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私を捨てた元婚約者に「真実の愛」を美談にしてほしいと頼まれましたが、どう書いても喜劇になります

作者: yurihina
掲載日:2026/09/22

「僕とフローラの恋を、君のお芝居にしてほしいんだ。皆、ひどく誤解しているからね」


 エステルは、差し出しかけた菓子の皿を自分の前に戻した。


 応接室の向かいに座っているのは、先月まで婚約者だったレナード。その隣には、彼が結婚したいと言って連れてきたフローラ嬢までいる。

 借りた金の返済について相談したいというから通したのに、どうして新しい恋人まで来たのか。首を傾げていたところへ、この頼みだった。


「父まで、しばらく大人しくしていろと言い出してね。僕たちは本当に愛し合う相手を選んだだけなのに、おかしいじゃないか」

「このところ、お茶会にもあまり呼ばれませんの。私たちのことを知っていただけば、皆様も分かってくださると思うのですけれど」


 フローラが胸元に手を添えると、薔薇の首飾りが揺れた。あれを贈る金を貸したのも、まだ返してもらっていないのも、こちらである。

 その首飾りを着けて、よく来られたものだ。


「だから、君に感動的な芝居を書いてほしいんだ。元の婚約者が書いてくれれば、君も僕たちを祝福していると分かるだろう?」

「私は祝福していませんけれど」


 フローラが、不思議そうにレナードを見た。


「でも、お二人のお話はもう済んでいると……」

「済んでいるよ。エステルも、婚約を解消することには納得してくれたんだ」

「別れることを承知したんです。お二人をお祝いするとは言っていません」


 どうもこの人たちは、それを同じことだと思っていたらしい。フローラは戸惑ったように目を伏せたが、レナードは笑っていた。


「いつまでも意地を張らなくていいんだよ。こうして迎えてくれたじゃないか」


 お金の話をするためだ。

 言おうとして、いったん焼き菓子を口に入れた。今すぐ話し始めたら、五年分くらいの文句が出てきそうだった。


 貴族のサロンで上演する短い芝居を書き始めて、三年になる。恋人を取り違える話や、見栄を張った男が引っ込みのつかなくなる話。そういう、皆が気軽に笑えるものを頼まれることが多かった。

 けれど、このところは依頼が減っている。次の芝居を楽しみにしていると言ってくれた夫人からも、急に集まりを延期したという便りが来た。


 その集まりが予定どおり開かれたと知ったのは、別の人から感想を聞かされたときだった。


 レナードは婚約解消のことを尋ねられるたび、エステルは金のことばかり言っていたとか、フローラが泣くまで怒っていたとか話しているらしい。

 返せと言ったのは貸した金で、何のために使ったかは省かれている。フローラが泣きだしたのも、別れ話の席で借金を返すよう求めたときだった。せっかく皆が前へ進もうとしているのに、と。

