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明日飛ぶ鳥  作者: 安里優
第五章:享楽の時
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3:饕餮

 船から岸に戻り、他のスタッフも客たちも姿を消していることに気づいたあたりで、ようやくハルは自分を取り戻した。


「説明してくれ。いったい、あれは……」


 ――キモチイィィィィィ


 脳天をぶん殴られた様な衝撃。


 ――シヌノキモチイイイイイ

 ――ブンレツ、シヌ、シヌ、キモチイィィィィィ


 その『声』が聞こえた途端に、四人はその場に崩れ落ちた。

 それは精神を直撃する『声』だった。

 体中の器官が悲鳴をあげ、その活動を一瞬の間だけ『拒否』した。

 自らの鼓動が、ほんの数秒とはいえ明らかに止まったことをハルはなぜだかわからないが強く確信していた。


 体が内側からひっくりかえされたような気持ちの悪さ。いや、それは、あるいは心地よさだったのか。

 ほのかが体をくの字に曲げて嘔吐していた。その脇でリンカとレンカは死んだようにぐったりと横たわっている。


 あわてて駆け寄ろうにも体に力は入らない。肩を地面にひっかけるようにしてようやく這いずって彼女たちの側による。

 頬をリンカの口元に近づける。か細いけれど、息が産毛をゆらすのを感じる。

 次いで、レンカも息をしているのを確かめて、ほっと胸をなでおろした。


 自らの吐瀉物の上に倒れ込んで七転八倒しているほのかに近づくころには、膝にも力が入るようになっていた。膝と肘の四点で体を支えてひきずっていく。


「大丈夫か、神月」


 大丈夫なわけがない。彼は懸命にすっぱい液を吐き戻している彼女をさすった。


「み……ん」

「え?」

「みんな……は……?」

「ああ……」


 ようやく気づいて、再度あたりを確認する。

 湖畔に人影はない。とっとと逃げ出して、ここらには近づいてないのだろう。

 野次馬根性を出さなかっただけ良い判断だ。けれど、その一方で、なんだか見捨てられたような気もして、少々悔しい部分もあった。


「大丈夫。みんな逃げてるよ」

「じゃ、じゃあ、ランカ、さ、ん、は」

「彼女は……」


 そうだ。ランカは船に残ったままだ。

 ハルは力なく甲板のあるはずの頭上を見上げた。しかし、地べたにはいつくばったままでは、舷側に邪魔されて化け物もあの少女も見えはしない。


「船に戻ろうなんて考えないことだ、夫殿」


 かすかな声がそう言った。ハルは声の主のほうへにじりよる。


「どういう事だい、リンカ」


 リンカは苦しげに顔をしかめ、目をつむったまま応える。


「あれは、トウテツ。人はあれに近づいてはならない」

「トウテツ?」


 あの化け物の名前だろうか。


「あれを知ってるのか、リンカ。あれはいったい……」

 ごぼごぼといやな音の咳をするリンカ。

 どうしようもなく、ハルはハンカチを出して彼女の額に浮かんだ汗をぬぐってやるしかなかった。


「ありがとう」

饕餮とうてつというと、中国の神様ですわね。虎の歯、人の爪を持ち、嬰児のように泣き声をあげるとかいう……」


 少し回復してきたのか、自分の吐いたものから離れて大の字になったほのかが言った。彼は自分のウエストコートを脱いで、彼女の体についた吐瀉物を丁寧にぬぐい取っていく。


「リンカさんにはハンカチで、私はウエストコート? 差別ですわ」

「莫迦。量が多いんだからしかたないだろ」

「ふんっ。どーだか」


 憎まれ口をきけるようになったら一安心かな。

 ハルは心の中でそう呟いて、胸をなでおろす。


「それで、中国の神様がどうしたって?」

「饕餮は神というよりは魔神というべきかしら。まあ、魔神に堕とされた被征服民の神というのが正確かもしれませんけど。とにかく、その性、粗暴にして、惰弱、貪欲なること極まる、という大食らいの魔物ですわ」


 饕餮紋様というのが土器やなんかに魔よけとしてよく描かれているのですよ、と彼女はしめくくった。

 なにか喋らずにはいられないという風情だった。


「それとの関連性は私は知らない。ただ、昔からあれはトウテツと呼ばれていた。いつごろからいるのか、どこから来たのか誰も知らない。ただ、現れれば山ごと、邑ごと焼く決まり」

「邑ごと、焼く?」

「焼かなければ、地方全体滅びてしまう。みな誰もが自殺する」

「自殺ですって?」


 跳ね起きるほのか。血の気は失ったままだが、なんとか動けるらしい。その様子を細く目を開けて興味深そうに見つめるリンカ。


「神月嬢は、不思議だ。『シのウタ』を聞いて、どうしてそんなにはやく動けるようになるのだろう」

「なんのこと?」

「さっきのウタだ。感じたろう」


 言われて二人はぶるっと体を震わせた。

 自分たちがさきほどまで転げ回っていた苦しみの源泉を、すっかり忘れ去っていたことに恐怖を感じたのだ。

 あまりの苦痛は、自動的に記憶から削除されてしまうらしい。

 あるいは、体の芯まで響いたそれが、彼らの精神に変調をきたしたのかもしれない。


 暝い暝い誘惑。

 そして、なによりも信じられないくらいの悦楽。

 ハルは自分の肉体が、主の意志とは無関係にある生理反応を起こしているのに気づいて赤面するしかなかった。


「や、夜光君。こんなときに、こ、こ、こ、こ、この恥知らずっ」


 もりあがるトラウザーズの布地を見て、真っ赤になって憤慨するはのか。それが照れなのか怒りなのか、ハルには判断しかねた。


「や、ちがうんだ。これは、えと、なんでかわからないんだけど」

「わからないですって? この変態! みなが大変なときに!」


 そこに冷静な声が割り込んでくる。


「夫殿を責めるのはお門違いだ。神月嬢。それは、先程のウタのせい」

「はあ?」

「あれは、死への誘い。快楽のウタ。人はあれを受け取ってあまりの心地よさにひきずられて自ら死を選ぶ」

「タナトスの快楽、か」


 なんとなくわかるような気がした。

 生きること、活力や生命力とはまるっきり反対の魅力。


『もう何もしなくてもいい』


 という誘惑。それはたしかに暝い心の縁に存在するはずのものだ。


「トウテツは分裂して増殖する。その時、シのウタを発する。耐えられるものはいない」


 それを聞いてほのかはぶるぶると震えだす。


「じゃ、じゃあ、ランカさんは……」


 リンカは小さく首を振った。それをどう受け止めたのか、ほのかの瞳から大粒の涙がひとつ、ぽろりと転げ落ちた。


「ちがう」

「え?」

「ランカは死んでいない。上で闘っている」


 リンカは静かにそう告げた。

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