私を捨てた元婚約者に「真実の愛」を美談にしてほしいと頼まれましたが、どう書いても喜劇になります
「僕とフローラの恋を、君のお芝居にしてほしいんだ。皆、ひどく誤解しているからね」
エステルは、差し出しかけた菓子の皿を自分の前に戻した。
応接室の向かいに座っているのは、先月まで婚約者だったレナード。その隣には、彼が結婚したいと言って連れてきたフローラ嬢までいる。
借りた金の返済について相談したいというから通したのに、どうして新しい恋人まで来たのか。首を傾げていたところへ、この頼みだった。
「父まで、しばらく大人しくしていろと言い出してね。僕たちは本当に愛し合う相手を選んだだけなのに、おかしいじゃないか」
「このところ、お茶会にもあまり呼ばれませんの。私たちのことを知っていただけば、皆様も分かってくださると思うのですけれど」
フローラが胸元に手を添えると、薔薇の首飾りが揺れた。あれを贈る金を貸したのも、まだ返してもらっていないのも、こちらである。
その首飾りを着けて、よく来られたものだ。
「だから、君に感動的な芝居を書いてほしいんだ。元の婚約者が書いてくれれば、君も僕たちを祝福していると分かるだろう?」
「私は祝福していませんけれど」
フローラが、不思議そうにレナードを見た。
「でも、お二人のお話はもう済んでいると……」
「済んでいるよ。エステルも、婚約を解消することには納得してくれたんだ」
「別れることを承知したんです。お二人をお祝いするとは言っていません」
どうもこの人たちは、それを同じことだと思っていたらしい。フローラは戸惑ったように目を伏せたが、レナードは笑っていた。
「いつまでも意地を張らなくていいんだよ。こうして迎えてくれたじゃないか」
お金の話をするためだ。
言おうとして、いったん焼き菓子を口に入れた。今すぐ話し始めたら、五年分くらいの文句が出てきそうだった。
貴族のサロンで上演する短い芝居を書き始めて、三年になる。恋人を取り違える話や、見栄を張った男が引っ込みのつかなくなる話。そういう、皆が気軽に笑えるものを頼まれることが多かった。
けれど、このところは依頼が減っている。次の芝居を楽しみにしていると言ってくれた夫人からも、急に集まりを延期したという便りが来た。
その集まりが予定どおり開かれたと知ったのは、別の人から感想を聞かされたときだった。
レナードは婚約解消のことを尋ねられるたび、エステルは金のことばかり言っていたとか、フローラが泣くまで怒っていたとか話しているらしい。
返せと言ったのは貸した金で、何のために使ったかは省かれている。フローラが泣きだしたのも、別れ話の席で借金を返すよう求めたときだった。せっかく皆が前へ進もうとしているのに、と。
こちらは前へ進むなと言った覚えなどない。返すものを返してほしいだけなのに。
それが人から人へ伝わるうちに、二人の仲を妬む冷たい女という話になった。夜会で顔を合わせても、相手は短い挨拶をして去っていく。何を聞いたのか確かめる間もない。
「どこで上演するおつもりですか」
レナードが、ようやく話が通じたという顔になった。
「君がいつも書いているようなサロンでいい。僕から知り合いにも声をかけるよ。父にも来てもらうつもりだし、フローラを悪く言っている人にも見せたいんだ」
それなら、あの夫人も来るかもしれない。
自分で手紙を送っても、返事をもらえるか分からない相手だ。けれど、レナードが二人の晴れ舞台だと言って招けば、見に来る人はいるだろう。
そこでなら、こちらの話も最後まで聞いてもらえるかもしれない。レナード本人が認めたことを書けば、勝手な作り話だとも言われずに済む。
食べ終えた菓子の屑を、皿の端へ寄せた。
「私がお金を返してほしいと言ったところも、書きますよ」
「かまわないよ。君が怒ったことを隠してくれとは頼んでいないだろう」