 こちらは前へ進むなと言った覚えなどない。返すものを返してほしいだけなのに。


 それが人から人へ伝わるうちに、二人の仲を妬む冷たい女という話になった。夜会で顔を合わせても、相手は短い挨拶をして去っていく。何を聞いたのか確かめる間もない。


「どこで上演するおつもりですか」


 レナードが、ようやく話が通じたという顔になった。


「君がいつも書いているようなサロンでいい。僕から知り合いにも声をかけるよ。父にも来てもらうつもりだし、フローラを悪く言っている人にも見せたいんだ」


 それなら、あの夫人も来るかもしれない。

 自分で手紙を送っても、返事をもらえるか分からない相手だ。けれど、レナードが二人の晴れ舞台だと言って招けば、見に来る人はいるだろう。

 そこでなら、こちらの話も最後まで聞いてもらえるかもしれない。レナード本人が認めたことを書けば、勝手な作り話だとも言われずに済む。


 食べ終えた菓子の屑を、皿の端へ寄せた。


「私がお金を返してほしいと言ったところも、書きますよ」

「かまわないよ。君が怒ったことを隠してくれとは頼んでいないだろう」

「その前のこともです。何に使ったお金か、どうして私が怒ったのか。そこまで書いてもいいんですか」

「もちろん。全部知ってもらわなければ意味がないからね」


 フローラも頷いている。

 それなら書こう。怒ったところだけ言い触らされて、こちらの話を聞いてもらえないままでは困る。お祝いの言葉は一行だって書く気はないが、起きたことなら覚えている。


「原稿料は、先に頂きます」

「……そこは、友人として協力してくれないかな」

「では、ほかの方に頼んでください」


 立ち上がると、レナードも慌てて腰を浮かせた。


「待ってくれ。払うよ。上演の費用も、僕が持つつもりなんだ」

「では、届いてから始めます。前にお貸しした分も、忘れないでくださいね」


 書いたあとで払えないと言われるのは御免だ。二度目まで黙って待つほど、気前はよくない。

 机から紙を取ってくると、フローラが嬉しそうに身を乗り出した。


「私たちが結ばれてよかったと、皆様に思っていただけるお話をお願いしますね」


 まだそこへ戻るのか。

 隣のレナードまで期待に満ちた顔をしているので、ため息を呑み込んでペンを取った。


「まずは、お二人のお話を聞かせてください」


     *


 原稿料が届いてから、二人の話を聞いた。


 忘れられない贈り物があるというので日付を確かめれば、こちらが金を貸した日のことだった。愛を選んだ夜だと語り始めれば、今度は誕生日の約束をすっぽかされた日の話になる。

 それに気づくたび話を止めたが、二人は隠そうともしなかった。むしろ、そこが大切なのだと、当時の言葉までよく覚えていた。


 こちらの手帳や手紙とも照らし合わせ、聞き終えたときには紙が何枚も埋まっていた。

 感動したという顔で帰っていく二人を見送ってから、もう一度読んだ。書き間違えたわけではなさそうだ。

 あの人たちは、本気でこれを見せたいのだろうか。


 何日かかけて台本にし、ラウルのいるサロンへ持ち込んだ。


 彼は伯爵家の次男で、伯母のサロンで上演する芝居の準備を引き受けている。これまでにも何度か一緒に仕事をしたし、役者が来られなかった日に、自分で付け髭をつけて舞台に出てくれたこともあった。

 どう見ても老人には見えなかったが、あのときは本当に助かった。今回のような頼みも、まずは彼に聞いてもらいたい。


 事情を知ったラウルは台本を読み始め、しばらくして机に額をつけた。


「これ、本人たちの話なのか」

「そうです。おかしいと思ったところは、聞き直しました」

「その返事がこれか……」


 肩が少し揺れている。やはり、そうなる。

 笑いが収まってからもラウルは読み進めていたが、途中で指を止めた。


「この婚約者は、どうして怒っているんだ?」

「約束を破られたからです。前の場面で、男が別の女性のところにいますよね」

「うん。でも、彼女とは何の約束をしていたんだ。そこがないから、ただ男を追いかけてきて文句を言っているようにも見える」


 示されたところを、隣から覗いた。

 翌日、男を責める女。この場面には、言い合いの台詞ばかりが並んでいた。


「誕生日の食事です。二人で過ごすはずでした」

「それは、書かないのか」


 書きたくなかったのだ。

 誰に何を言われたかは覚えているし、腹も立つ。けれど、あの晩の自分まで舞台に出すとなると、どうしても嫌だった。書こうとしては別の場面へ移り、結局そこを抜いたまま台本を綴じた。


