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明日飛ぶ鳥  作者: 安里優
第一章:せきれい
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3:いくつかの衝突

不意の風が吹き、談笑するほのかの手元から、レポート用紙が巻き上げられた。

 それに気を取られて、彼女が足を踏み出したのは、無理からぬことだったろう。


「ほのかさん!」

「おねえさまっ」

「先輩っ」

「ああああああっ」


「え?」


 後輩たちの叫びに振り返った途端。

 彼女は宙に舞っていた。


「ひゃうっ」


 くるくると視界がまわる。

 植え込み、空、渡り廊下の天井、また植え込み、そして、砂ぼこりにまみれた地面。


「ぷぎゅっ」


 鼻っ面から思いっきり墜落して、彼女は奇妙な声をあげた。


「邪魔だよ、こん莫迦っ」


 野卑な叫びが、背後を疾風のように駆けてゆく。視界の隅で、燃えるような緋色が揺れるのが見えたような気がした。


「な、な、な……」


 駆け寄ってくる後輩たちの気配を感じつつ、憤然と立ち上がり、自分をはね飛ばしたのが何者であるか確かめようとあたりを見回す。

 視線で物が燃えるものならば、あらゆるものを燃やし尽くしそうなほど激しく熱い視線だった。


「な、なんか走り去っていっちゃいました……」

「変な格好した子だったね」

「すごい勢いでした。おねえさま、大丈夫ですか……」


 口々に言いつのる後輩たちを見て、なぜかほのかは理不尽な怒りにとらわれた。


「……っ」


 わきあがってくる罵りの言葉が漏れ出て行かないように、歯を食いしばる。


「ま、まったく、世の中には変な、ひ、人も、いるものですわね。人を突き飛ばす趣味でもおありなんでしょう、きっと」


 へたな冗談。

 けれど、後輩たちがおずおずとだが笑みを返してくれたことに安心して、努めて冷静を装うほのか。

 ただし、彼女の怒りは周囲にはまる分かりだった。

 普段べたべたとなついていくファンの少女たちが、ちょっと遠巻きにしているのがその証拠。


 ほのかは、ふうと一息ついて、散乱した持ち物を集めだす。

 それを見て、ようやく呪縛から解かれたように、後輩たちも植え込みの中や、渡り廊下のコンクリの上に散らばったものを集めはじめた。


 皆が、地面を、あるいはせいぜいが腰の高さを見ていた。

 だから、それに気づけた人間がいるはずもなかった。


「先輩、この筆入れですけど……」


 蓋のあいたペンポーチを拾い上げて顔を上げ、中身は、と言いかけた後輩の一人の口が、ぽかん、とあいた。


「せんぱ」


 い、と言い終わる前に、再びほのかは宙に舞っていた。


「みぎゃあっ」


 その後輩はこう思った。

 ああ、神月おねえさまがボールのようにはね回っていらっしゃる、と。


「緊急。許せ」


 駆け抜けていった少女とは違い、一拍だけ立ち止まったその少女は、謝罪の言葉を継げてまた走り出した。

 さきほどの少女と同じ奇妙な装束に包んだ体が描くフォームは、実に無駄がなく美しい。見ているほうがほれぼれするような走行姿勢であった。


 今度は渡り廊下のコンクリの上にべったりとうつぶせに倒れたほのかは、こわごわと後輩たちが近寄ってもぴくりともしない。

 あまりのことに幾人かは目に大粒の涙を浮かべていた。


「医務室に……。いえ、救急車を……」


 悲痛な叫びを一人の女の子があげた途端、びくんっ、とほのかの体が痙攣したように見えた。

 ずささっと後輩たちがみんなしてあとずさる。

 二人ほどがスマホを取り出して、救急センターに電話をかけようとした時、ほのかの華奢な体はばねのようにはじけて、しっかり立ち上がっていた。


「緊急ですって?」


 喉の奥から絞り出された声は、まるで猛獣の唸り声のように聞こえた。


「緊、急、ですって?」


 音節ごとに区切って、食いしばった歯の間から言葉を押し出す。その迫力に押されて、後輩たちは、じりじりと背後にさがる。

 ほのかは一度、二度、三度と深呼吸。ようやく気を静めたかのように見えた。もう一度息を深く吸い込み、平均より少々――いや……かなり――薄い胸を大きくそらす。


 ああ、一発ぶたれるおつもりかしら。

 後輩の一人は諦め顔で思った。


 ほのかは誰よりも尊敬すべき先輩であり、この学園でも随一の美しさと優雅さを持つ女性であり、心の底から慕っている『おねえさま』ではあるが、演説の長さだけは少々問題だった。

