4:月の刀
薄れゆく意識のなかで、夜光ハルは、なんでこんなことになったのだろう、と本当に不思議に思っていた。
あの屋上から全てがはじまったのだ。
サボリで遊んでいた屋上から。
似合わないことをするんじゃなかった、と彼は後悔する。
風邪をひいたり、どうしても起きられずに講義をさぼったことがこれまでなかったわけではない。だが、学校にまで来ているのに、堂々と、しかも屋上で遊んでいたことなどこれまで一度もない。
それにしても、比較人類学という高校で学ぶにしては背伸びぎみの講義で、クラスの半分を代表しての発表の大任をまかされたプレッシャーから、一つ前の授業をさぼったのは、そんなにいけないことだろうか。
殺されるくらいに。
意外に強いほのかの指をなんとかこじ開けようとしながら、彼は記憶を辿っていた。
†
メッセージをもらってから、実際にその変な女たちを見つけるまで、時間はそこまで必要ではなかった。
というのも、彼女たちは明らかに目立っており、ほうぼうで騒ぎが巻き起こっていたからだ。ハルは、街を見おろす側から、中庭側に体を移し、騒ぎの起こる窓を覗き込んだ。
遠目から見ても妙な格好の三人の姿が、ひょこひょこかわりばんこに窓に現れるのを、見るとはなしに見る。
不意に、その女たちと目が合った気がした。無意識に腕が動いて、尻にさした木片をつかむ。
「みっつけたあ!」
そんな声とともに、開きかけの鉄扉がばん、と大きな音をたてて開ききった。
急に駆けだし、姿を消した少女たちを探して、校舎の窓を一つ一つ遠目にすがめていたハルは、屋上にその姿を見いだしてもなお何かの冗談だろうと思っていた。
見るからに妙な格好だ。
額から頭の上まで覆う太い鉢巻きと、その縫い取りがまず眼をひく。
緋、鶯、藍、それぞれに染められた地を青や白で彩られた糸で丁寧に縫い取られた紋様は、うずまきと刺のある螺旋が組み合わさった優美なもので、見ているとなんだか魂を吸い取られてしまうような気がする。
だが、ハルはそれに見覚えがあった。
尻のポケットを押さえる手が強くなる。
その縫い取りは、木肌色の服にもあり、これはワンピースのようにも見えるが、きっと違うのだろう。膝下あたりまであるけれど、そのさらに下はズボンのようなものが見えていた。
耳には、真ん丸の銀の環が下がり、そこに小さなものがついているな、と思ったら鈴だった。まるで、ここまでちりちりというかわいらしい音が聞こえてきそうな、ちいさな鈴。
そして、なにより、眼をひくのは、その大きな瞳。
全てを見通されているかのような、そんな強い光が、そこにあった。彼女たちのかわいらしい顔よりなにより、彼はその眼に惹かれた。
「なにじろじろ見てんだ、おめえ」
緋色の鉢巻きをつけた少女が、挑むように言う。
むき出しになった八重歯が、妙に印象に残る。
三人同じ顔というのは添付された写真でわかってはいたが、近くで見てみれば、それぞれに特徴があって、同じ造作の顔のはずなのに、ちゃんと見分けがついた。
「夜光ハルというのは貴方か?」
緋色の少女には構わず、鶯色の少女――これはあくまでも無表情だ――が尋ねてきた。なぜ自分の名を、と彼はいぶかしく思う。
「ん。まあ、そうだけど」
三人は見るからにほっとしたようだった。
三人そろって顔を見合わせると、すたすたと彼に近づいてくる。
「な、な、な、なに? 君たち、誰?」
尋ねても、ただただ、彼女たちは近づいてくる。
なんだか不気味な気がして、彼は無意識に後退していた。
フェンス際に追い詰められ、囲まれるような形になったところで、ようやく三人は歩みを止める。
じろじろと品物を見定めようとでもいうかのように上から下まで舐めるように見つめられ、緋色の鉢巻きをした少女が忌ま忌ましげに舌打ちするのが聞こえた。
なんだ、僕がなにかしたのか?
不安になるハルに向けて、藍色の少女が、舌ったらずに哀願するようにすりよってくる。
「あのお、月の刀を、もらえませんかあ?」
「そうだ、刀だよ、刀。あれがねえと、あたしたちゃ、おめえと……」
「僕と……なに?」
なぜだか赤くなる緋色の少女。その態度に不審を覚えて、思わず聞き返す。
しかし、少女は怒ったようにうなると、ぐいぐいと身を寄せてきた。
「とにかく、刀!」
その勢いに気圧されて、尻のポケットを思わず抑える。
「なんだ、そこか」
するり、といった感じで、緋色の少女が木片を抜き出した。
とっ、とっ、とっ、と三歩飛び下がり距離をとったところで、それを掲げる。
「あっ」
ハルが叫ぶ。緋色の少女につかみかかろうとしたのを、他の二人が体当たりで邪魔してきた。
「なにすんだよ、それはっ」
ランカはそれを、ゆっくりと両手で掲げもち、子細に眺めた。
堅い木に刻み込まれた緻密で美しい彫刻。満ちる月を表す真円と、欠ける月を表す弧が組み合わされた、それ。
「これが……」
ゆっくりと両端を持ち、力を込める。
「やめろっ」
「暴れると痛いですー」
「うるさい、触るな。戻せ、返せ、離せっ!」
なんとか駆け寄ろうとするハルを、二人は懸命に押しとどめる。こんなときまでリンカは無表情を貫き通していた。
ランカの手が、ゆっくりと左右に開く。
手に持ったそれは、はじめ、少しだけ抵抗するかのように見えた。けれど、ランカは力をさらに込め、それは、ゆっくりと左右に割り開かれていく。
隠されていた鋼が、木の皮をむかれたかのように現れはじめた。
鍛え抜かれた鋼のきらめきが、四人の眼を打った。
「月の、刀……」
高く掲げ持った短い刀を、ランカはそう呼んだ。
それは、陽光を受け、青く青くきらめいた。
†
そして、その刀を持って、あの三人は逃げ出したのだ。
それを追っていたはずなのに、どうして僕は首を絞められているのだ?
わからない。
全然わからない。
理不尽なことに対する怒りが、体中に満ちた。
もがけばもがくほど、体内の酸素は欠乏して、視界に斑点が生じはじめる。けれど、怒りはけして消えようとはしなかった。
あの守り刀……あれだけは、取り戻さなければいけない。唯一遺してくれた、あのひとの……ものなのだから。
彼は薄れ行く意識のなかで、懸命に生にしがみついた。
残る力をふりしぼり、体を無茶苦茶に動かす。
「きゅう」
そんな音が聞こえて、けれど、それを最後に彼の意識は闇に落ちていった。