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政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください  作者: 星舟能空


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30/30

第30話 今度は一緒に出かけましょう

 秋、私たちは王都とオーブを、もう一度往復した。

 歌劇は、期待していたより長かった。

 私は楽しんだ。

 夫は途中で少し眠そうになった。

 帰りの馬車でそれを指摘すると、彼は正直に認めた。

「第二幕の椅子が、よすぎた」

「舞台では、恋人が死にかけていたのですよ」

「助かった」

「最後は」

 私たちは笑った。

 夫は仕事へ行き、私は友人と菓子屋へ行った。

 二晩は一緒に食べ、一晩は別々に過ごした。

 帰る日は、約束どおり同じ馬車へ乗った。

 特別な勝利ではない。

 でも、私には大切な往復だった。

 王都へ戻っても、海辺の暮らしは消えなかった。

 海へ帰っても、王都の楽しみを裏切ったことにはならなかった。


 冬の初め、ユディトがオーブへ来た。

 彼女の荷物は、私が最初に家出したときよりずっと多かった。

「準備がよいのね」

 私が言うと、彼女は私の靴を見た。

 厚い底の冬靴だった。

「奥様も、学ばれました」

 私は笑って彼女を抱きしめた。

 姉の子は無事に学校へ通い始めたという。

 私は話を聞き、彼女は海を見た。

 最初の一言は、思ったより寒い、だった。

 私たちは温かい魚の汁を食べた。

 玉葱は、以前より小さく切れていた。

 夫が少し誇らしげだったので、私はユディトへ誰が切ったか教えた。

「お上手になりましたね」

 彼女が言う。

 夫は真面目に礼を言った。

 宮廷で褒められるときより、嬉しそうに見えた。


 ロベールも、約束どおり訪ねてきた。

 彼は家へ入るなり、流しを見た。

「なるほど」

 それだけ言った。

 私たちは笑った。

 庭で茶を飲み、王都の屋敷の話を聞いた。

 庭の木は元気で、机もそのままだという。

 夫はほっとした顔をした。

 私は、残してきたものが待っていることを嬉しく思った。

 でも、戻らなければ守れないとは思わなかった。

 それぞれの場所に、それぞれの人がいる。

 私たちはその間を、自分で選んで行き来できる。

 母の小箱も、王都へ戻ったときに受け取った。

 中には古い耳飾りと、歌の切れ端と、私が子どものころ描いた絵が入っていた。

 海の絵ではない。

 父と母と私が、家の前に立っている絵だった。

 母は、それを取っておいた。

 私は小箱をオーブへ持ってきて、自分の机へ置いた。

 母の家は、一つではなかったのだと思う。

 私の家も、もう一つではない。


 春が近づくころ、私たちは借家をもう一年使うことにした。

 窓は直った。

 庭の塀も直した。

 台所の棚は、私たちの使いやすい高さになった。

 家主は花壇を作ってもよいと言ってくれた。

 私は白い花を植えた。

 夫は最初、間隔を測りすぎた。

「少しずれていても咲きます」

 私が言うと、彼は定規をしまった。

 私は水をやりすぎた。

 夫が何も言わずに見ていたので、自分で気づいた。

 二人とも、万能にはならなかった。

 それが、よかった。

 失敗するたびに相手へ何もかも任せるのではなく、笑って、聞いて、次に少し変える。

 私たちの家は、そういうふうにできていった。


 家出からちょうど一年が過ぎる朝、卵は二つ茹でられていた。

 木の卵立てへ、一つずつ。

 木の匙には、相変わらず鷺に見えにくい鳥が彫られている。

 窓から海が見えた。

 食卓の向こうの壁には、ルーセの祭りで描いてもらった絵がある。木炭の私たちは、一年前のまま笑っていた。今の夫は、あの絵より少し日に焼けた。私の髪も、潮風で以前より結び目が緩い。次の絵を描いてもらう場所は、まだ決めていなかった。