 あまりの長広舌に辟易した学園当局が生徒会長立候補を断念するよう働きかけたのは大きな間違いだと思うにしても。


 しかし、彼女は胸の中で小さく嘆息するだけに留めた。

 神月ほのかを慕うならば、これくらいの癖は喜んで耐え忍ぼう。それだけの価値は充分あるのだから。


「あー、どいてえええ」


 すっとんきょうな声が響いた時、ほのか以外は彼女の演説を承ろうと、少し離れた場所で整列していた。

 まっすぐに並んだ黒い頭の列が声の主を見、ほのかに視線を戻し、全員が同じタイミングで諦めたように溜め息をついた。


「いいですか、みなさん。そもそも…………へ?」


 振り返ったほのかは、はじめて真っ正面から、その女を見た。

 透き通るような白い肌。

 真ん丸な大きな瞳。

 人形のように整った顔だちに浮かぶ、小動物のような表情。


 だが、それよりも眼をひくのは、木肌色の(アットゥシ)鉢巻き(マタンプシ)の藍。

 そして、大地を蹴る足といっしょにふりまわされる腕。


 彼女は一心不乱という様子で、駆けていた。

 ひたすらにまっすぐ、ひたすらに前を向いて、走っていた。


 そう、彼女の真っ正面から。


 振り返ることなどなかったのだ。そのまま一歩脇によけていればよかった。

 しかし。

 ほのかは振り返り、そして。


 わたわたと藍色の少女が逃げ去ったあと、丹念に仕立て上げられたブラウスとその白いかんばせに、見事な足跡がついた状態で、ほのかは灰色の床の上に横たわっていた。


「ふふ、ふふ、ふふふふふふ」


 大の字に倒れたままのほのかの口から漏れる笑い声に、後輩たちは日が翳ったような錯覚を覚える。


「ふふ、うふふ」


 不気味な笑い声をもらしながら、彼女はゆらぁりと陽炎のように立ち上がった。


「うふふふふふ」


 少女の走り去った方向をじっと見つめ、彼女は笑みをもらし続けた。

 後輩たちはもはや身を寄せ合って、がたがたと震える始末。


 そこへ息せき切って現れる制服姿が一つ。

 これはほのかに体当たりなどせずに、少し離れたところで止まると、膝に手をつき体を曲げてはあはあと大きく息をついた。


「あのさ、神月。変な衣装の女の子みかけなかった?」


 ようやく顔をあげてそう尋ねる。夜光ハルだった。


「変な衣装?」


 ぴくり、とほのかの眉が動く。


「うん。なんか、変な布を頭に巻いてて、全身妙な格好の」


 ほのかは応えない。ただ、うつむいて、ぶつぶつと呟く彼女を、不審気に見やるハル。


「神月? ……あれ、顔どうしたの」


 あまりの妙な態度や、彼女には珍しく――というよりありえないことに――汚れている制服に気づいて、心配になったのか、彼は彼女に近づき、顔を覗き込んだ。


「そう……。うん、そうね。予想しておくべきだったかもしれないわね。うん。そう、そうね。あなたね。あなたが、仕組んだのね?」

「は?」


 震えている後輩たちが『逃げて、逃げて』という仕種を必死でしているのに、ハルは気づかない。

 何か動いた、と思う前に白い繊手がハルの首に巻きつき、


「へ?」

「貴様がーーーーーーー!」


 叫びとともに、強く強く締め上げられていた。

 喉から押し出される空気を感じながら、ハルは死を覚悟した。

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