「その前のこともです。何に使ったお金か、どうして私が怒ったのか。そこまで書いてもいいんですか」
「もちろん。全部知ってもらわなければ意味がないからね」
フローラも頷いている。
それなら書こう。怒ったところだけ言い触らされて、こちらの話を聞いてもらえないままでは困る。お祝いの言葉は一行だって書く気はないが、起きたことなら覚えている。
「原稿料は、先に頂きます」
「……そこは、友人として協力してくれないかな」
「では、ほかの方に頼んでください」
立ち上がると、レナードも慌てて腰を浮かせた。
「待ってくれ。払うよ。上演の費用も、僕が持つつもりなんだ」
「では、届いてから始めます。前にお貸しした分も、忘れないでくださいね」
書いたあとで払えないと言われるのは御免だ。二度目まで黙って待つほど、気前はよくない。
机から紙を取ってくると、フローラが嬉しそうに身を乗り出した。
「私たちが結ばれてよかったと、皆様に思っていただけるお話をお願いしますね」
まだそこへ戻るのか。
隣のレナードまで期待に満ちた顔をしているので、ため息を呑み込んでペンを取った。
「まずは、お二人のお話を聞かせてください」
*
原稿料が届いてから、二人の話を聞いた。
忘れられない贈り物があるというので日付を確かめれば、こちらが金を貸した日のことだった。愛を選んだ夜だと語り始めれば、今度は誕生日の約束をすっぽかされた日の話になる。
それに気づくたび話を止めたが、二人は隠そうともしなかった。むしろ、そこが大切なのだと、当時の言葉までよく覚えていた。
こちらの手帳や手紙とも照らし合わせ、聞き終えたときには紙が何枚も埋まっていた。
感動したという顔で帰っていく二人を見送ってから、もう一度読んだ。書き間違えたわけではなさそうだ。
あの人たちは、本気でこれを見せたいのだろうか。
何日かかけて台本にし、ラウルのいるサロンへ持ち込んだ。
彼は伯爵家の次男で、伯母のサロンで上演する芝居の準備を引き受けている。これまでにも何度か一緒に仕事をしたし、役者が来られなかった日に、自分で付け髭をつけて舞台に出てくれたこともあった。
どう見ても老人には見えなかったが、あのときは本当に助かった。今回のような頼みも、まずは彼に聞いてもらいたい。
事情を知ったラウルは台本を読み始め、しばらくして机に額をつけた。
「これ、本人たちの話なのか」
「そうです。おかしいと思ったところは、聞き直しました」
「その返事がこれか……」
肩が少し揺れている。やはり、そうなる。
笑いが収まってからもラウルは読み進めていたが、途中で指を止めた。
「この婚約者は、どうして怒っているんだ?」
「約束を破られたからです。前の場面で、男が別の女性のところにいますよね」
「うん。でも、彼女とは何の約束をしていたんだ。そこがないから、ただ男を追いかけてきて文句を言っているようにも見える」
示されたところを、隣から覗いた。
翌日、男を責める女。この場面には、言い合いの台詞ばかりが並んでいた。
「誕生日の食事です。二人で過ごすはずでした」
「それは、書かないのか」
書きたくなかったのだ。
誰に何を言われたかは覚えているし、腹も立つ。けれど、あの晩の自分まで舞台に出すとなると、どうしても嫌だった。書こうとしては別の場面へ移り、結局そこを抜いたまま台本を綴じた。
「楽しみにしていたんですよ。ずっと前から。五年も婚約していて、二人きりで祝うのは初めてでしたから」
ラウルが手を止めて聞いている。
こんなことまで話すつもりはなかったのに、黙られると、もう少し言ってもいいような気になってしまう。
「結婚したら、一緒にいられる時間も増えると思っていました。あの人も、それを楽しみにしてくれているのだと……馬鹿みたいでしょう」