「楽しみにしていたんですよ。ずっと前から。五年も婚約していて、二人きりで祝うのは初めてでしたから」


 ラウルが手を止めて聞いている。

 こんなことまで話すつもりはなかったのに、黙られると、もう少し言ってもいいような気になってしまう。


「結婚したら、一緒にいられる時間も増えると思っていました。あの人も、それを楽しみにしてくれているのだと……馬鹿みたいでしょう」


 笑おうとしたら、うまくいかなかった。慌てて台本に顔を向けると、手元にハンカチが置かれた。

 ラウルは何も言わず、少しの間席を外してくれた。借りて目を押さえながら、ここへ来る前に泣いておけばよかったと思った。


 戻ってきたときには、お茶の盆を持っていた。


「その場面を書けるかどうかは、君が決めていい。ただ、今のままで本当にいいのかは聞いておきたかったんだ」


 お茶を一口飲み、もう一度台本を開いた。

 フローラ役の女には、泣いた理由も、引き留めた理由も喋らせている。一方、この場面の自分の役は、現れるなり男を責めていた。何をされたか知っているから書けた台詞も、それを知らずに聞けば、また違う意味になるのかもしれない。


 噂を訂正したかったはずなのに、恥ずかしいところを隠して、似たような女にしてしまった。


「……少しだけ、ここで直してもいいですか」


 ラウルが机のものを脇へ寄せてくれた。

 空いた紙を広げたものの、すぐには言葉が出てこない。あの夜、誰かに気の利いたことを言った覚えもないし、笑えることがあったわけでもなかった。


「ここだけ、全然面白くならないんですけれど」

「笑い声がしないと困るのか?」


 困らない。台詞のない場面だって、芝居にはある。

 では、あのとき何をしていたか。思い出した動作を、一つずつ紙に書いていった。


 書き終えるころには、お茶が冷めていた。

 ラウルは近くで舞台用の椅子を直していた。顔を上げると、こちらへ菓子を勧めてくれる。お腹が空いていたことに気づいて、一枚取った。


「お待たせしてしまって、すみません」

「大丈夫。まだ椅子が二脚あるから」


 手伝えることはないかと訊くと、乾いた台本を読ませてほしいと言われた。それならと、書き足したばかりの紙を渡す。ラウルは椅子を脇へ寄せ、また机に向かってくれた。


     *


 初演の一週間前、二人を稽古に招いた。


 レナードとフローラにも最終稿を一冊ずつ渡し、役者が台本を読みながら演じるのを、最初から最後まで見てもらった。途中でレナードが顔を上げたので、とうとう何か言うかと思ったのだが、気になったのは首飾りを入れた箱の色だった。


