素直すぎる義弟
私は野山 洋子。普通の会社に勤めている。今日は早く上がれたので家に帰ったのだけど……
「たまには……私が作ってもいいよね?」
家事は私の義弟、野山 慶太がやってくれている。私が仕事で疲れているからといつもやってしまうのだ。私の自慢の弟である。
「電話……電話っと」
電話帳から慶太君と書かれた番号に掛ける。この時ばかりは少し緊張する。
「はい、もしもし」
「あ、慶太君ですか?今日の晩御飯何がいいです?」
「今日は早いんだね、そうだな……酢豚がいいな豚のブロックあったでしょ?」
「了解です、早く帰ってきてくださいね」
「はーい」
ふぅ。やっぱり緊張するなぁ。どうしてもあの慶太君の声を聞くと緊張と安心が襲ってくる。
でもいつもの私は後悔だらけだ。テレビを見ていると慶太君が帰ってきた。
「ただいまー」
ドキンとした。心臓が裏返りそうになる。それを隠そうとして、
「……ち、お帰り」
違うでしょ。もっと普通に言うんでしょうが。慶太君は私を見るたびに少し怯えているような顔をする。あぁ本当に自分が嫌いだ。
「姉さん、僕部屋で課題やってるから出来たら呼んで」
「……ち」
そっか。卒論書くんだよね。こう言いたいのに。出来るなら一緒に話したり手伝ったりしたいのに。でも出来ない。自己嫌悪で一杯になりながら冷蔵庫をのぞく。
「あれ……野菜が無い、買ってこよう」
もちろん口で言うのが姉弟の普通な関係なのだろうけどそれが出来ないので電話。まったく面倒くさい姉だ。
「あのー慶太君、私お買い物に行ってきますね野菜が無いので」
「え、そう?じゃあ僕買ってくるよ姉さんは仕事で疲れてるだろうし」
「そうですか?ありがとうございます、買ってきて欲しいのは……」
電話でなら普通に話せる。見えないから。緊張も見るよりはよっぽど楽だ。慶太君には迷惑でしかないだろうけど。部屋から出てきて冷蔵庫を覗いている。私はまた緊張して不機嫌そうな顔をずっとしている。
「じゃあ行ってきます」
「……いってらっしゃい」
夜になったとはいえまだ暑い。途中で倒れてしまったりしたらどうしよう。
もうただでさえたった一人の家族だから。無理はして欲しくないし無理はしない。
こうやって言えもしないのに義弟の身を案じていると電話がかかってきてびっくりした。慶太君からだ。
「もしもし姉さん?」
「はい、どうしました?慶太君」
「アイスでも買って帰ろうと思うんだけど何がいい?」
嬉しい。どうせなら慶太君と一緒に食べられる奴がいいかな。
「ええと……あのパキッて割れる奴がいいです」
「了解、じゃあね」
「はい待ってます」
心が温かくなる。でも慶太君が帰ってくるととたんに冷え込む。
緊張、安心。心が痛くなる。
「ただいまー、冷蔵庫にアイス入れておくね」
「……ち、分かった」
舌打ちなんてしないでよ。感謝の一言もいえない。ふんぞり返ってこれで姉といえるのだろうか。
「あっお金渡すの忘れちゃった」
口で言いたいのにいえない面倒な性格の自分が嫌だ。一緒に今日は何があったとか話したいのに。
「はい、どうしたの?」
「代金を渡し忘れてしまって……後で渡します」
「うん。分かったよ。じゃあね」
用件も終わったし酢豚作ろう。慶太君は酢豚好きだから一生懸命作らないと。
台所に立つのは久しぶりだから美味しく出来てるか心配。
玉ねぎは厚めが好きだったよね…………?