笑おうとしたら、うまくいかなかった。慌てて台本に顔を向けると、手元にハンカチが置かれた。
ラウルは何も言わず、少しの間席を外してくれた。借りて目を押さえながら、ここへ来る前に泣いておけばよかったと思った。
戻ってきたときには、お茶の盆を持っていた。
「その場面を書けるかどうかは、君が決めていい。ただ、今のままで本当にいいのかは聞いておきたかったんだ」
お茶を一口飲み、もう一度台本を開いた。
フローラ役の女には、泣いた理由も、引き留めた理由も喋らせている。一方、この場面の自分の役は、現れるなり男を責めていた。何をされたか知っているから書けた台詞も、それを知らずに聞けば、また違う意味になるのかもしれない。
噂を訂正したかったはずなのに、恥ずかしいところを隠して、似たような女にしてしまった。
「……少しだけ、ここで直してもいいですか」
ラウルが机のものを脇へ寄せてくれた。
空いた紙を広げたものの、すぐには言葉が出てこない。あの夜、誰かに気の利いたことを言った覚えもないし、笑えることがあったわけでもなかった。
「ここだけ、全然面白くならないんですけれど」
「笑い声がしないと困るのか?」
困らない。台詞のない場面だって、芝居にはある。
では、あのとき何をしていたか。思い出した動作を、一つずつ紙に書いていった。
書き終えるころには、お茶が冷めていた。
ラウルは近くで舞台用の椅子を直していた。顔を上げると、こちらへ菓子を勧めてくれる。お腹が空いていたことに気づいて、一枚取った。
「お待たせしてしまって、すみません」
「大丈夫。まだ椅子が二脚あるから」
手伝えることはないかと訊くと、乾いた台本を読ませてほしいと言われた。それならと、書き足したばかりの紙を渡す。ラウルは椅子を脇へ寄せ、また机に向かってくれた。
*
初演の一週間前、二人を稽古に招いた。
レナードとフローラにも最終稿を一冊ずつ渡し、役者が台本を読みながら演じるのを、最初から最後まで見てもらった。途中でレナードが顔を上げたので、とうとう何か言うかと思ったのだが、気になったのは首飾りを入れた箱の色だった。
「赤ではなくて、白だよ。フローラも覚えているだろう?」
「ええ。そこは直していただきたいわ」
そこなら、いくらでも。
余白に書き込み、先へ進んでもらった。食卓の場面でも二人はちゃんと台本を見ていたし、終わってから、もう一度確かめた。
「私が待っていたところも、皆さんに見せてかまわないんですね」
「もちろんだよ。君に寂しい思いをさせてまで、僕はフローラを選んだんだ。そこが伝わらなければ、ただの恋物語じゃないか」
フローラが彼の手を取る。
隣のラウルを見るのはやめておいた。今、目が合ったら余計なことを言いそうだった。
「台詞も、このままでいいですか」
「僕が言ったとおりだよ。君がよく覚えていてくれて助かった」
「私も満足です。最後はきっと泣いてしまいますわ」
二人は台本を持って帰った。
見送って戻ると、男役の役者がこちらを見た。
「笑わせようとしなくて、いいんですね?」
「はい。今、演じていただいたとおりにお願いします」
変な顔も声も要らない。本人があれほど真面目に言っているのだから、役者にもそうしてもらえばいい。
箱の色を直した台本の表紙に、レナードがつけた『愛を貫いた二人』という題を書いた。
「感動劇を頼まれたのに、どう書いても喜劇になるんです」
「あの二人は、どこで泣くつもりなんだろうな」
ラウルの返事に頷いて、台本を閉じた。
もっとも、自分の食卓を見るときだけは、笑える自信がなかった。
*
初演の日、幕の脇から覗くと、サロンの椅子がほとんど埋まっていた。
エステルの芝居を何度も見に来てくれた人も、最近は挨拶しかしてくれなくなった人もいる。中ほどの席には、集まりを延期したと言ってきた夫人まで座っていた。
