2:麗しのほのか
不意に軽快な歌が、ハルのトラウザーズのポケットから流れはじめた。尻のポケットにさきほどの木切れのようなものをつっこむと、スマホを取り出して操作する。
歌が唐突にやみ、これまで気づきもしなかった静寂が妙に耳についた。
「なんだ、久隅か」
メッセージの差出人の名前を見て、つまらなさそうに呟く。
久隅はハルの級友で、いまは授業中のはずだ。
ハル同様さぼっているのか、それとも授業に厭きて適当にメッセージを送りまくっているのだろう。
『おい、どこにいんだよ。校舎に変なのが来てるぜ』
そんな言葉といっしょに、写真が添付されている。
「なんだこりゃ」
彼はその写真におさめられた三人の娘を見て、すっとんきょうな声をあげた。
三者三様の糸で縫い取りのされた木肌色のアットゥシを身につけ、鈴のニンカリとマタンプシが眼をひく三人。
ランカたちだった。
†
「なんか見られてるよぉ」
「……」
「無視しろよ、里ものなんか」
三人は痛いほどの視線を感じながら、廊下を歩いていた。
街の大人たちと違い、学生には遠慮がない。
彼女たちから見て右手側に並ぶ教室の窓には、興味津々といった様子の学生たちが鈴なりになっていた。
本来は注意をすべきだろう教師も学生といっしょになって彼女たちを見物しているのだから手に負えない。
もちろん、中には教室の統制を取ろうとしている教師も、我関せずとひたすら黒板を埋めている教師もいるにはいるのだけれど。
おそらく、その装束もさることながら、三つの同じ顔が、それぞれの表情――あるいは無表情――を浮かべるのがなんとも不思議で心ひかれるのだろう。
「どれがどれだかわっかんねえなあ」
不機嫌な顔でランカがうなる。
結局、街の人間に聞かなければ学園にたどりつけなかったことが納得いかないらしい。自分がちゃんと連れてこられたのに、と未だに思っているのかもしれない。
自分たちを見つめてくる顔を、彼女は睨み付ける。ランカの刺すような視線に耐えられる者はほとんどおらず、次々と眼をそらしてゆくことになる。
視線を受け止められた者も、ほとんどが後退ってしまうような迫力だった。
そして、眼をそらした者の全員が、おずおずと再び彼女たちへと視線を、あるいはスマホのカメラを向けるのだった。
「みんな同じ色の服着てるんだー」
鶺鴒学園の制服は、高等部だけでも男子三種類、女子にいたっては五種類ものデザインがある。しかし、そのどれもが空色を基調に白のラインを入れるという配色は外していなかった。
「顔は覚えてっからな。見りゃわかるんだが、これだけ多いとキリがねえ。婆あはそんなこと言ってなかったぞ」
うんざりといった調子でぼやくランカ。かわいい顔から飛び出す伝法な言葉はずいぶんと違和感があった。
「この建物にいるといいんだけどなあ」
さっきはちっちゃい子ばっかりだったしと続けて、ぼんやりと左手――中庭に面する窓を見上げる。
大きな瞳がさらに大きく広がって、真ん丸になった。
「レンカ……」
ランカが、藍色の少女の視線の先を追って言葉を止める。リンカも同じようにそちらを見上げた。
「見つけた」
にやりと凄味のある笑みを浮かべる。背後で鶯色の少女がこくり、と軽く頷いた。
その三対の視線の先――。
そこには、屋上の手すりから身を乗り出してこちらをうかがう少年の姿があった。
†
ほのかお嬢様は麗しい心持ちだった。
上機嫌とかうかれてると言ったほうがいいのかもしれないが、やはり、麗しいと表現するのが彼女にはふさわしいだろう。
高く結い上げる新しい髪形はなかなかに決まっていたし、出入りのテーラーにシーアイランドコットンでつくらせたブラウスは肌に心地良かった。
なにより、午後一番の比較人類学の時間にレポートを賞賛されたのが誇らしい。あのレポートは三週間も練りに練ったのだ。
賞賛を求めて作り上げたわけではないが、やはり嬉しい物だった。
「ハルの奴……ではありませんね。夜光君が論壇に立たなかったのは残念ですけれど」
なんで彼は来なかったのでしょう?
