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政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください  作者: 星舟能空


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第03話 一泊ぶんの失敗

 ミレンヌには、予定より一刻遅れて着いた。

 原因は鶏だった。

 正しくは、途中で籠から逃げた鶏を、乗客全員で追いかけたためである。鶏は驚くほど足が速い。夫は馬を降りて挟み撃ちにしようとしたが、相手は垣根の下を潜り、髭の商人の足の間を抜けた。

 捕まえたのは、売店の娘だった。

 パン屑を撒いてから、実に無造作に両翼を押さえた。

 夫も私も、あの場では何の役にも立たなかった。

 その事実を思い出すたび、窓の外の夫の綺麗な騎乗姿が、少し面白く見えて困った。

 石造りの時計塔の下で、乗合馬車を降りる。

 足を地面へ着けた瞬間、右の踵が痛んだ。

 青い靴の革が、朝より硬くなっている気がする。

「荷物を持とう」

 馬を引いた夫が近づいてきた。

「自分で持てます」

「片手が空いている」

「私も二つあります」

 夫は私の鞄と、空いているほうの手を順に見た。

 何か言いかけたが、やめた。

 私も、可愛げのない返事だと思った。

 だけど、夫の手へ何でも渡してしまったら、今度は私の歩く先まで決められそうな気がした。実際に決められたことはない。誰かに決められるのに慣れすぎて、夫の親切まで疑っている。

