2:大仕掛け
『特別室』が30人の上客を迎え入れたのは、会場から三時間後の12時近くの事だった。
「よし、ちょうどいい。『下』に合図を」
ルーレットやバカラに興じる客たちを見ながら、ハルは襟元につけられたマイクに囁く。それは、いくつかの経路を経て、ほの暗い地下へとたどりつく。
そこは、華やかな『上』とは違う。慌ただしい舞台裏とも違う。
どこまでもどこまでも続く奈落の最下層。暗黒の最果ての地。
まわりを見回しても見えるのは遥か高見まで続く壁、そして、頭上に浮かび、その存在感を高らかに主張する『上』だけだ。
そこは、幾十人もの男たちが押し込められひしめきあう、地獄のような場所だった。
「おっし、合図だ。やるぞ、お前ら!」
「おぉおおおおお」
野太い叫びが、地下空間……いや、高く高く積み上げられた壁の中の空間をどよもす。
巨大な錘がロックをはずされ、ケーブルをウィンチからひきずりだしはじめた。
「そーっとだ、そーっと……気づかれるなっ」
ごくごくゆっくりとケーブルは繰り出され、頭上でなにかが動く音が聞こえはじめる。
何十もの手がケーブルを掴み、何十もの眼がそれを注視した。
見よ、彼らの頭上からしずしずと降り来るものを。壊れ物のように慎重に、1m、1cm、1mmずつ下降してゆくそれを。
ついに彼らの頭上を覆い、それは彼らを押しつぶさんと……。
「くうっ」
「支えがついてても……おも……いなっ」
何十もの肩が、それを支えた。
何十もの腕がそれを持ち上げ、ゆっくりと下面につけられた車輪を接地させた。
汗だくになりながら、彼らはそれを担ぎ上げ、ゆっくりと進みはじめる。
彼らの向かう先には、ぽっかりと丸い穴――隧道が、取り付けられた数々の明かりによって照らしだされていた。それでもなお薄暗い隧道に、彼らは進む。
生贄の供物を運ぶように、粛々と。
「ん? この台傾いてない?」
「おいおい、やめてくれよ。こっちは食券三十枚かけてるんだぜ」
客たちの中で、そんな声が上がる。スピナーは微苦笑を浮かべ、なめらかに回転するルーレットの中にボールをすべりいれた。
「それよりもお客様。もう少しすると、ショーがはじまりますよ」
「ショー? どこでやるっていうんだい?」
客は部屋を見回した。『特別室』はそう大きいものではない。その上ゲーム台と人でいっぱいになっていて、とてもショーをやる余裕など……。
「もちろん、ここでですよ!」
その声が合図だったかのように、四隅のカーテンが開かれ、客たちはあまりのまぶしさに目を細める。
四方からの陽光?
それに驚くいとまもなく、次々に壁がばたりばたりと倒されていく。
吹きつける風は、なぜだか少し潮の香り。
光に慣れて見回したその先に、見慣れた校舎はなかった。
それどころか、学園祭の騒々しさも、花火も、呼び込みの金切り声も、何もなかった。
あるのは打ち寄せる波音と、飛び交う水鳥、それにさわやかな風だけだった。
「ようこそ『銀水晶の美姫』号へ」
振り返ってみれば、そこに並ぶのはウェイター姿のスタッフたち。ディーラーもバニーもどこかへ行ってしまい、ゲーム台さえ、綺麗に片づけられていた。
「銀水晶?」
「シデラ湖だ……」
「そんな莫迦な」
口々に疑問を言い立てる客たち。
それもそのはず『銀水晶の美姫号』は学園中央に位置するシデラ湖に浮かべられた豪華客船なのだ。
西校舎からはかなり離れている。その上彼らは部屋の中にずっといたというのに。
目を白黒させている客たちを尻目に、ウェイターたちは次々と後甲板から料理を運び込みはじめる。
「残念ながら銀水晶の美姫号は岸を離れられませんので、シデラ湖クルーズとはいきませんが、どうか心ゆくまで水上バイキングをお楽しみください」
放心したような客の中から、手を打ち鳴らす音がまばらに聞こえた。それは瞬く間に客たちに広がり、割れんばかりの喝采と化していく。
「二年幻月組の催し、どうかお楽しみを」
神月ほのかが、優雅に一礼して見せた。
†
