雨空
中堅会社でOLをしていた高山東子宛に、ある日電話がかかってきた。
電話がかかってきたのは午後の業務が始まって間もなくのことでした。
「もしもし、高山東子さんでしょうか? ……」
内線1番をおして受話器から聞こえてきたのは落ち着いた女性の声。私はその電話を切ると、早退の許可も取らずに会社を出て、タクシーを拾いました。
今日は朝から天気が悪くて、ジメジメと不快な曇り空。だから朝から重苦しいような、嫌な感覚を持っていたのです。
こんなことになるなんて……。
いやな予感ほど、的中してうれしくないもがあるでしょうか?
タクシーはいつの間にかビルの中を抜けて、大きな橋を渡ろうとしていました。
都会で暮らしていると、なかなか広い空を見ることができません。だからこんな曇り空でも、橋をわたるときに見える景色はなんだかぽっと心を落ち着かせてくれます。
「彼は大丈夫……」
小さな声でそう自分に言い聞かせました。
橋を渡り終えた頃にとうとう雨がぽつぽつと降ってきて、タクシーの窓ガラスに線を書き始めます。
「まだ掛りますか?」
「あぁ〜、距離で言えばも少しなんだけどね、ここら辺から道が混むんですよ」
タクシーの運転手が言うには、あと30分はかかるそうでした。いくら混んでいるとはいえ、歩くよりはまだタクシーに乗っていた方が早いでしょう。
ガラスの向こうを見れば、雨がしとしとと降っていて、すっかり雨の街になっています。
――「ねぇ東子、彼のこと許してあげたら?」「誰になんと言われようと彼が謝るまで絶対許さないんだから」――
彼とはもう一ヶ月連絡を取っていませんでした。些細なことで喧嘩して、お互い引っ込みが着かなかった。母に会う度に結婚のことを聞かれ、私もそろそろそういう考えを持ち始め……。だからなかなか結婚のとこを切り出そうとしない彼に、ちょっと苛立っていたのかもしれません。
こんなことになるなら、意地なんて張らないで私から謝れば良かった。
だってもしかしたら、もう――。私はそんな考えを、首を小さく振って断ち切りました。
彼は大丈夫、だって……
――「俺はさ、もっと世界のこと知りたいんだ。だってそうだろ? 何も知らないで人生が終わってしまったら、なんかもったいないって思わないか?」――
彼はこんなところで死なない、あんなことを言う彼が……死んでしまうはずなんて無いじゃない!
私は……、私は彼のそんなところが好きだったのかもしれません。別にたいした仕事をしている訳でも、大きな夢を追い続けている訳でもありません。堅実に仕事をしていて、中規模の会社に勤めるただのサラリーマンの彼でした。
そんな普通な彼だけど、彼の目はなんだか真っすぐ前を見つめていて――
「お客さん、到着しましたよ」
はっと気づくと、タクシーは停車していました。
「案外、空いてて早く着きましたよ」
窓の外を見ると、病院の入り口が目の前に見えました。
私は財布からお札を取り出し運転手に渡すと、おつりをもらいタクシーから出ました。私の目の前には病院の出入り口があります。彼の搬送された病院の入り口です。
「あ……」
気がつけばもう雨はやんでいたようです。空を見上げれば、雲の切れ端から光が射し始めていました。
なんだかそんな空に勇気をもらい、私はその入り口へ向かいます。
彼は絶対に、大丈夫です。
この作品のアイデアは何年も前に思いついて書き残していたものの一つなので、(たいしたものにはなりませんでしたが)自分的にはかなり満足でした。