来てくれるといいと思っていたのに、いざ姿を見ると、そっと幕の陰へ戻ってしまった。あの人は、今日は何を見に来たのだろう。
「奥で待っていてもいいぞ。終わったら呼びに行くから」
ラウルに声をかけられたが、首を振った。
「ここにいます。自分で書いたものですから」
そう言ってから、持っていた台本を握り直す。あの食卓で笑われても、途中で逃げないでいられるだろうか。
ラウルは役者の通り道に置かれていた箱を動かし、ここなら邪魔にならないと場所を空けてくれた。隣にいてくれるのが、今はありがたかった。
開幕前に、レナードが客席の前へ出た。フローラも一緒で、例の首飾りを着けている。
「今夜の芝居は、僕たちの恋をもとにしているんだ。台本はエステルに頼んだ。元婚約者の彼女も、こうして力を貸してくれている」
レナードが笑顔でこちらへ手を向けたので、客席からも何人かが振り返った。仕方なく、幕の脇で一礼する。
「僕たちも読ませてもらったが、本当にあったとおりに書いてくれたよ。皆にも、分かってもらえたら嬉しい」
二人はゆっくり頭を下げ、最前列に戻った。
あそこまで言うなら、最後まで見ていってもらおう。ラウルが役者に合図を送り、幕が上がった。
若い男が婚約者の部屋を訪ねてくる。
『急に金が必要になってね。少し貸してくれないか。領地から届いたら返すよ』
女は引き出しから小さな金袋を取り出した。紐をほどいて中を確かめ、男の求めた額を数える。
『それ、どうしたんだい』
『台本を買っていただいたお金です。少しずつ貯めていたんですけれど、足りますか』
袋を受け取った男は礼を言い、急いで出ていった。
女が机を片づけて退くと、反対側から恋人役が現れる。男が懐から取り出したのは、白い箱だった。
『君に似合うと思って。どうしても贈りたかったんだ』
『こんなに高価なものを……よろしいの?』
『君のためなら、持っているものを全部投げ出せる』
後ろの席で、誰かが吹き出した。
すぐに咳へ変えたが、近くの紳士まで顔を伏せている。舞台の男は気づかず、恋人の首に飾りをかけた。
フローラは嬉しそうに、自分の首飾りにも触れた。その手元を、斜め後ろの夫人がじっと見ている。
いいところを見てもらえたと思っているのだろうか。そんなに大事な思い出なら、金を返してから見せてほしかった。
役者が下がり、小さな食卓が運ばれてきた。
二人分の皿と、向かい合う椅子。先ほど金袋を渡していた女が、少し改まったドレスで座る。
『お料理をお持ちしましょうか』
『もう少し待って。そろそろ、いらっしゃると思うから』
使用人役が下がると、女は向かいの席の匙を直した。一度廊下を見て、膝の上で手を重ねる。
その手つきは、稽古で自分がしてみせたものだった。
実際には、もっと落ち着きがなかった。何度も窓へ行ったし、新しいドレスの袖を何度も気にしていた。届いた手紙を開くときも、まだこれから来るつもりだと思っていたのだ。
『急な用事で、今夜は来られないそうです』
女が手紙を畳む。
『お食事は、どうなさいますか』
『……私の分だけ、お願いします』
余った皿が下げられていく。女はそれを見ていて、使用人に声をかけられると、慌てて何でもないと首を振った。
誰かに見られているのを思い出したとき、あんな顔をしていたのかもしれない。
客席へ目を向けるのが怖かった。それでも、そっと覗いた。
笑っている人はいなかった。
さっき肩を震わせていた紳士も、顔を上げていた。あの夫人は扇を膝に置き、女役から目を離さずにいる。
女が一人で食事を始めるまで、誰も声を立てなかった。
ようやく、握っていた台本から力を抜いた。
食卓が片づけられると、今度は、あの夜レナードがいたはずの部屋になる。外套を取ろうとする男を、恋人が引き留めた。
『帰ってしまうの? 今夜は一緒にいてくださると思っていたのに』
