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明日飛ぶ鳥  作者: 安里優
第五章:享楽の時
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6:ハルの決断

「夫殿」


 ハルの背に負われたリンカは、小さく言った。


「これくらいで大丈夫だ」


 二人は湖の岸から少し離れた芝生の中の小道にいた。シデラ湖周辺の公園部分へと彼はリンカを運んできたのだ。


「そう」


 短く答えて、彼女を芝生に横たえる。

 リンカは柔らかな芝生に頬を寄せて薄く目をあけた。


「レンカも……」

「わかってるよ」


 強い口調になってしまったのをわかっていながら、ハルはそのまま駆け戻り、レンカの体を運んできた。意識のない体がリンカの横に同じように横たえられ、ハルはその横に立った。


「夫殿はもう少し離れていたほうがいい。男性は影響を受けやすい」


 彼女の声にはじかれたように顔をあげる。


「なんで僕を責めない?」


 少年の叫びは、手に届かないなにかに懸命に手を伸ばしているように狂おしかった。目を丸くして彼を見上げるリンカの耳で、耳飾りが、ちりりと涼やかな音をたてる。


「よくわからない。すまない」

「僕が行くべきだったんだろ。あの化け物に立ち向かうべきだったんだろう。ほのかじゃなくて、僕が!」

「……」

「ああ、逃げたよ。怖くて、自分が大事で。でも、でも……」


 自分の言葉が理不尽極まりないやつあたりだと、ハルにもわかっていた。けれど、彼は自らの内に渦巻くいやらしいなにかを吐き出さずにはいられなかった。


「許しが欲しいなら、宗教施設にでも行くことを勧める」


 声にならぬ叫びが、ハルの喉の奥で消えてゆく。


「逃げるのも闘いの内。逃げるほうが辛い事はたくさん」


 彼女は平板な声で続ける。


「逃げるのはいや? 立ち向かうのもいや? だったら、シのウタに同調するのもよいかもしれない。何もかも無くなる」


 思い出したかのように、神月嬢も私たちも嘆くだろうけど、と聞こえないくらいの声で付け加える。


 思考を停止する事への誘惑。

 自らの存在を否定する事の快楽。

 あらゆることからの、解放。

 それは、悪魔のささやきのようにハルの脳髄をしびれさせた。


 その時、彼の脳裏をよぎるものがあった。


『ごめんね』


 そう言って泣いていたのは誰だったろう。


『もう逃げない』


 そう言って泣いていたのは誰だったろう。


 きらきらと輝く瞳。

 紅潮した頬。

 真っ白になるくらい握り締められた拳。

 小さく、ほんの小さく震えていた体。


 その時は気づきもしなかったはずのそんな事たちが、彼の記憶の中で、精彩に細大漏らさず花開いてゆく。

 彼は唐突に気がついた。

 自分があの化け物よりも怖がっている物があることを。


「……いまから行けば間に合うだろうか」

「急げば」

「ありがとう」


 彼は既に駆けだしていた。

 けして失ってはいけないものを護るために。



                    †



「行ったねえ」


 それまで閉じられていた瞳がぱちりと開き、レンカが明るい声を発する。

 こくりとリンカがうなずいて見せた。


「いっぱいしゃべったねえ。ご苦労さま」


 こく。


「しかし、ほのかちゃんが義理の妹かあ。妬けるなあ」


 小首をかしげるリンカ。


「何言ってるのお。血のつながらない――あ、この場合はちょっとはつながってるんだっけ……ともかく、そんな妹ってのはたまらないシチュエーションなんだよぅ」


 レンカは興奮気味に続ける。


「つまり、あたしたちのライバル。ほのかちゃんに夫殿とられちゃうかもなんだよ」


 再び小首をかしげる。


「え? どうせ三つの体で共有するんだからほのかちゃんとも共有すればいい? あ、それいいね。うん。今度ほのかちゃんに言ってみよう。リンカちゃん、あったまいい!」


