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明日飛ぶ鳥  作者: 安里優
終章
34/34

あしたとぶそら

 ほのかお嬢様はまたしても疲れ切っていた。

 路面電車の駅から校舎までの短い道のりも、千里のごとく感じてしまう。


「はあふ」


 かわいらしい溜め息もとめられない。


「溜め息は幸を逃すぞ」


 目の下にクマをつくったハルがこれも力なく注意する。


「そんなものとっくに逃げ出してしまいましたわ。残っているのは、せいぜい『盲目の希望』くらいですわ」

「あんたは、パンドラかっ」


 つっこみもタイミングが遅い。けれど、後ろを歩いていた三姉妹はきゃらきゃらと笑い声をあげた。

 無邪気に笑う二人と無表情な一人をじとーとした視線で刺し貫きながら、忌ま忌ましげに尋ねる。


「なんであなたがたそんなに元気ですの」

「え? だって、あたしたちは三人のうち一人しか出て行かなくていいし」

「不公平です」


 ぎりっと奥歯を鳴らし睨みつけられて、レンカはあはははと乾いた笑いをもらすしかなかった。


「毎晩出かけるから疲れる。それに月の刀を使えるのは一人でいい。二人そろう必要はない」


 冷静に指摘するのはもちろんリンカ。

 ほのかたちは、このところ毎晩トウテツを追ってせきれい市内を縦横に駆けめぐっているのだ。


「化け物を一日でも早く駆逐するためです! だいたい、あなたがたとおにいさまを二人きりにしたら、してしまったら……」


 ほのかはかあっと赤くなる。


「いや、いやらしいことをしようとするじゃないのっ」

「だから、それが一番効果的なんだって」


 ランカの反論に余計に赤くなって怒りの目を向ける。再び口を開こうとするその背中を、ちょいちょいとつつく指。


「ほのか」

「なにっ? おにいさまはいやらしいことしたいのね? そうなのね? 破廉恥極まりませんわっ」


 振り向いてわめきだすほのかの髪の毛を彼の指がかすめる。


「ほら」


 その指先で、白いものが見る間に消えてゆく。後に残った水滴が彼の指を滑り落ちて行った。


「雪?」


 その言葉に導かれたように、ひとひらの雪片が二人の間に舞い落ちる。

 振り仰げば次々と降り来る白い綿の塊。


「わぁ」


 童女のような感嘆の声をあげて、ほのかは柔らかに微笑む。そのはちみつのような甘い笑みに、ハルはつられて微笑んだ。

 しんしんと音もなく雪たちは大地に抱擁されにやってくる。

 校舎へ急ぐ周囲の学生たちも、瞬間、空を見上げた。

 喜びの声をあげたのは雪になれない者たち。なんの感慨も持たずに見上げるのは雪に慣れきった者たちだ。その中の幾人かはあからさまに迷惑顔。

 これから先の冬支度や雪下ろしを考えればいたしかたない。


 しかし、その時美しい和声がその場を一変させた。


「"Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe

ranran pishkan" arian rekpo chiki kane

petesoro sapash aine, ainukotan enkashike

chikush kor shichorpokun inkarash ko……」


 それは見事なソプラノの三重唱。


 太くて厚みのある強い声――ドラマティコソプラノのランカ。

 とても高い高い装飾的な鳥のような声――コロラトゥーラソプラノのリンカ。

 むらなく表情豊かに抒情的に謳いあげる――リリコソプラノのレンカ。


 独特の節回しで彩られたその歌は、高い高い空までしみ入るようで、雪を迷惑に思った者すらも、その声の美しさに世界が一変したのを感じた。

 その時ばかりは空から降ってくるのはお荷物ではなく、ただただ美しい贈り物だった。


「銀の滴ふるふるまわりに、金の滴ふるふるまわりに……神謡ユーカラね」

「知ってるのか?」


 美しい歌を崩さぬよう、ひそやかに言葉を交わしあう。


「知ってるわよ。おにいさまは教えてもらわなかったの?」

「……逃げ回ってたからね」


 ほんの少しだけ申し訳なさそうに肩をすくめる。そんな彼を見て、ほのかは悪戯っぽく目をきらめかせた。


「あのね。あの謡は梟の神様が謡った謡なの。梟の神様は最後に言うの。『人間たちの後に坐して何時でも人間の国を守護まもっています』って」

「……」


 ハルは三姉妹を見つめた。制服姿に、初めて見たときのあの衣装が重なって見えるようだった。

 次いでその三人を見つめるほのかの横顔に視線を戻す。

 その顔はたしかに寝不足で腫れぼったくなっていたし、疲れの影は色濃く落ちていた。


 けれど、それでもなお……いや、あるいはそれだからこそ、やはり彼女は綺麗だった。


「神様みたいになろうなんて、そこまでは傲慢になれないけれど」


 照れ笑い。ハルはそれを見て、この義理の妹を急にからかってやりたくなった。


「いや、わがまま部門では文句なく神様級だよ」

「……お、に、い、さ、ま?」


 一音一音区切った言葉を、歯の隙間から押し出して、ぎぎぎとほのかの顔がハルのほうを向いた。


「あ、いや、ちょっと朱雀は。うわ、抜くな。こんなところで刀をぬくなあああ」


 小刀を抜きはなったほのかから逃げ出しながら、ハルは思うさま笑い声をあげた。

 その笑い声は三姉妹の歌声やほのかのふざけ半分の怒声さえ包み込んで、舞い散る雪空の中へ吸い込まれ、どこまでもどこまでも高く登っていくのだった。

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