「ルカ先生」
ようやく思い出した、というような声で、ハルは、その天使をそう呼んだ。
白衣の校医兼保健教務は、それを受けて婉然と微笑む。
「はい、ルカ先生です」
「ってことは、ここは医務室?」
未だぼんやりとした頭を叱咤して、ハルは考える。
ルカ――これが名前なのか、苗字なのか、彼は知らない――先生は、西棟の医務室が担当だ。
ということは、その医務室で、僕はほ……神月といっしょにここに運び込まれたらしい。
よし、だいぶしゃっきりしてきたぞ。
まさかこの女医を天使と見間違うとは思わなかったが。
「ええ、そう。隣の検査室に運び込んだんだけどね。二人とも回復してきたからこっちに移したの」
西棟は、学園西部に点在する校舎群が利用する集中施設で、学部の研究室の一部もここにある。
それくらいの場所だから、設備は充実していて、医務室とはいえ、そこらの病院顔負けの医療設備を揃えている。
それが直接医務室ではなく、MRI機器までそろう検査室に運ばれたということは、かなりまずい状況だったということだろう。
「そんなにひどかったんですか」
少々青ざめながら、彼は首筋をなでる。直接触れるとまだちょっと痛い。おそらく、痣になるだろう、と彼は思った。
「んー。神月さんは、打撲と擦過傷、あとは、頭打ってるっていうから、輪切りにはしてみたけど。夜光君は、チアノーゼ起こすくらいかな」
さらっと言い放つ。輪切りというのはMRI検査のことだろう。ハルは、けくっと鶏の鳴くようなしゃっくりのような音を喉の奥でたてた。
「神月さんを殺人犯にするわけにはいかないからねー、ルカ先生がんばっちゃった」
「僕自身はどうでもいいような口ぶりですね……」
快活に言う校医をくらい眼でねめつける。ルカはそれを気にした風もなく、彼に近づくと、てきぱきと体の各所を調べはじめた。
「あら、脈がはやいわよ。それ以外は特に問題なし」
「殺されかけたのは初めてなんで、動揺してるんです。しかも、なぜかその相手と同じベッドに寝かされたもので」
厭味ったらしく言うハルを、ルカはただただほほえんでいなす。
「だって、ほら喧嘩するほど仲がよいっていうでしょ?」
言いながら、今度はまだ眠りの中のほのかを診て行く。見れば頭には包帯が巻かれ、頬や腕には小さい湿布のようなものがはりつけられている。なんだか、僕よりおおげさだな。
なんとなくハルは悔しいような気分になる。
「それにあなたたちは……」
「先生!」
ルカの言葉を遮って、ハルは鋭く叫んだ。先程までのふざけ半分のやりとりとは明らかに違う語勢と怒気だった。
うぅん。
小さくほのかがうなる。
「……ま、いいけど。でもね、ルカ先生、実は怒ってるの。殺し合いなんかされたくないわ。せめて、私のいる学校では」
まったく変わらぬ調子で、ルカは返す。けれど、その言葉の中に何を感じたか、ハルの怒気は消えて、彼はうつむいてしまう。
「夜光君が悪いわけじゃない。でも、神月さんも、本当なら、こんなことする娘じゃない。そうでしょ?」
「彼女の誤解なんですよ。実際は……」
そこまで言いかけて、彼ははっと顔をあげた。
「先生! いま、何時ですか」
「時間? ええと、四時になるかしら」
「しまった!」
絶望的なうめきを、彼はあげた。