 私は椅子へ座り、夫を待った。

 待つことが、全部嫌いになったわけではない。

 彼がどこにいるか知っている。

 今は庭で、倒れた花の支えを直している。

 扉が開いた。

「遅くなった」

 夫が言った。

「まだ、温かいです」

 私は答えた。

 彼は手を洗い、向かいへ座った。

 私たちは卵の殻を割った。

 私は少し柔らかい黄身を食べ、夫は固めのものを食べた。

 違う好みが、同じ卓へ並んでいた。

「今日は、何をする?」

 夫が聞いた。

「浜を歩こうかと」

「一人で?」

 私は彼を見た。

 あの南門でも、同じことを聞かれた。

 私は少し笑った。

「あなたは、何をなさいますか」

「午前中に、一通返事を書く。あとは空いている」

「では、終わったら一緒に」

「ああ」

 約束ができた。

 卵は、冷める前になくなった。


 夫が手紙を書いている間、私は自分の机へ向かった。

 ユディトから、姉の子が海を見たがっていると聞いたので、夏に招く手紙を書く。

 母の小箱の隣に、貝殻が二つある。

 母にもらったもの。

 自分で拾ったもの。

 私はその間へ、去年の旅費の手帳を置いた。

 頁を開くと、最初の予定が残っている。

 十日間で、母の故郷へ。

 宿の名と、馬車の時刻が隙間なく並ぶ。

 線が引かれ、書き直され、端に小さな字が増えていた。

 魚の日。

 星見台。

 白い花。

 夫の借金、という見出しには線が引いてあり、旅費、と直してある。

 魚一匹分の貸し借りは、まだ消していない。

 夫が、元金を残してくれと言ったからだ。

 私は笑って手帳を閉じた。

 そのとき、机の奥に白い紙を見つけた。

 一年前、夫へ置いていった手紙の控えだった。


 十日ほど、オーブの海へ行ってまいります。

 お身体を大切になさってください。


 私はしばらくその文字を見た。

 あのときの私は、心配してほしいとも、追いかけてほしいとも、書けなかった。

 書けないまま、家を出た。

 それでよかったのだと思う。

 上手く言えるようになるまで待っていたら、ずっと出られなかったかもしれない。

 でも今は、別の手紙が書ける。

 私は小さな紙を取った。


 マティアスへ。

 浜へ行く前に、市場へ寄りたいです。

 杏の菓子があるそうなので。

 一緒に行きましょう。

 イレーヌ


 書き終えて、笑ってしまった。

 隣の部屋へ行けば、言えることだった。

 私は紙を持って立ち上がった。


 夫は、ちょうど封を終えたところだった。

「終わった」

 彼が言った。

 私は紙を渡した。

 夫は読み、顔を上げた。

「もちろん」

「手紙にするほどでは、ありませんでした」

「取っておく」

 彼は丁寧に畳み、自分の机の引き出しへ入れた。

 私はその動作を見て、少し胸が熱くなった。

「では、参りましょう」

「ああ」

 玄関で靴を履いた。

 私は丈夫な茶色の靴。

 夫は歩き慣れた靴。

 青い靴は、庭へ出るために棚へ置いてある。

 夫が外套を取ってくれた。

 私は彼の青い紐を整えた。

 もう、ほとんどねじれない。

 少しだけ残った癖は、そのままにした。

 扉を開けると、海の風が入ってきた。

 夫が手を差し出した。

 私は取った。

「今日は、ついていっても?」

 彼が聞いた。

 私は笑った。

「ついてくるのではなく、隣へ」

 夫は頷き、私の隣へ並んだ。

 門を出る。

 市場へ向かう道と、浜へ下りる道が分かれている。

 私たちはまず、菓子を買いに行くことにした。

 海は、そのあとでも待っていてくれる。

 私は夫の手を握り直した。

 彼も握り返した。

 今日は二人とも、帰る家を知っていた。


 完


お読みいただきありがとうございます。

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