「赤ではなくて、白だよ。フローラも覚えているだろう?」

「ええ。そこは直していただきたいわ」


 そこなら、いくらでも。

 余白に書き込み、先へ進んでもらった。食卓の場面でも二人はちゃんと台本を見ていたし、終わってから、もう一度確かめた。


「私が待っていたところも、皆さんに見せてかまわないんですね」

「もちろんだよ。君に寂しい思いをさせてまで、僕はフローラを選んだんだ。そこが伝わらなければ、ただの恋物語じゃないか」


 フローラが彼の手を取る。

 隣のラウルを見るのはやめておいた。今、目が合ったら余計なことを言いそうだった。


「台詞も、このままでいいですか」

「僕が言ったとおりだよ。君がよく覚えていてくれて助かった」

「私も満足です。最後はきっと泣いてしまいますわ」


 二人は台本を持って帰った。

 見送って戻ると、男役の役者がこちらを見た。


「笑わせようとしなくて、いいんですね?」

「はい。今、演じていただいたとおりにお願いします」


 変な顔も声も要らない。本人があれほど真面目に言っているのだから、役者にもそうしてもらえばいい。

 箱の色を直した台本の表紙に、レナードがつけた『愛を貫いた二人』という題を書いた。


「感動劇を頼まれたのに、どう書いても喜劇になるんです」

「あの二人は、どこで泣くつもりなんだろうな」


 ラウルの返事に頷いて、台本を閉じた。

 もっとも、自分の食卓を見るときだけは、笑える自信がなかった。


     *


 初演の日、幕の脇から覗くと、サロンの椅子がほとんど埋まっていた。


 エステルの芝居を何度も見に来てくれた人も、最近は挨拶しかしてくれなくなった人もいる。中ほどの席には、集まりを延期したと言ってきた夫人まで座っていた。

 来てくれるといいと思っていたのに、いざ姿を見ると、そっと幕の陰へ戻ってしまった。あの人は、今日は何を見に来たのだろう。


「奥で待っていてもいいぞ。終わったら呼びに行くから」


 ラウルに声をかけられたが、首を振った。


「ここにいます。自分で書いたものですから」


 そう言ってから、持っていた台本を握り直す。あの食卓で笑われても、途中で逃げないでいられるだろうか。

 ラウルは役者の通り道に置かれていた箱を動かし、ここなら邪魔にならないと場所を空けてくれた。隣にいてくれるのが、今はありがたかった。


 開幕前に、レナードが客席の前へ出た。フローラも一緒で、例の首飾りを着けている。


「今夜の芝居は、僕たちの恋をもとにしているんだ。台本はエステルに頼んだ。元婚約者の彼女も、こうして力を貸してくれている」


 レナードが笑顔でこちらへ手を向けたので、客席からも何人かが振り返った。仕方なく、幕の脇で一礼する。


「僕たちも読ませてもらったが、本当にあったとおりに書いてくれたよ。皆にも、分かってもらえたら嬉しい」


 二人はゆっくり頭を下げ、最前列に戻った。

 あそこまで言うなら、最後まで見ていってもらおう。ラウルが役者に合図を送り、幕が上がった。


 若い男が婚約者の部屋を訪ねてくる。


『急に金が必要になってね。少し貸してくれないか。領地から届いたら返すよ』


 女は引き出しから小さな金袋を取り出した。紐をほどいて中を確かめ、男の求めた額を数える。


『それ、どうしたんだい』

『台本を買っていただいたお金です。少しずつ貯めていたんですけれど、足りますか』


 袋を受け取った男は礼を言い、急いで出ていった。

 女が机を片づけて退くと、反対側から恋人役が現れる。男が懐から取り出したのは、白い箱だった。


『君に似合うと思って。どうしても贈りたかったんだ』

『こんなに高価なものを……よろしいの?』

『君のためなら、持っているものを全部投げ出せる』


 後ろの席で、誰かが吹き出した。

 すぐに咳へ変えたが、近くの紳士まで顔を伏せている。舞台の男は気づかず、恋人の首に飾りをかけた。


 フローラは嬉しそうに、自分の首飾りにも触れた。その手元を、斜め後ろの夫人がじっと見ている。

 いいところを見てもらえたと思っているのだろうか。そんなに大事な思い出なら、金を返してから見せてほしかった。


 役者が下がり、小さな食卓が運ばれてきた。