 そんなことは自分で分かっている。

 分かっていても、足が痛いと人間は寛大になれない。

「宿はこちらです」

 旅行案内から写した地図を取り出した。

 ミレンヌは街道の交差点にある町だ。宿は七軒。その中で、湯を使える部屋があり、寝具が清潔で、女の一人旅にも勧められる、と書かれた宿を選んだ。

 白鷺亭。

 時計塔から東へ二本目の路地。

 路地には、板が打ち付けられた窓が並んでいた。

 私は地図を見た。

 夫は通りの角を見た。

「白鷺という看板はある」

「ええ」

「閉まっているようだ」

「定休日かもしれません」

 宿に定休日があるのか、自分でも知らなかった。

 扉の貼り紙を読む。

 屋根の修繕中につき、春の終わりまで休業。

 今日は春の真ん中だった。

 私は地図を畳んだ。

「別の宿へ参ります」

「予約は?」

「取りませんでした。案内に、常時十室と」

「そうか」

 夫はそれ以上言わなかった。

 責められないのに、失敗だけが確かにそこにある。

 次の宿は、毛織物市の客で満室だった。

 三軒目も満室。四軒目は馬を繋ぐ場所がなく、五軒目は一室空いているが、先ほど具合の悪い客が帰ったばかりで掃除が済んでいないという。

 夫が待てるか尋ねると、女将はためらってから、客が吐いたのだと付け加えた。

 私は六軒目へ向かった。

 右の踵だけでなく、左の小指も痛くなっていた。

 夫は何も言わずについてくる。

 その足音が綺麗に一定なので、余計に腹が立つ。馬に乗ってきた人の足は元気なのだ。

「少し休もう」

「宿を決めてから」

「歩き方が変わっている」

「もともとこういう歩き方です」

「違う」

 即答だった。

 私は止まった。

「御存じなのですか」

「何を?」

「私の歩き方を」

 夫は困ったように眉を寄せた。

「舞踏会でも、廊下でも見ている」

 そうなのか。

 私は、自分が見られていると思っていなかった。

 夫はいつも、誰かに呼び止められている。私も誰かを案内している。遠くにいて、同じ部屋にいない日より話さない夜がある。

 それでも、見ていたのか。

「いつもはもっと、急いでいる」

 甘い意味ではなかった。

 私は少し笑い、少し情けなくなった。

「靴が当たるだけです」

「座れる場所を探そう」

「宿を」

「その宿まで歩けなくなる」

 夫は鞄へ手を伸ばさなかった。

 代わりに広場の屋台を指した。

「あそこで水を買う。私が喉が渇いた」

 断る理由がなくなった。

 私たちは屋台の脇の長椅子へ座った。

 夫は水を二杯買おうとして、また財布へ手を入れた。

 私は銅貨を出した。

「金貨の御威光が、ここでも通じないようです」

「借りる」

「帳面を付けましょうか」

「つけてくれ」

 真面目に言うので、本当に付けることにした。

 旅行用の小さな手帳を開く。最初の頁には十日分の日程が、隙間なく書いてある。

 次の頁に、夫の借金、と書いた。

 夫が横から覗いた。

「大きな字だな」

「見落としませんように」

「合計は?」

「銅貨五枚。卵の代金は未定です」

 水は少しぬるかった。

 それでも美味しかった。

 私は靴を脱ぎたいのを我慢して、膝の上で指を動かした。夫が私の視線を追い、踵を見る。

「薬屋はすぐそこにある」

「靴擦れくらいで」

「十日間ある」

 その言葉は効いた。

 今日だけ我慢するのは得意だった。でも、海へ着くまでずっと痛いのは嫌だ。

 私は頷いた。

「では、お願いいたします」

 夫が立った。

「あの、マティアス様」

「ああ」

「お金」

 私は銅貨を渡した。

 夫は受け取り、少しだけ肩を落とした。

 行く先を見送っていると、屋台の女が私の空の杯を取った。

「新婚さん?」

「半年です」

「じゃあ、新婚だ」

 私もそう思っていた。

 たぶん半年くらい前には。

「宿をお探しなら、羊の鈴亭へ行きな。市場から離れてるけど、妹のところだから、部屋がなけりゃ客間を開けるよ」

「よろしいのですか」

「お金は取るよ」

「もちろんです」

 女は笑い、通りを教えてくれた。

 旅行案内には載っていない宿だった。

 夫は薬と布を持って戻ってきた。

「釣りだ」

 私の手のひらへ銅貨を二枚置く。

 借金に含めるべきか迷っていると、彼は袋の中から、もう一つ包みを出した。

「こちらは私の分」

「何です?」

「軟膏」

「お怪我を?」

 夫は一拍黙った。

「久しぶりに、長く馬へ乗った」

 私は夫の顔を見た。

 そのまま、下へ視線を落としかけた。

「見る必要はない」

「見ません」

 笑ってはいけない。

 今度ばかりは、本当に笑ってはいけない。

 私は空の杯を口元へ運びかけ、もう水がないのを思い出した。


 羊の鈴亭には、部屋が一つ空いていた。

「大きい寝台が一つ。湯は夕食の前に運ぶよ」

 女将は鍵を卓へ置いた。

 私は鍵を見た。

 夫も鍵を見た。

「二人部屋ですか」

「そう言ったでしょう」

「長椅子は?」

「あるけど、寝られる長さじゃないよ」

 夫は背が高い。

 私はそこまで高くない。

 どう計算しても、私が椅子へ寝るほうが合理的だった。

 しかし、自分からそう言う前に夫が口を開いた。

「私は床でいい」

「よくないよ」

 女将の返事は速かった。

「隙間風が入るからね。明日の朝、腰が曲がらなくなる。奥さんを守って格好をつけたいんなら、ほかでおやり」

 夫が閉口した。

 私は、とうとう笑った。

 女将がこちらを見たので、咳払いでごまかす。

「夫婦ですので、そのお部屋をお願いいたします」

