2:夢の名残
ほのかは夢を見ていた。
自分でもこれは夢だとわかっている。わかってはいても、目覚めることはできない。そんな夢だった。
広い広い迷路のような街の中を、まだ幼いほのかがさまよっている。
どこに行っても、どこに隠れても、街にこびりついた灰色の空気からは逃れられない。
灰色は時に人の形になり、時に塵のようになって、ほのかにまとわりつき、その小さな手足を縛り上げる。
わんわんと泣きながら、ほのかは逃げ続ける。捕まってはいけない。止まってはいけない。それは、破滅を意味する。
でも、本当は、もう逃げられはしないのだ。
街全体が、あの灰色でできあがっているのだから。
お家に帰るの。
ほのかは懸命に叫び続ける。
帰るの。帰るの。帰るの。
あのあたたかくて気持ちのいい場所へ。
けれど、もう帰れない。
なぜなら、もう体ごと、灰色なのだから。
灰色は言う。
おまえはおれのものだ。
おまえはおれたちのものだ。
このちっぽけなせかいは、おれたちのものだ。
「私は……」
震える声で、けれど、決然と言う。
「ワタシはちがう!」
けれど、声達は言う。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
お前のために、俺たちはこうなってしまったのだから。
お前のために、俺たちは――俺たちは――。
いくつもの眼が、いくつもの口が、いくつもの手が彼女を追い続け、そして……。
†
「ふぎゅっ」
肺の中の空気が根こそぎ抜けていく声で、ほのかの一日ははじまった。
目を白黒させながら、異物感の生じている胸を見おろすと、そこでは、息を吐き出させた張本人がくーか、くーかと気持ちのよさそうな寝息をたてている。
「レンカさん!」
食いしばった歯の隙間から、その名を押し出す。上体にのっかったレンカを、乱暴に転がし、大声で一喝した。
「私のベッドにもぐりこむなって、何度言ったらわかるんですの、あなたはっ」
ベッドの端までころがされて危うく落ちそうになり、あわあわとバランスを取っていたレンカは、ようやく起きたのか、んうぅとうなり返した。
「んんん。あ、おはよう、ほのかちゃん」
「おはようじゃないっ」
「ん?」
ほわわんとした顔で、ほのかを見上げるレンカ。
とろんとした目はすぐにまた瞼が落ちそうで、緩慢に瞬きを繰り返している。
「あなた、この部屋がお見えにならないの?」
そう言って、ほのかは手を大きく広げ、ぐるりと一周させてみせた。
「ランカちゃんとリンカちゃんが寝てるぅ」
「そうじゃないでしょうっ」
たしかに、ランカとリンカは寝ている。それぞれのベッドで。
「あなたのベッドは、ここじゃなくて、あっち!」
ただ一つ主のないベッドを指し示す。三姉妹のベッドはほのかのベッドとは離して置かれているので、間違えて入り込むなんてことはありえない。
「ああ、なんだそんなことかあ」
「そんなことかあ、じゃないでしょうが! 毎朝毎朝、私のベッドにもぐりこんで。あなた、猫ですかっ」
「んー。だって、ほのかちゃん、あったかいしい。それに、気持ちいいんだもん」
「なっ」
そのセリフと、本当の猫のように目がなくなる微笑み方に、真っ赤になって硬直するほのか。
「あ、リンカちゃん、おはよう」
「ん」
二人の声に目を覚まされたのか、ごそごそと起き上がってくるリンカ。
相変わらずの無表情で二人を見ると、すたすたとキッチンへと向かってしまった。
レンカもそれについていく。朝食前にミルクを温めるのだ。
ようやく硬直から戻ったほのかは、それを見てまた声をあげようとした。だが、すぐに諦めたように嘆息する。そして、小さく呟いたのだった。
「まあ、今日は悪い夢から起こしてくれた事に免じて、許すとしましょうか……」
その横で、ランカだけが大いびきで寝続けていた。
†
鶺鴒学園女子第四寮、通称ゼピュロス寮の朝は、戦争だ。
初等部から高等部までの女子学生2000名を抱えるこの寮では、食堂の席を確保するにもしのぎを削らなければならない。
ましてや、洗面所ともなれば、毎朝壮絶なる争奪戦が行われるのだ。
「ちょっと、そこどきなさいよ!」
シャワールームに入ろうとした半裸の少女の肩を、ほんの少し年嵩の少女が乱暴にひっぱる。
彼女も半裸で、まだ眠気がさめないのか眼が腫れぼったい。
「なにするのよ!」
「どきなさいってのよ」
もみあう二人を引き剥がそうと、幾人かがわらわらと集まってきた。
「あ。あんた、硬式ソフト部の小橋じゃない。なにうちの後輩に手を出してるの」
「なによ。軟式風情がっ」
「なんだとぅ」
唐突にもみあいが起こる。それをやんやと煽る者、なんとか止めようとして巻き込まれる者、我関せずと列を維持する者、それぞれだ。
結局発端となったシャワールームは誰かがちゃっかりと入り込んで使っているようだった。
「うう、あなたがたのせいで出遅れましたわ」
シャワールームにつながる入り口でぐちゃぐちゃに入り乱れている様々な年齢の少女たちを眺めやり、ほのかは嘆息した。
あのあと、レンカは二度寝しようとするし、ランカは全然起きないしという有様に、ほのかは朝からイライラしていた。
その後ろでは、三姉妹がほけらーとその様子を見ている。
「何を呆れてらっしゃるの?」
「いや、相変わらずわらわら人がわき出るもんだなあ、と思って」
「山にはこんなに人いないもんねー」
「……」
三人三様の対応に、そんなものかしら、と眉をしかめる。そのあとで、何かを思い出したのか、納得したような顔つきに変わった。
「あなた方、授業は一限から?」
「えーと、どうだったっけ?」
レンカを小突くランカ。
レンカは、ちっちゃな手帳をとりだして、懸命にページをめくった。
「あ、あのね、三人とも、一限は『現代戦術入門』第二回『高速機動部隊の変遷』だよ。二限は空いてるけど」
「……変なものとってますわね。でもたしか東棟でしょう。いまからじゃご飯食べるひまもありませんわよ」
途端、レンカの顔が泣きそうに歪む。ご、ごはんごはんごはん、とうわ言のように呟くのをよそに、ほのかは思案する。
相変わらず、シャワールーム争奪戦は続いている。
「まあ、あの授業は次の水曜の六限に同じ内容のものをやるはずですから、そちらに出たらどう?」
「あー、面倒だから、そうしようぜ。あたしゃ、もいっかい寝なおすわ」
さっさと部屋に戻ろうとするランカの首根っこを捕まえて、ほのかは引き戻す。
「だめよ、これからいく所があるんですから」
「あん? どこだよ?」
「もちろん、お風呂よ!」
ほのかは目をきらきら輝かせてそう宣言した。