『約束があるんだ。今日は彼女の誕生日だから』
恋人の目に涙が浮かぶ。男は外套から手を離し、その肩を抱いた。
『そんな顔をしないで。君を泣かせたまま帰れるはずがないだろう』
『でも、お誕生日なのでしょう』
『来年もあるさ』
前の席で、扇を閉じる音がした。
「まあ、次があると思っているのね」
夫人が隣の夫に呟くと、周りの席から笑いが漏れた。
そう言われると、今度こそ少し笑えた。来年の誕生日も、あの人が来るのを待っているつもりなど、もうなかった。
レナードが座り直した。フローラは膝に手を揃え、舞台を見ている。その隣にいる男へは、顔を向けなくなっていた。
やがて男が、恋人を連れて婚約者の部屋を訪ねた。
『僕は、彼女と結婚したいと思っているんだ』
向かいに座る女は、しばらく黙っていた。男が恋人の手を取ると、その手を見てから口を開いた。
『……分かりました。お貸ししたお金は、返していただけますか』
『今、その話をするのかい。僕たちは、これからのことを話しているんだよ』
『その首飾りのお金ですよね』
女が恋人の胸元を見ると、男は庇うように間に立った。
『彼女を責めないでくれ。買ったのは僕なんだから』
『ええ。ですから、あなたに返してくださいと言っています』
客席に、また笑いが起きた。
男役は真剣な顔のままだった。守るつもりで前へ出たものの、逃げようのないところに立ってしまっている。その顔がレナードによく似ていて、こちらまで口元が緩んだ。
最前列のレナードが後ろを振り返る。フローラは膝の上で、ハンカチを握り直した。
『今まで僕を支えてくれた君なら、分かってくれると思ったのに』
また笑いが漏れたが、今度はそれに混じって、呆れたような声がした。
借りたときにはあんなに礼を言ったくせに、返してほしいと言えばこの顔をする。あのとき目の前で見ていたら、笑えるものではなかった。
それを、客も一緒に見ている。
舞台では、男と恋人が二人きりになった。
『君のためなら、僕は何だってする』
男は恋人の前に膝をついた。
役者の声はよく通ったし、差し出す手も、見上げる顔も、いつもの恋愛劇なら十分に格好よかったと思う。
『では、ご両親にも分かっていただけるのね。私、反対されたままでは悲しいわ』
『もちろんだとも。任せておいてくれ』
男は立ち上がり、その足で元婚約者の部屋へ向かった。
『僕たちの恋を、君のお芝居にしてほしいんだ』
客席がどっと沸いた。
男役は、返事を待つ顔のままで立っている。相手役も菓子の皿を持ちかけて止まっており、なかなか先へ進めない。
笑いが静まると、男が続けた。
『父にも見てもらいたいんだ。君の得意なことだろう?』
とうとうレナードが腰を浮かせた。フローラに袖を引かれると座り直したが、今度は幕の脇を見ている。
目が合ったので、手元の台本へ視線を戻した。まだ最後ではない。
『君が書けば、元の婚約者も祝福してくれていると、皆に分かるだろう』
『私は祝福していませんけれど』
『いつまでも意地を張らなくていいんだよ』
誰かが小さく、聞いてやれよ、と言った。
女はしばらく男を見て、それから菓子の皿を自分のほうへ戻した。
ここは稽古で笑ってしまったところなので、今度は我慢できた。隣のラウルは顔を横へ向けている。
原稿料を出し渋って断られかけた男が、慌てて支払いを約束する。女が紙を用意すると、恋人が身を乗り出した。
『私たちが結ばれてよかったと、皆様に思っていただけるお話をお願いしますね』
女は二人の顔を順に見て、少し考えた。
『まずは、お二人のお話を聞かせてください』
ペンを取る女の前で、二人が顔を見合わせる。男が話し始めたところで、幕が下りた。
拍手の中にも、まだ笑い声が混じっていた。
役者たちが幕の内側で顔を見合わせ、ほっとしたように息を吐く。挨拶に出てもらおうとしたところで、名前を呼ばれた。