「なんとか成功みたいだな」
仕掛けの部屋を内から外に興味深げに眺める客や、甲板から湖の風を浴びて愉しげに笑いさんざめく客たちを眺めなやり、ハルは隣で同じように欄干にもたれかかっているほのかに話しかける。
「なんとか、ね。運搬組はぶーぶー言ってますけどね」
「そりゃね、あれだけ重いと」
「滑車も支持車もつけましたのよ。あと二回、午後にもがんばってもらわないと」
「まあ、よくやったよな」
「最初はカジノだけの予定でしたのに。あなたが、地下道を知っているなんて言うから。どこから聞きつけたんですの?」
きらきらと輝く謎めいた瞳で見つめられ、ハルはどきりと脈が打つのを感じた。途端になにか緊張して口がもつれる。
「ち、地図を見るのが趣味だからな。明らかに地下通路がないとおかしい構造だったんだよ」
「ふぅん。そんなこと普通わかるもんじゃありませんのよ。血筋かしら」
小さな呟きは、けれどえぐるようにハルの心をかき乱した。
「おい。ほのか、お前もしかして……」
ぐい、と肩をつかみ、無意識に名前のほうを呼ぶ。
ほのかは驚いたように目を丸くし、何事か言おうと口を開きかけ……その口がOの字の形に開いた。
「え?」
その視線を追う。
甲板の上に『なにか』がいた。
それを何と言おう。
うごめく脳味噌。
巨大なアメーバ。
人を侵食する癌細胞の化け物。
何と呼んでも構わない。ぶるぶると蠢き、柔らかな体を蠕動させるそいつは、人にとって異質なものだった。徹底的にありとあらゆる意味で、異質だった。
「逃げろ、とにかく逃げやがれっ」
声が響く。
それをまるで異世界の出来事のように聞きながら、ハルは『それ』を見つめ続ける。
全体は1mほどの大きさしかない。ぬめるような灰色の肌は半透明で、その中身を不気味に浮かび上がらせている。
ぷるぷる震える寒天のような膚――いや、皮膜? ――の内側にあるのは見るもおぞましい、なにかの器官。流動し、止まっては濁り、再び動きはじめるなにか。
けれど全体としてみれば、人の脳をとりだしたかのようにも見えるそれは、バイキングの料理を貪っているようだった。
悲鳴を上げる者は誰一人としていない。ただ、誰もが魅入られていた。
「逃げろってんだよ、畜生!」
破裂音。
そして、なにかが破壊される音。
銃声と認識するよりも早く、ようやくのように悲鳴があがる。悲鳴は恐慌を呼び、客とスタッフは入り乱れて下船のタラップへと殺到した。
怪物よりも、この騒ぎのほうが被害が大きくなったりはしないかしら。そうほのかは回らない頭で心配する。
けれど、その体はぴくりとも動こうとしなかった。
ハルはその銃声の主を、茫然と見る。
煙漂う二挺の拳銃を両手に提げたバニーがその怪物の正面、数mのところで仁王立ち。
彼女はつかつかとさらに怪物に近づこうとして、なれないヒールに足をとられたか、びたんっと顔から倒れ込んだ。
「あつうっ」
ヒールを脱ぎ飛ばしながら顔をあげ、ランカが怒鳴る。
「ええい、早く逃げろ。夫殿もそこのちびも!」
すくんで欄干に捕まっていたほのかが、
「ちびって言うなって言ってるでしょう!」
と怒りに燃えるのを横目で見やり、ハルは混乱する頭をなんとかまとめようとした。
「ああ、もう。うるせえ。リンカにレンカ、こいつらを連れてけ!」
二人の少女は、無言でほのか達に近づき、その手をとる。
「さあ、いきましょう」
「で、でも」
「とにかく急いで」
化け物は特になにか気にした風もなく、料理の上にのしかかっている。
その膚の下で料理のいくつかの成れの果てが咀嚼されるようにうごめいているのを見て、ほのかはぞっとした。
「あの様子だと20分は間があるかな……。みんなを逃がしたら戻ってくるね、ランカちゃん」
その言葉に応えもせず、ランカはその体には不釣り合いに大きく、妙に角張った拳銃をかまえて、そいつをにらみつけている。
肌をさらした二挺拳銃の少女と、おぞましい化け物。その対比が、ハルの目に強く強く焼きついた。