「はいはい、何ー?」
「もしもし、出来たので来て下さい」
「了解、すぐ行くよ」
がちゃとドアが開く音がする。心臓がバクバクいい始める。代金を渡す時も身体が硬直して動きづらい。
「……ん」
「え、あぁそっか。代金ね。そんな律儀にしなくていいのに」
いいの。姉弟でもお金はしっかりしなきゃ。なんて言えたらいいのに。
「酢豚……よそってくる」
「いいよ。僕が行くから。姉さんは座ってて」
優し過ぎるぞ。私の弟は。そのエンジェリックスマイルが眩しい。
「頂きます」
「……頂きます」
塩加減大丈夫かな。お酢が強過ぎたりしないかな。そんな考えが頭をずっとめぐる。
「ん、美味しいよ。姉さん」
「……ち」
よかった。いつも任せてばっかりだったから上手くできるか心配だったんだよ?
とは口で言えないので携帯を開く。こういう目の前にいるときのコミュニケーションはいつもメールだ。
タイトル『嬉しいです』
本文『料理をいつも任せてしまって心苦しいのでたまには私にも作らせて下さいね』
口でいえたらいいのに。メールを確認した慶太君は、
「姉さんはいつも仕事で疲れてるんだから家事は僕に任せてよ、ね?」
うぅ。やさしいなぁ。またも出てくるエンジェリックスマイルがまぶしい。
慶太君は食べ終わったみたいでお皿をさっさっと片付けて卒論卒論いいながら部屋に入ってしまった。
少しメールを打ってみよう
タイトル『いつもありがとう』
本文『慶太君も講義やバイトで疲れているのにごめんなさい、全て任せきりで心苦しいです。せめて卒論で力になれることがあったら言って下さいね』
いつも思っていることをそのまま書いてみた。とすぐに返信が。
タイトル『こちらこそ』
本文『こちらこそいつもありがとうございます。姉さんがいつも働いているおかげで暮らしていけるのだからせめて家事ぐらいは任せて下さい。大学を出たら姉さんを楽させられるように頑張りますからあと半年待っていてくださいね』
これは……恥ずかしい。私が恥ずかしい。ソファのクッションにぽすぽすと拳をぶつける。
タイトル『恥ずかしいです』
本文『私の為にそこまで思ってくれているとは感激です。でも慶太君に無理はして欲しくないのですよ。ゆっくりと大学で自分の長所を伸ばしてください』
これでよしっと。夏なのに少し寒気がするから皿洗ったら寝てしまおう。今日はいい夢が見られるといいけど。
「けほけほ……うぅ」
身体が重い。寒気がする。どうやら風邪を引いてしまったみたいだ。職場のクーラーが効きすぎたのだろうか。メールで知らせておく。
タイトル『体調が悪いです』
本文『ごめんなさい風邪を引いてしまったようです。安静にしていれば治るので気にしないで下さい』
これで平気だろう。会社にも連絡を入れておく。幸い上司はお大事になといってくれた。
「姉さん、入るよ」
「はぁ……ち」
カッチーンと体が固まる。反射的に舌打ちをしてしまう。でもどうしたんだろう。
「……大学は?」
「休む、熱は……」
おでこをぴたっとくっつけられる。あわわ……近い!近い!