「エステル!」
レナードが、椅子の列を抜けてやってきていた。
「どういうことなんだ。皆、笑っているじゃないか! 僕は、こんなものを頼んだ覚えはないぞ」
声が大きかったせいで、近くの客もこちらを見た。
隠れたまま返事をするわけにもいかない。台本を手に幕の外へ出ると、ラウルも後ろについてきた。
「どこが違いましたか」
「何が」
「先日の稽古で見ていただいたものと。箱の色以外、変えていませんよ」
「そういうことを言っているんじゃない! 役者に何かさせたんだろう。あんなに笑われるなんて、おかしいじゃないか」
幕の内側にいた男役まで、顔を出しかけた。
エステルは持っていた台本を開き、レナードへ向けた。
「どの場面ですか。台詞も、お芝居も、あなた方に見ていただいたままです。役者に文句を言うなら、どこが違ったか先に教えてください」
レナードは開かれた紙を見下ろした。その間にフローラも来て、彼の横へ立った。
「あのお食事の場面ですわ。あんなふうに見せるから、私たちがひどいことをしたように……」
「待っていたんです。あの晩は」
顔を上げて言うと、フローラの声が止まった。
「私が怒ったことは、皆さんにお話ししたでしょう。だったら、なぜ怒ったのかも聞いていただいていいはずです」
「でも、私だってあのときは――」
「伺いましたよ。だから、お二人の場面も書いたんです」
フローラは口を開きかけ、隣の男を見た。レナードは返事をせず、紙に目を落としたままだった。
自分たちの話を聞いてほしいと頼んだのは、そちらだ。こちらが待っていたことだけ、またなかったことにはさせない。
「……書き直してくれ」
ようやく顔を上げたレナードが言った。
「このままじゃ、もっと誤解される。何とかしてくれよ。君が書かなかったら、誰がこの騒ぎを収めるんだ」
少し離れた席で、紳士が吹き出した。レナードは振り返ったが、そちらへも何と言えばいいのか分からないようだった。
「もう、お引き受けしません」
台本を閉じた。
「エステル様」
呼ばれたほうへ向くと、集まりを延期したという便りをくれた夫人が立っていた。近づいてきた夫人は、レナードではなく、こちらに向かって頭を下げた。
「先日は、申し訳ありませんでした。集まりを延期したというのは、嘘です。あなたに何も確かめず、聞いた話を信じてしまって」
レナードが何か言いかけたが、夫人はそちらを見なかった。
「本当にごめんなさい」
便りを受け取ってから、何度も考えていた。なぜ取りやめたのか、何を聞いたのか。今さら訊いたところで、また別の口実を言われる気がしていたのに。
すぐに返事ができずにいると、夫人は重ねて頭を下げた。少し黙ってから、ようやく頷く。
「私からも、お話ししたいと思っていました」
「ええ。ちゃんとお聞きするべきでした。それで……お詫びをしたばかりで、図々しいのですけれど。今度こそ、お芝居をお願いできないかしら。先日ご相談していたものを、まだ書いていただけるなら」
書きかけの筋書きは、引き出しにしまってある。
捨てなくてよかった。そう思ってから、ようやく少し肩の力が抜けた。
「途中まで書いてあります。一度、お持ちしましょうか」
夫人が嬉しそうに頷いた。
「待ってくれ。僕の話は、まだ――」
「お前の話は、私が聞こう」
レナードの父親が、息子の後ろに立っていた。
伯爵は、こちらへも顔を向ける。
「借りた金が残っているとは聞いていなかった。エステル嬢、あとで金額を知らせてもらいたい。まず当家から返す。息子には、自分が何を言い触らしたのかも聞かせてもらう」
礼を言うと、伯爵は頷き、息子を促した。
「立て替えた分は、お前に渡す金から引く。帰ってから話そう」
レナードはまだ台本を見ていたが、もう書き直せとは言わなかった。
「レナード様。ちゃんとお父様にお話ししてきてくださいね。何でもしてくださると、おっしゃったのですから」