と指を顎にあてて考える。
彼女に対抗して、男子代表でレポートをまとめていたはずの夜光ハルは、なぜか姿を現さず、当然のように彼のレポートは発表されなかった。
草稿段階のレポートが代理によって読まれた程度で、それは彼女の力作にくらべるにはあまりにお粗末すぎた。
男子に――あるいは彼に負けぬようにと気負っていたほのかにしてみれば、少々肩すかしの感はあったものの、その程度の瑕瑾はたいしたことではない。
彼女のレポートの優秀さはいずれあの少年の耳には入ることだろうし、授業をサボタージュした時点で彼の負けは決まっている。
次の授業までは間があるが、この麗しい気分のまま、早めに移動しておこう。
そう思って西棟に向かおうとしたところで、ぱたぱたと渡り廊下を走る音が聞こえて、彼女はゆっくり振り返った。
数人の少女たちが群れながら彼女目指して走り寄ってくる。
「神月おねえさま」
「ほのかさま。こんにちは」
口々に挨拶をしてくるのは、中等部の制服。
まわりを取り囲んでくるのを感じて、渡り廊下の隅によるほのか。高校の二年生にしては背の低いほのかは、学生たちに埋もれてしまうような気がして、普段からのばしている背筋をさらにのばす。
そんなことをしなくても、さすがに中等部の学生よりは彼女は背が高い。ほんのちょっぴり。
廊下は走るものじゃありません、と軽くたしなめてから、ほのかのほうも挨拶を返す。
「今日の発表素晴らしかったですっ」
「はい、私、感動しました」
「尊敬しますう。学部の方々も感心してましたよ」
きゃあきゃあとまるで小鳥がさえずるように次々と讃美の言葉が飛び出す。
その言葉のくすぐったさと、集団で騒ぐ後輩たちのあまりのふわふわとしたかわいらしさに、くすりと笑みをもらした。
それを見た少女たちが一斉に黄色い声をあげる。
「あら。でも、あなたがたみんな、あの授業を選択していらしたかしら?」
鶺鴒学園では高等部の授業を、中等部生が選択することは可能だ。自由課題時間の一部として履修することになる。
けれど、これだけの人数がいたら、覚えていないわけはないはず。
少しだけ眉根を寄せて、そんな風にほのかは考える。
一心に思い出そうとするその真剣な表情も、中等部少女たちの崇敬の眼には女神の憂いのように感じられるのか、きゃあっとまた声があがった。
「いえ、今日は見学です」
「まゆ取ってたよね」
「そうそう、まゆっちに聞いた」
「あ、あたし、発表だから、みんなに……その、神月おねえさまのレポートはいつもわかりやすくて、それでいて的確で、その、えっととても参考になると思って……」
皆から指差された赤いフレームの眼鏡の女の子が、慌てた様に言う。伏し目がちの顔は、ほんのり赤く染まっていた。
ほのかはその娘にむけて、
「ありがとう」
と笑みをもらした。
その笑い方が、太陽のような、とひそかに後輩たちから評されていることを、本人はもちろん知らない。
その途端、眼鏡のフレームより真っ赤になって、少女は俯いた。
「あ、いいなー」
「ぬけがけー」
「まゆっち、うらやますぃー」
地団駄を踏む少女たちをさすがに苦笑まじりで眺めるほのか。
「みなさん、あんまり騒ぐと他の方々に迷惑ですわよ」
注意する声は、けれど優しい。
なにしろ今日はとても機嫌がよいのだ。
彼女たちのおふざけくらいは大目にみてあげよう。そう思えるだけの心の余裕は十二分にあった。
良い昼下がりだった。
天気はよくて、秋の澄んだ空から降り注ぐ陽光はほんのりあたたかい。
風は礼儀正しく、肌を楽しませても髪をくしゃくしゃにしたりはしない。そして、陽光にきらきらと輝く少女たち。
だから、神月ほのかは、とても麗しい心持ちだった。
――その瞬間までは。