「!……離れ……て!」
「いたっ!ごめん!そこまで嫌だとは思ってなくて!」
顔を引っかいてしまった。顔をさすりながら部屋を出て行く慶太君。これは嫌われたかな……元から嫌われているだろうけど。
とすぐに戻ってきてきた慶太君の手には洗面器と濡れタオルが。
「ずっといるから、なにかあったら呼んでね」
「……うん」
おでこに濡れタオルをおいてくれた。ふっと息が漏れる。こういうとき近くに誰かいると言うのは案外心に温かいものを感じる。
安心感からかそのまま意識が薄くなる。
「ちょっと離れるよ、すぐ戻るから」
おぼろげに声が聞こえる。でも体は寝ているようで動かない。意識だけおきているみたいだ。
お粥の匂いがする。ありがと。お粥作っていたんだ。と言おうとしてまた意識が落ちる。
夢を見た。一番嫌な悪夢。
二人で暮らすようになったときの夢。両親が事故で死んでしまった時のこと。
私があんまり泣くから寄り添おうとしてくれたんだろう。肩に手を置いてくれたのに、私はそれを払った。
それと一緒にこう言ってしまった。
「触らないでよ!本当の姉弟でもない癖に!」
言ってしまったと思った。一番言っちゃいけない言葉。その時の慶太君の顔が忘れられない。
ひどく悲しそうな顔。幼馴染だったのに。私は姉なのに。私はどちらにもなれる資格が無かった。
その後慶太君は一言言った。
「ごめんね。本当の弟じゃなくてごめんね」
違うの。そうじゃないの。弟だよ。ずっと弟だったよ。
私の心が裂けそうになった。そんな悪夢から救ってくれたのは啓太君の手だった。
タオルを変えてくれたみたいだ。
「慶太……?」
「どうしたの?姉さん」
「……腹空いた」
「お粥出来てるよ、温めるから少し待ってて」
「……離れないで」
「すぐ戻るから、本当だって」
「……うん」
がちゃっと出て行った後の部屋は凄く寂しく感じる。すぐに帰ってきたけいたくんの手にはお盆が。
「はい、姉さんお粥だよ」
「……食べさせて」
「分かったよ、ふーふー、はい」
ふーふーって……!ふーふーって……!しかも美味しい。でもそれをそのままいえない駄目な私は、
「……薄い」
「濃くしちゃったら体に悪いでしょ、ふーふーはい」
やばい。天使がいる。誰か私にカメラを持ってきて。ずっと看病してくれる弟は凄く頼もしい。
「タオルを変えるからね、はい薬」
看病してくれているうちに瞼が重くなってしまった。それに抵抗できずにまたあの夢を見た。
「僕の事をさ、別に姉弟だって思わなくていいから……でも僕は姉さんを姉だと思ってるよ」
親が死んで私が言ってはいけないことを言った後一緒に帰ったときに言われたのがこの言葉だ。
最初思わず握ってしまった手を握り返してくれた時に私は決めた。
決して弟に苦労は掛けていけないと。そこからは早かった。私でも普通に働ける職場をひたすら探した。
でも弟に言った言葉が消えるわけじゃない。心にずっと残っている。
それにいつもの態度も加わり苦労を掛けてはいけないだとか偉そうな事を言える立場では無くなってしまったけど。
でも、慶太君は私が支える。姉なんだから。そう決めた。
「あ……」
目が覚めると朝になっていた。寒気はしないし重くない。治ったようだ。
部屋を出てみるといつもテレビを見ている天使さんがいらっしゃっているわけなんだけど……
「あれ……いない」
不思議に思ったその時メールの音がした。内容は、
『ごめんなさい』
本文『僕も風邪を引いてしまったようです。自分で何とかするので姉さんは気にせず仕事に行ってください』
気にするよ!仕事にならないよ!
多少の罪悪感を持って上司に未だ風邪を引いている事にしてもらう。
タオルを持って慶太君の部屋に行く。緊張しながら部屋に入ると息苦しそうに寝ている慶太君が。
「慶太……」
目を覚まさせてしまったようだ。でも動くのがつらそうなのでそれを制す。
「ごめんなさい……今日は会社休んだから……」
「あ……りが……と」
「!……無理しないで」
無理しないで。つらいでしょ。お願いだから休んでて。こう言いたい。もどかしい。
ずっと近くにいると息苦しいのが伝わって早く治してあげたい。
「……タオル変える」
「ありがと……」
「……喋らないで、身体きついでしょ」
ぼそぼそと辛そうに話すのが私にとってつらい。もう朝も過ぎたし少しは回復している事を祈ってお粥を作った。体力をつけてもらわないと。
「……粥作った」
「ありがと、自分で食べられるから……ごほ!ごほごほ!」
「!……だから無理しないで」
うぅ。と不覚にも可愛いと思ってしまったその声。嗄れているが可愛いものは可愛いのだ。
すぅすぅと寝息を立てるまでずっといた。いや寝てもずっといた。最後にタオルを交換した時に私も寝てしまった。
続