フローラが言うと、すぐそばの夫人が扇を開いた。
別の紳士も横を向いた。レナードは二人のほうを見てから、フローラへ何か言いかけ、結局そのまま父親についていった。
ラウルが、幕を少し開けた。役者たちがこちらを窺っている。
「あいさつに出てもらおうか」
頷きかけると、男役がこちらへ手を差し出してきた。
「先生も、ご一緒に」
いつもなら、役者だけで出てもらう。けれど今日は、その手を借りて、一緒に客席の前へ出た。
拍手が起きた。さっきまでこちらを見ていた夫人も、手を叩いてくれている。
頭を下げている間に、遅れて涙が出そうになった。
*
貸していた金は、三日後に返ってきた。
伯爵の手紙には、息子が事情を省いて話した相手へは、改めて説明させるとあった。どんな説明をするのか気になったが、今度は父親も一緒だというので、返済のお礼だけ書いておいた。
台本の再演を頼む手紙も来た。
あの夜の二人の話を聞きたいという人も、ただ次の芝居を見たいという人もいる。全部は引き受けられないので、机の上で順番に並べていたら、引き出しにしまったハンカチを思い出した。
洗っておいたものを包み、焼き菓子と一緒にラウルのところへ持っていった。
「返すのが遅くなって、すみません」
「忙しかったんだろう。伯母のところにも、君に頼みたいという手紙が来ていたよ」
包みを置くと、彼は机の書類を脇へ寄せた。
「でも、引き受けすぎるなよ。来月までの分が、もうずいぶんあるんじゃないか」
「ですから、今日は台本を持ってきませんでした。ちゃんとお礼を言ってから帰ろうと思って」
「それはよかった。俺も、仕事じゃない話がしたかったんだ」
お茶を用意しようとしていた手を止め、ラウルがこちらを見た。
「今度、二人で食事に行かないか。芝居の用事がなくても、君に会いたいと思っていた」
鞄の口を閉じかけたまま、動けなくなった。
こういう場面を書いたことなら、何度もある。返事の台詞が決まらなくて困ったときもあるが、今はそのどれも思い出せない。
あまり長く待たせたら、断ると思われるかもしれない。それは嫌だったので、顔を上げた。
「……ぜひ、ご一緒したいです」
ラウルがほっとしたように笑った。それを見て、こちらも少し息がしやすくなった。
「何か、食べたいものはあるか」
「蜂蜜をかけた焼き林檎が好きなんです。温かいうちに、アイスを添えて食べるのが」
言ってから、料理より先にお菓子を頼んでしまったと気づいた。けれど、ラウルは出してくれる店を知っていると頷いた。
そのまま食事の日も決まり、帰りの馬車の中で、持ってきた手帳に印をつけた。
当日、彼は約束より少し早く迎えに来た。
こちらも支度は済んでいた。あの誕生日以来、しまったままのドレスに、違う色のリボンを合わせてみた。鏡の前ではいいと思ったのに、階段を下りるころには、やはり少し気にかかる。
玄関のラウルが、顔を上げた。
「よく似合っている」
「……ありがとうございます」
リボンを触りかけた手を下ろし、差し出された彼の手に重ねた。
馬車に乗ると、焼き林檎は先に頼んであると教えてくれた。
「ほかに好きなものがあれば、また教えてくれ」
「はい。次までに、考えておきます」
言ってしまってから、次の約束などまだしていなかったと思った。
そっと向かいを見ると、ラウルは笑って頷いてくれた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
面白かったと思っていただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価していただけると嬉しいです。
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