4:夕闇に飛ぶもの
夜光ハルは帰途を急いでいた。
日はとっぷりと暮れ、あたりは闇に包まれている。
こんな名前をしているが、ハルは夜というものが苦手だった。夜の闇が、ではない。
夜にやってくる出来事が、だ。
「夜はキライ、か」
幼いころ無邪気に発したコトバをふと思い出し、彼は苦笑を浮かべる。
『夜はキライ。おかあさんが泣いてるから』
そう言ったときのあの人の悲しそうな顔。
『夜はキライ。あのおじちゃんが来るから』
そう言った時、言ってしまった時、ごめんと泣きながら何度も何度も何度も謝ったあの人の苦しそうな声。
思い出すたびにきゅうと胃のあたりが気持ち悪くなる。口の中が渇いて、砂のような味がする。
だから、夜はキライ。
封じ込めていたものが、ぽろぽろと漏れ出てきてしまうから。
こんなに遅くなったのはもちろん、学園祭の準備のせいだ。
小山内の葬儀の後、ほのかはあまり顔を出さなくなってしまった。
おかげでハルの仕事は加速度的に増加していた。それでもハルは音を上げずに委員の仕事をこなしている。
特に義務感があるとかそういうわけでもない。
ただ、気がまぎれるのだ。熱中すればするほど。それに、ほのかのふさぎようを見ていたら、これで成功させなければよけいに彼女を傷つけるであろうことは確実に思えたからだ。
「それにしても今日は遅くなりすぎた」
腕時計を見てみれば、既に日付も変わり、針がさすのは2の文字。これでは四時間も眠れたら御の字だ。
一番痛いのは路面電車の最終の時間もとっくにすぎてしまっていることだ。おかげで彼は月すらも雲に隠れた闇の中、延々と徒歩で自室へと向かっているのだ。
ふと頭上でがさりと音が鳴った。
鳥かなにかかな、と街路樹を見上げると、黒い影が直上の枝から路をはさんで斜め前方の樹へ飛び移るところだった。
ちり、と小さな鈴の音が聞こえたような気がした。
ずいぶんと大きい。
もしかしたら猿かなにかだろうか。
それにしてもすごいジャンプ力だ。そういえば、チンパンジーなんかでも人間の何倍もの力を持っているとか。
そんな聞きかじりの知識が頭をよぎる。
感心して眺めている内に、影は枝から枝へ、樹から樹へと飛び移り、どんどん移動して行ってしまう。
その時、雲が切れ、月が顔を覗かせた。
涼やかな銀の光に照らしだされる鮮烈な深緋色。
「え?」
雲が、再び月を覆い、街は再び暗黒を取り戻す。影は茫然と立ちすくんだハルを置き去りにはるか遠くへと消えてゆく。
しかし、彼の脳裏にはたしかにその姿が焼きつけられていた。
月を背負い、宙を跳躍する美しい肢体。緋色の衣装に包まれたその姿が。
どこからか、消防車のサイレンの音が聞こえてくる闇の中、ハルはただただ立ち尽くすのだった。
†
「……で……がくずれ……て」
「…………増えす……むずか……」
「まだ……学園……」
切れ切れの会話が、漏れ聞こえてくる。
彼女はそれを懸命に聞き取ろうとしていた。
かちゃりと音がして、隣の部屋のドアが開く。
そこから顔を出した制服姿の女の子が、ちらっと不審げにながめやったが、あまりの剣呑な雰囲気に何も言わずにドアを閉じた。
一つ大きく深呼吸して、彼女はドアを開ける。
ぴたり、と止まる会話。
二対の眼が自分を見つめるのを感じて、彼女は静かに後ろ手でドアを閉めた。
「お帰り、ほのかちゃん」
「おう、お帰り」
二人は動じた風もなく、ソファから声をかけてきた。
「ただいま。なにかしてらしたの?」
ほのかは、二人の座るソファの隙間に腰を差し入れる。二人掛けのソファだが、女の子三人なら、なんとか座れる。
「別にー。おしゃべりしてただけだよ」
「そうそう、最近、夕方はでかけられないしよお。ひまだもんな」
小山内京子だけではない。
あの後も何件かの自殺・失踪・変死が相次ぎ、学園生は遅い時刻まで残ることを禁じられている。
寮生の場合、5時には寮で点呼があるから、それまでには帰らねばならない。
「あら、そう?」
ほのかは脇にたばさんでいた紙束をローテーブルに置くと、にっこりと微笑んだ。
「その割にはランカさんは夜中に出歩いているみたいですけど?」
「はあ? なんの話だよ。喧嘩売ってるんか?」
ランカは怒りを含んで切り返す。一方のほのかは、氷のように冷たい口調となってゆく。
「とぼけても無駄。あなた方、私の食事に睡眠薬を混ぜて安心していたようですけれど、あいにく、薬の効きは悪い体質なの」
「わあ。それじゃあ、手術のとき、麻酔が効かないね。大変だ」
レンカが無邪気に笑う。その手には、小さなカップを包み込むように持っている。
立ちのぼる香りは、フォートナムメイソンのオレンジペコ。レンカさんてば、紅茶を淹れるのがうまくなったわね、飲み込みがはやいこと。そうほのかは感心する。
「ええ、一昨年の盲腸のときには、もう痛いのなんの。私、はしたなくも悲鳴を……って違います!」
