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明日飛ぶ鳥  作者: 安里優
第五章:享楽の時
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5:いまも彼女の心には風が吹く

「でもな、そのおかげで何が起こった知ってるか? あたしを狩りだすために、神月がやったことを、あんた知ってるのか」


 それは、血を吐くような叫びだった。

 全存在を吐き出すかのような、雄叫びだった。その勢いに、ハルは応えずにいられなかった。


「……あとで聞いたよ。だから、僕はこの学園に……」

「はっ。責任感とでも言うのか? ふざけんじゃねえ。てめえが戻ってきたって全部手遅れなんだよ。あんたが戻る場所なんかあけてやるもんか。このくそご立派な兄貴様!」


 ほのかの脳裏に、あの場所の光景が、匂いが、飢えが、痛みがまざまざと蘇る。

 ねじくれた道路。

 廃材でつぎはぎされた家々。

 ゴミの中を無気力に歩き回る人々。

 人よりも大きなネズミが、赤ん坊を食い殺し、そのネズミを人が狩る。


 東京魔海から吹いてくるむっとする熱い風に侵されて、からからになった街。人の心も、なにもかも熱い風に吹き飛ばされて。

 風はマラリアを、デング熱を、そして、名もない伝染病たちを運んだ。水没した都市の隙間から。

 風は吹き溜まり、ゴミを舞い散らす。ゴミは、彼らの食糧であり、家であり、衣服であった。


 水没した関東にとって、国中のゴミを受け入れることしか、生きる道は残されていなかったのだ。

 そんな街で、ほのかは育った。自身も捨てられた、浮浪児ごみとして。


「あいつら……ヒロキ、クリエ、サッチョウ、コノハ、ミズエにゴンロク……あたしの家族はなんで死んだ?

 一日の糧を得るためか? 違う。

 憎しみの? 愛のため? 違う。

 快楽のためですらない!」


 仲間の死にざまを、ほのかは直接には知らない。知ることは出来なかった。

 けれど、ゴミだらけの街路に、これもゴミのように打ち捨てられた遺体を見れば、彼らがどんなに酷い仕打ちを受けたかは想像できた。想像せずにはいられなかった。


 怪力が自慢のサッチョウは四肢の骨を全て叩き折られ、その屍は、いつも見る彼の数分の一にまで小さく折り畳まれていた。

 いつかこの東京魔海を出て、アイドルになるんだ。そうしたら、綺麗な服が着られるよね。みんなにもたまにはお菓子を差し入れしてあげるよ、なんてふざけていたコノハは顔の皮を剥がされ、ずたぼろの袋に包まれて捨てられていた。

 自警団の元締めとしてあの腐れ切った東京魔界のほとりに秩序をもたらそうとしていたクリエはがりがりにやせさばらえた姿で見つかった。薬を無理矢理打たれて中毒にしたてあげられたのは紫に変色した腕を見るまでもなくわかった。


 なによりも辛かったのは、その誰にも彼女が駆け寄ってあげられなかったこと。

 それはほのかというたった一人の少女を狩りだすための罠だったのだから。

 猥雑な街並みの中から、ジャンク屋と奇形児だらけのこの街から、神月の血をひくものをおびき出す、そのためだけの行為。


 そして、あそこで死んでいった彼らは、彼女を護るため、彼らの希望を護るために死んで行ったのだ。

 だから、彼女は見ているしかなかった。

 見つからぬように、気づかれぬように、そっと身を隠し、仲間たちの遺骸が一体、また一体と道端で腐り果てるまで。


「そうだ。あんたが逃げ出したからだ。あたしが逃げ出したからだ。この完全無欠の真実からは、あんたもあたしも逃げられない!

 あんたとあたしのせいだ。

 あんたとあたしは、あいつらの運命をねじ曲げちまった。わかるか。あんたとあたしが殺したんだ」


 ハルを責めるのは筋違いだ。

 彼女もそれは気づいている。

 ハルの逃避は、ひとつのきっかけにすぎなかった。彼女が神月の血をひいている限り、一族はどこまでも追いかけてきただろう。いつか、追いつかれるのは間違いなかったのだ。


 だから、そう、だから。

 許せないのはこの自分。

 この自分なのだ。

 ほのかは悲鳴のような叫びを飲み込み、それでもハルを叱咤し続けた。

 自分を許すことはできないけれど。

 この人を許すことは出来るはずだから。


「今度も殺すのか。

 あんたが殺すのか。あたしが殺さなきゃいけないのか。そんなの我慢できない。

 あたしは、もう逃げない」


 彼女が息を整えるまで、ハルは何も言えなかった。

 自分を落ち着けるように胸に両手をあて、ゆっくりと大きく息を吸うほのか。その顔が再び持ち上がったとき、彼はそのまなざしの中に苦しみと決意の両方を見いだした。


「ええ……もう、逃げませんわ。私。

 私はもう逃げない。

 私は殺させない。

 そのためなら、この手がどれだけ汚れようとかまいません。

 この神月ほのかの手が届く限り、誰一人勝手には死なせません」


 なんという傲慢。

 なんという思い上がり。

 けれどその志のなんと気高いことか。

 それは誇り高き挑戦だった。おそらくは幾度も破れるはずの。


 少女は微笑んだ。

 薄く、小さく、けれど凛として。


「刀を頂戴。おにいさま」


 その呼称のなんと冷たいことか。ハルは思わず身震いした。


「ほのか、これは……」

「刀、を、頂、戴。おにいさま」


 無邪気な子供のような問いかけ。ああ、その頬に光るのは涙だろうか。あるいは水晶かなにかのかけらだろうか。

 おずおずと、彼は精緻な彫刻を施した刀をとりだした。それを見て取った瞬間、ほのかの顔に苦痛の色が走る。


「くっ」


 それまでは少なくとも彼女の態度にはなにかがあった。

 期待だったのか、それとも遠い親類への情愛だったのか。

 けれど、それはすっかりと抜け落ちて、彼を見る視線はまるで路傍の石ころを見るかの様だった。意識するまでもない、というくらいがらんどうな視線。


「本当に逃げるとは。まあ、面倒がなくていいわ。その二人のことくらいは頼めますわね? 玻璃おにいさま」


 彼は無言でうなずいた。ほのかとは目をあわせようともしない。


「さよなら」


 そう言い捨てて、ほのかは振り向くこともなく、タラップを昇りはじめた。

 その小さな体が鉄の階段を一歩一歩登っていくのを見ても、ハルの想いは揺らぎはしなかった。

 アメーバのような化け物も、人格を共有しているなんて与田話にも金輪際関わるつもりはなかった。


 本当に、心の底から?

 本当に。心の底から。

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