 二人分の皿と、向かい合う椅子。先ほど金袋を渡していた女が、少し改まったドレスで座る。


『お料理をお持ちしましょうか』

『もう少し待って。そろそろ、いらっしゃると思うから』


 使用人役が下がると、女は向かいの席の匙を直した。一度廊下を見て、膝の上で手を重ねる。

 その手つきは、稽古で自分がしてみせたものだった。


 実際には、もっと落ち着きがなかった。何度も窓へ行ったし、新しいドレスの袖を何度も気にしていた。届いた手紙を開くときも、まだこれから来るつもりだと思っていたのだ。


『急な用事で、今夜は来られないそうです』


 女が手紙を畳む。


『お食事は、どうなさいますか』

『……私の分だけ、お願いします』


 余った皿が下げられていく。女はそれを見ていて、使用人に声をかけられると、慌てて何でもないと首を振った。


 誰かに見られているのを思い出したとき、あんな顔をしていたのかもしれない。

 客席へ目を向けるのが怖かった。それでも、そっと覗いた。


 笑っている人はいなかった。

 さっき肩を震わせていた紳士も、顔を上げていた。あの夫人は扇を膝に置き、女役から目を離さずにいる。

 女が一人で食事を始めるまで、誰も声を立てなかった。


 ようやく、握っていた台本から力を抜いた。

 食卓が片づけられると、今度は、あの夜レナードがいたはずの部屋になる。外套を取ろうとする男を、恋人が引き留めた。


『帰ってしまうの? 今夜は一緒にいてくださると思っていたのに』

『約束があるんだ。今日は彼女の誕生日だから』


 恋人の目に涙が浮かぶ。男は外套から手を離し、その肩を抱いた。


『そんな顔をしないで。君を泣かせたまま帰れるはずがないだろう』

『でも、お誕生日なのでしょう』

『来年もあるさ』


 前の席で、扇を閉じる音がした。


「まあ、次があると思っているのね」


 夫人が隣の夫に呟くと、周りの席から笑いが漏れた。

 そう言われると、今度こそ少し笑えた。来年の誕生日も、あの人が来るのを待っているつもりなど、もうなかった。


 レナードが座り直した。フローラは膝に手を揃え、舞台を見ている。その隣にいる男へは、顔を向けなくなっていた。


 やがて男が、恋人を連れて婚約者の部屋を訪ねた。


『僕は、彼女と結婚したいと思っているんだ』


 向かいに座る女は、しばらく黙っていた。男が恋人の手を取ると、その手を見てから口を開いた。


『……分かりました。お貸ししたお金は、返していただけますか』

『今、その話をするのかい。僕たちは、これからのことを話しているんだよ』

『その首飾りのお金ですよね』


 女が恋人の胸元を見ると、男は庇うように間に立った。


『彼女を責めないでくれ。買ったのは僕なんだから』

『ええ。ですから、あなたに返してくださいと言っています』


 客席に、また笑いが起きた。

 男役は真剣な顔のままだった。守るつもりで前へ出たものの、逃げようのないところに立ってしまっている。その顔がレナードによく似ていて、こちらまで口元が緩んだ。


 最前列のレナードが後ろを振り返る。フローラは膝の上で、ハンカチを握り直した。


『今まで僕を支えてくれた君なら、分かってくれると思ったのに』


 また笑いが漏れたが、今度はそれに混じって、呆れたような声がした。

 借りたときにはあんなに礼を言ったくせに、返してほしいと言えばこの顔をする。あのとき目の前で見ていたら、笑えるものではなかった。

 それを、客も一緒に見ている。


 舞台では、男と恋人が二人きりになった。


『君のためなら、僕は何だってする』


 男は恋人の前に膝をついた。

 役者の声はよく通ったし、差し出す手も、見上げる顔も、いつもの恋愛劇なら十分に格好よかったと思う。


『では、ご両親にも分かっていただけるのね。私、反対されたままでは悲しいわ』

『もちろんだとも。任せておいてくれ』


 男は立ち上がり、その足で元婚約者の部屋へ向かった。


『僕たちの恋を、君のお芝居にしてほしいんだ』


 客席がどっと沸いた。

 男役は、返事を待つ顔のままで立っている。相手役も菓子の皿を持ちかけて止まっており、なかなか先へ進めない。

 笑いが静まると、男が続けた。


『父にも見てもらいたいんだ。君の得意なことだろう?』