バンッとローテーブルを両手で叩く。
「あの日、京子さんが……」
ほのかは言葉につまる。けれど、意を決したように彼女は続けた。
「亡くなった夜、ランカさん、あなたは出かけていた。そして、その次、せきれい市街で一家心中があった夜、次にせきれい市の北東、幹線道路での深夜のタンクローリー炎上、これもあなたが出かけていた夜。これはどういう事なのかしら?」
ランカは答えない。ただ、無機質な瞳で彼女を見返しているだけだ。
その瞳の奥にある得体のしれないなにかを覗き込んだような気がして、背筋に冷たいものが走る。すがりつくように手元のファイルをたぐりよせ、開いてつきつけた。
そこには、数字とグラフをはじめとしたデータがずらずらと踊っていた。
「まだあるわ。これはこの春からの変死・自殺・殺人のデータ。犯人が明らかになっているものや動機が容易に推測できるものを除外しても明らかに急増している。しかも、先月から。つまりあなた方がこの学園に来てからね」
そこまで一気に言ってから、ほのかは表面の激情とは逆に、心の奥の奥が冷えていくのを感じていた。
「ふうぅん」
興味なさげにそのファイルをつまんでひらひら動かす。
そんなランカにほのかは怒りより不気味なものを感じてならない。
レンカが暢気に両手でカップを持ち上げ、紅茶でのどをしめらせてから、小さく笑った。
「ランカちゃんがやったっていうの? そりゃ無茶じゃないかな」
「……でもっ」
「たしかにこれを見ると変死は急増してるね。特に自殺。原因不明ってのもあるけど、これも自殺の割合って高いかもね。……それをどうやってあたしたちが増やしたっていうの? ほのかちゃん」
その冷静そのものの態度にうろたえるほのか。
何も彼女とて、姉妹が犯人だと思っていたわけではない。ただ、自殺急増と三人の出現があまりにもタイミングがあっていたというだけ。
そこに、彼女はすがりついた。友人を、クラスメートを亡くしてしまったという自責の念を、他者を責める気持ちに転化させたと言われればそれまでかもしれない。
けれど……。
「私は……」
なにか言いかける彼女を手で制し、ランカは真剣そのものの顔つきで、彼女と向き合った。
「なあ、ほのか。人を死に追いやる――自分を殺さずにはいられない、そんな状況に追いやる。そんな化け物がこの世にいると思うか?」
沈黙。
ほのかの肩がかすかに震えた。
「……思わねえよな? それでいいんだ」
彼女はなにか思案するように、目を天に向けた。
「でも、もし、そう、もし仮にそんなやつがいたとする。そしたら、誰もが思うだろうさ。そんなやつ許しちゃおけないってね。物語なら、正義の味方が出てきて、そいつをやっつけてくれる。そうして世の中は平和に戻ってメデタシメデタシ。世はなべて事もなし。カタツムリも枝を這うってもんだ」
古典もこんな風に引用されると趣ががらりと変わる。
ほのかはそのことに奇妙な驚きを覚えていた。
「だがな……ほのか。これは現実なんだよ。悪の権化の怪物も、正義の味方もいやしねえ。あるのは無味乾燥な『事実』とごみくずみたいな『真実』だけさ。
自分で自分を殺しちまったやつらが、なんで死んだか、わかりゃしねえ。たぶん、怪物は、人間様なんだろうさ。あるいは、社会とかいうよくわからないでかぶつか。
なんにしろ、腐臭ただようごみためをあんたが覗きこむこたあねえ。お嬢様にそんなのは似合わねえよ。考えすぎは自分を痛めるだけだ。涙を流して、やつらを見送るしかあたしたちゃ、やるこたねえのさ」
いつのまにか、ランカの掌が、ほのかのそれを包み込んでいた。その手の温もりが、彼女の激情、そしてその芯で凍りついているものを溶かしてゆく。
「でも、でも、私は……」
ぽろり、とほのかの瞳からまぁるいものがこぼれおちた。それは、心の奥の奥で溶けた氷のひとかけらだったかもしれない。
ぽろぽろとこぼれ続けるそれをぬぐうでもなく、彼女は二人を見つめている。
「な、あたしも夜遊びやめるからさ、無闇と思い詰めないでくれよ」
「私、私……」
「ほのかちゃん、お風呂いこ!」
唐突にレンカが叫ぶ。
「お、そりゃいいな。あったまろうぜ」
なだめるでもなく、怒るでもなく、彼女はそう笑う。ほのかはようやくぎこちなく笑みをつくった。
「そうですわよね。いやだ。私たら、こんな泣いて……顔拭いてきますわ」
寝室にあわてて駆けてゆくほのか。それをにこにこと見守りながら、二人は密かに会話する。
「まじぃな」
「次はごまかせないね」
「どうするよ」
「いざとなったら……ね」
ランカはそれに応じず、渋面をつくる。知らず、その手がほのかのファイルを握りつぶしている。
「そうだな、あいつを説得する暇も、もうねえな」
その言葉は、ぱたぱたと駆け戻るほのかの足音に紛れて消えてしまった。