「そうかい。仲直りは食べてからにしな」

 喧嘩をしていると判断された。

 違います、と言いかけた。

 違わないのかもしれない。

 私たちは鍵を受け取り、階段を上った。


 部屋の寝台は、確かに大きかった。

 天蓋はない。白い上掛けの縁に、緑の細い刺繍がある。窓の下には短い長椅子、反対側には水差しと洗面器。壁に掛かった絵は羊だった。

 夫が馬を預けに行っている間に、私は靴を脱いだ。

 踵が擦りむけていた。

 ユディトの言うとおりだった。

 鞄から替えの靴下を出し、その間に彼女が薄い布を挟んでくれていたのを見つける。

『靴を恨む前にお使いください』

 小さな紙に、そう書いてあった。

「もう恨んだわ」

 独り言を呟いて、傷を洗った。

 扉が叩かれる。

「どうぞ」

 夫が入ってきて、裸足の私を見るなり止まった。

 私も止まった。

 宮廷なら、裾を持ち上げた素足は見せない。夫婦の寝室なら、たぶん見せてもよい。

 だが私たちに、夫婦の寝室はなかった。

 婚礼の夜は、夫が翌朝の迎賓式のため夜半に呼ばれた。別室が整えられ、それを変えるきっかけがないまま半年が過ぎた。

 嫌われているとまで考えたことはない。

 ただ、求められてもいないのだと思っていた。

 婚礼の日、私は夫の好みを一つでも知ろうとしていた。

 花嫁の控室には、新しい寝間着が用意されていた。胸元のレースが少し透けていて、ユディトへ見せられたときには、慌てて畳み直した。

 嫌だったのではない。

 期待していると思われるのが恥ずかしかった。

 期待は、していた。

 それまで何度か会ったマティアスは、私の話を遮らず、挨拶のときには必ず目を見た。夫になるなら、きっと穏やかな人だろうと思った。

 花嫁の部屋へ彼が来たとき、私は立ち上がった。

 彼は少し疲れた顔をしていたが、私を見ると微笑んだ。

『長い一日だった』

『はい』

『足は痛くないか』

 今と同じことを聞いた。

 私は大丈夫だと答えた。婚礼用の靴は痛かったが、それより別のことで胸がいっぱいだった。

 夫は私の前へ座り、指輪を見た。

『大きさは、合っている?』

『はい。ありがとうございます』

 彼の手が私の手へ近づいた。

 私は指を少し開いた。

 触れる前に、扉が叩かれた。

 翌朝の迎賓式で変更があり、どうしても確かめたいことがあるという。

 夫は扉を見て、私を見た。

 私は微笑んでしまった。

『どうぞ。大事なお仕事でしょうから』

 よい妻の最初の返事が、それだった。

 夫はすまないと言って出ていった。

 私も、その返事でよいのだと思った。

 新婚の夜に仕事を優先する夫へ理解を示せば、いつか私を優先する夜が来るのだと、何となく信じていた。

 その夜は、来なかった。

 彼は二刻後に戻り、私が眠っていると思って隣の部屋へ入った。

 私は目を閉じていただけだった。

 起きています、と言えばよかったのかもしれない。

 でも、寝間着の襟を握ったまま、声が出なかった。

 翌朝、夫は早く出た。

 部屋には小さな白い花が届いた。

 私はそれを嬉しいと思った。思おうとしたのではなく、確かに嬉しかった。

 それから一日、夫の帰りを待った。

 白い花は数日で取り替えられ、別室で眠ることは取り替えられなかった。

 今、目の前にいる夫は、私の裸足を見て困っている。

 あの夜、私が何を待っていたか、彼は知らないのだろう。

 私も、彼がどんな顔で別室の扉を閉めたのか、知らない。

「婚礼の靴も、痛かったです」

 気づくと、そう言っていた。

 夫が顔を上げた。

「あの日?」

「はい。大丈夫だと申し上げましたが」

 彼はしばらく黙っていた。

「ほかにも、あるのだろうな」

 小さな声だった。

 私は返事をしなかった。

 今、全部を並べたら、責めるための旅になってしまう気がした。

 でも、何もなかったことにもしたくない。

「少しずつ、お話しします」

 私は言った。

 夫は頷いた。

「聞く」

 それから、私の手の中の薬の瓶へ目を向けた。

「痛むか」

「見た目ほどでは」

 夫は近づくと、椅子をこちらへ引いた。

「座っても?」

「はい」

 彼は座り、私の足を見ないように顔を少し上げた。

 その不自然さに、かえって頬が熱くなる。

「見ても構いません。怪我ですから」

「そういう問題では」

「では、どういう?」

 聞いてから、自分が意地悪をしたと気づいた。

 夫は私を見た。

「あなたが、困るかと思った」

 私は返す言葉を探した。

 薬の蓋が開けにくい。指先が滑る。

 夫が手を差し出した。

「それは、貸してくれ」

 私は瓶を渡した。

 彼は簡単に開け、私へ返した。

 鞄は断った。同行も断った。なのに薬の蓋を開けてもらうと、素直にありがたかった。

「ありがとうございます」

「こちらこそ。宿を見つけてもらった」

「最初の宿は閉まっていました」

「今、泊まれる」

 それでよいのか。

 私は軟膏を指へ取り、踵へ薄く塗った。

 冷たさが沁みた。

「明日は、もっと歩ける靴を買います」

「私も銅貨を用意する」

「金貨を崩してください。買うものではありません」

「分かっている」

 夫は少し笑った。

 私は足へ布を巻きながら、旅の一日目に、すでに予定外のことがいくつ起きたか数えた。

 夫が来た。

 鶏を追った。

 宿が閉まっていた。

 足を痛めた。

 夫と同じ部屋へ泊まることになった。

 最後の一つを、失敗の欄へ入れてよいのか分からなかった。


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