 とうとうレナードが腰を浮かせた。フローラに袖を引かれると座り直したが、今度は幕の脇を見ている。

 目が合ったので、手元の台本へ視線を戻した。まだ最後ではない。


『君が書けば、元の婚約者も祝福してくれていると、皆に分かるだろう』

『私は祝福していませんけれど』

『いつまでも意地を張らなくていいんだよ』


 誰かが小さく、聞いてやれよ、と言った。

 女はしばらく男を見て、それから菓子の皿を自分のほうへ戻した。

 ここは稽古で笑ってしまったところなので、今度は我慢できた。隣のラウルは顔を横へ向けている。


 原稿料を出し渋って断られかけた男が、慌てて支払いを約束する。女が紙を用意すると、恋人が身を乗り出した。


『私たちが結ばれてよかったと、皆様に思っていただけるお話をお願いしますね』


 女は二人の顔を順に見て、少し考えた。


『まずは、お二人のお話を聞かせてください』


 ペンを取る女の前で、二人が顔を見合わせる。男が話し始めたところで、幕が下りた。


 拍手の中にも、まだ笑い声が混じっていた。

 役者たちが幕の内側で顔を見合わせ、ほっとしたように息を吐く。挨拶に出てもらおうとしたところで、名前を呼ばれた。


「エステル!」


 レナードが、椅子の列を抜けてやってきていた。


「どういうことなんだ。皆、笑っているじゃないか! 僕は、こんなものを頼んだ覚えはないぞ」


 声が大きかったせいで、近くの客もこちらを見た。

 隠れたまま返事をするわけにもいかない。台本を手に幕の外へ出ると、ラウルも後ろについてきた。


「どこが違いましたか」

「何が」

「先日の稽古で見ていただいたものと。箱の色以外、変えていませんよ」

「そういうことを言っているんじゃない! 役者に何かさせたんだろう。あんなに笑われるなんて、おかしいじゃないか」


 幕の内側にいた男役まで、顔を出しかけた。

 エステルは持っていた台本を開き、レナードへ向けた。


「どの場面ですか。台詞も、お芝居も、あなた方に見ていただいたままです。役者に文句を言うなら、どこが違ったか先に教えてください」


 レナードは開かれた紙を見下ろした。その間にフローラも来て、彼の横へ立った。


「あのお食事の場面ですわ。あんなふうに見せるから、私たちがひどいことをしたように……」

「待っていたんです。あの晩は」


 顔を上げて言うと、フローラの声が止まった。


「私が怒ったことは、皆さんにお話ししたでしょう。だったら、なぜ怒ったのかも聞いていただいていいはずです」

「でも、私だってあのときは――」

「伺いましたよ。だから、お二人の場面も書いたんです」


 フローラは口を開きかけ、隣の男を見た。レナードは返事をせず、紙に目を落としたままだった。

 自分たちの話を聞いてほしいと頼んだのは、そちらだ。こちらが待っていたことだけ、またなかったことにはさせない。


「……書き直してくれ」


 ようやく顔を上げたレナードが言った。


「このままじゃ、もっと誤解される。何とかしてくれよ。君が書かなかったら、誰がこの騒ぎを収めるんだ」


 少し離れた席で、紳士が吹き出した。レナードは振り返ったが、そちらへも何と言えばいいのか分からないようだった。


「もう、お引き受けしません」


 台本を閉じた。


「エステル様」


 呼ばれたほうへ向くと、集まりを延期したという便りをくれた夫人が立っていた。近づいてきた夫人は、レナードではなく、こちらに向かって頭を下げた。


「先日は、申し訳ありませんでした。集まりを延期したというのは、嘘です。あなたに何も確かめず、聞いた話を信じてしまって」


 レナードが何か言いかけたが、夫人はそちらを見なかった。


「本当にごめんなさい」


 便りを受け取ってから、何度も考えていた。なぜ取りやめたのか、何を聞いたのか。今さら訊いたところで、また別の口実を言われる気がしていたのに。

 すぐに返事ができずにいると、夫人は重ねて頭を下げた。少し黙ってから、ようやく頷く。


「私からも、お話ししたいと思っていました」

「ええ。ちゃんとお聞きするべきでした。それで……お詫びをしたばかりで、図々しいのですけれど。今度こそ、お芝居をお願いできないかしら。先日ご相談していたものを、まだ書いていただけるなら」