 レンカはうれしそうに微笑んだあとで、眉をよせて考え込んだ。


「ねえ、こういうのも自画自賛っていうのかな?」



                    †



 ほのかには案外早く追いつけた。

 タラップを登り切り、船の上甲板に出る扉の手前で、彼女とランカが言い争っているところに行き当たったからだ。

 彼の姿を見て、ランカはにやりと獰猛な笑みを浮かべた。


「よぉ、やっと来やがった」


 ほのかは瞬息の間固まった後で、さりげない風で髪を払った。


「あら、いらしたんですの。おにいさま」

「うん、来た」


 いっそ晴れ晴れと彼はそう言った。ランカのそれが伝染したように、歯を剥いて見せる。

 残るほのかの顔にも不敵な笑みが広がった。


「それでいったい何をしてるんだい?」

「うん、それなんだけどさ」

「この人が船ごと燃やそうなんて無茶を言いますの」


 ほのかが手を大きく振って憤慨ぶりを示す。困ったように笑うランカは、重厚なオートマチックを軽々と持ち上げて額にあててみせる。


「だって、あいつ死ぬと分裂すっから。焼くのが一番手っとり早いんだよ」


 扉の隙間から甲板を覗き込めば、先程の化け物が相変わらず豪勢な食事を貪っている。

 幾分小さくなったように見えるのは、恐怖にかられていないからだろうか、といぶかしむと、傍にもうひとついた。

 どうも二つに増えているようだ。だが、そいつは極端に小さい。


「あれは分裂したあとなわけか」

「そ。さっきシのウタ聞いただろ。あんときやつは一回死んだわけ。で、二匹になってるわけだけど……」


 耳をふさげとジェスチャーをしてから、ほのかは扉の隙間から銃口を差し出す。銃爪をひきしぼると、一連の轟音と共に硝煙のにおいが立ちこめた。

 放たれた弾丸は、トウテツの体表にもぐりこみ、瞬間、ぽっかりとそれがふくれたように見えた。

 メロンのようにふくれたそれは、ぱあんっと爆ぜて内容物をまきちらす。


「うっ」


 ほのかが口を押さえる。灰色のぐちゃぐちゃとしたものがはじければたしかに気分はよくないだろう。

 しかし、当のトウテツは気にした風もなくぶよぶよとうごめいているだけだ。


「体は削れる。だから、ちっこいのは分裂するまでもなく生存できなくできるんだけどな。でかいのはきりがねえ。限界まで衝撃を与えても分裂するだけだから」

「……それでまわりの物ごと焼き尽くして逃げようってわけか」

「そそ」


 ハルの推論に軽く賛意を示す。彼女の目はじっとトウテツを見つめ続けていた。


「ただ、月の刀ならなんとかなる……かも。それを試したいというのもあるけどな。危ないのは危ないぜ」


 その言葉につられて、ほのかが刀をそっと彼のほうへ差し出した。

 力強くその先端をつかむ。けれど、ほのかのほうが手を離そうとしなかった。


「どうすれば?」


 ぐいっとひっぱってみる。抵抗はなくひっぱれる。けれど、ほのかの指は刀にかかったままだ。

 彼は彼女の顔を不思議そうにのぞきこんだ。


「そう、どうすればいいんですの?」

「ちょ、ちょっとまて。ほ……神月は関係ないだろ。僕がやるんだから」

「何をいまさら。おにいさまは二度も逃げたのよ。今度も逃げるかもしれないじゃない」

「あ、ひど」

「侠気をもっと早く見せないからですわ。ほんと、少しでもあなたと血がつながってることを恥じ入ってしまったじゃありませんの」

「うわ、そこまで言うか。僕だってなあ、ほ……神月が知ってると思わなくて混乱してたんだから……」

「その、ほのかって言いかけるのやめてくださいませんか。わざとらしいですわよ、おにいさま」

「お前のおにいさま、のほうがわざとらしいよ」

「そりゃ、わざとですもの」


 場違いな口げんかを眺めやりつつ、ランカは何事か考え込んでいる。


「その血がつながってるっての、実際はどうなんだ?」

「実際って?」

「どれくらい血がつながってるかってこと」


 ランカは存外に真剣な声でそう尋ねかけた。


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