 書きかけの筋書きは、引き出しにしまってある。

 捨てなくてよかった。そう思ってから、ようやく少し肩の力が抜けた。


「途中まで書いてあります。一度、お持ちしましょうか」


 夫人が嬉しそうに頷いた。


「待ってくれ。僕の話は、まだ――」

「お前の話は、私が聞こう」


 レナードの父親が、息子の後ろに立っていた。

 伯爵は、こちらへも顔を向ける。


「借りた金が残っているとは聞いていなかった。エステル嬢、あとで金額を知らせてもらいたい。まず当家から返す。息子には、自分が何を言い触らしたのかも聞かせてもらう」


 礼を言うと、伯爵は頷き、息子を促した。


「立て替えた分は、お前に渡す金から引く。帰ってから話そう」


 レナードはまだ台本を見ていたが、もう書き直せとは言わなかった。


「レナード様。ちゃんとお父様にお話ししてきてくださいね。何でもしてくださると、おっしゃったのですから」


 フローラが言うと、すぐそばの夫人が扇を開いた。

 別の紳士も横を向いた。レナードは二人のほうを見てから、フローラへ何か言いかけ、結局そのまま父親についていった。


 ラウルが、幕を少し開けた。役者たちがこちらを窺っている。


「あいさつに出てもらおうか」


 頷きかけると、男役がこちらへ手を差し出してきた。


「先生も、ご一緒に」


 いつもなら、役者だけで出てもらう。けれど今日は、その手を借りて、一緒に客席の前へ出た。

 拍手が起きた。さっきまでこちらを見ていた夫人も、手を叩いてくれている。

 頭を下げている間に、遅れて涙が出そうになった。


     *


 貸していた金は、三日後に返ってきた。

 伯爵の手紙には、息子が事情を省いて話した相手へは、改めて説明させるとあった。どんな説明をするのか気になったが、今度は父親も一緒だというので、返済のお礼だけ書いておいた。


 台本の再演を頼む手紙も来た。

 あの夜の二人の話を聞きたいという人も、ただ次の芝居を見たいという人もいる。全部は引き受けられないので、机の上で順番に並べていたら、引き出しにしまったハンカチを思い出した。


 洗っておいたものを包み、焼き菓子と一緒にラウルのところへ持っていった。


「返すのが遅くなって、すみません」

「忙しかったんだろう。伯母のところにも、君に頼みたいという手紙が来ていたよ」


 包みを置くと、彼は机の書類を脇へ寄せた。


「でも、引き受けすぎるなよ。来月までの分が、もうずいぶんあるんじゃないか」

「ですから、今日は台本を持ってきませんでした。ちゃんとお礼を言ってから帰ろうと思って」

「それはよかった。俺も、仕事じゃない話がしたかったんだ」


 お茶を用意しようとしていた手を止め、ラウルがこちらを見た。


「今度、二人で食事に行かないか。芝居の用事がなくても、君に会いたいと思っていた」


 鞄の口を閉じかけたまま、動けなくなった。

 こういう場面を書いたことなら、何度もある。返事の台詞が決まらなくて困ったときもあるが、今はそのどれも思い出せない。

 あまり長く待たせたら、断ると思われるかもしれない。それは嫌だったので、顔を上げた。


「……ぜひ、ご一緒したいです」


 ラウルがほっとしたように笑った。それを見て、こちらも少し息がしやすくなった。


「何か、食べたいものはあるか」

「蜂蜜をかけた焼き林檎が好きなんです。温かいうちに、アイスを添えて食べるのが」


 言ってから、料理より先にお菓子を頼んでしまったと気づいた。けれど、ラウルは出してくれる店を知っていると頷いた。

 そのまま食事の日も決まり、帰りの馬車の中で、持ってきた手帳に印をつけた。


 当日、彼は約束より少し早く迎えに来た。

 こちらも支度は済んでいた。あの誕生日以来、しまったままのドレスに、違う色のリボンを合わせてみた。鏡の前ではいいと思ったのに、階段を下りるころには、やはり少し気にかかる。


 玄関のラウルが、顔を上げた。


「よく似合っている」

「……ありがとうございます」


 リボンを触りかけた手を下ろし、差し出された彼の手に重ねた。

 馬車に乗ると、焼き林檎は先に頼んであると教えてくれた。


「ほかに好きなものがあれば、また教えてくれ」

「はい。次までに、考えておきます」


 言ってしまってから、次の約束などまだしていなかったと思った。

 そっと向かいを見ると、ラウルは笑って頷いてくれた。

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浮気による婚約解消して自分達の恋愛劇の脚本書けという辺りからもはや喜劇なの気付いてないのがお花畑やん。
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