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政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください  作者: 星舟能空


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28/30

第28話 置いていくもの

 海辺の家が決まるまで、一月かかった。

 私たちはその間、王都で暮らした。

 劇的ではない日々だった。

 朝食へ二人で座れた日もあれば、夫が早く出る日もあった。その日は前の晩に聞いた。私は一人で卵を食べ、昼に友人へ会いに行った。

 夕食へ戻れない日には、手紙が届いた。

 短いものだった。

 遅くなる。食べていてほしい。

 私は先に食べた。

 戻った夫へ、今日の菓子を一つ残しておいた。

 その程度のことが、以前はできなかった。

 私たちは少しずつ、旅の外で暮らす練習をした。


 オーブから届いた家の絵には、窓が三つあった。

 白い壁と、灰色の屋根。

 台所の窓から海が見える。

 庭は小さく、塀の一部を直す必要がある。

 流しは広いと、女将がわざわざ書いてくれた。

 夫はその一文を読んで頷いた。

「よい家だ」

「まだ御覧になっていません」

「大事な条件は、一つ満たした」

 私は笑った。

 家賃は、最初に考えていたより少し高かった。

 けれど波明かり亭から近く、町の店へ歩いて行ける。

 私たちは最初の夏を借りることにした。

 買うのは、それから考える。

 冬の風を知らないまま、一生を決めない。

 その慎重さを、私は臆病だとは思わなかった。

 長く好きでいたいから、よく知りたかった。


 荷造りの日、ユディトが空の箱を五つ持ってきた。

「多くない?」

「今回は、一月以上の御滞在ですので」

 確かに。

 家出の鞄一つで暮らし続けるわけにはいかなかった。

 私は服を選び、本を選んだ。

 宝石箱の前で、少し迷った。

 どれも高価で、持っていけば安心な気がする。

 でも、全部必要とは思えなかった。

 母の小さな耳飾りと、婚礼の指輪だけを選んだ。

 指輪はすでに指にある。

 私はそれを見て笑った。

「持っていくか、迷うまでもありませんでした」

 ユディトも微笑んだ。

「旦那様は、書籍でお困りです」

「全部、持っていくおつもり?」

「そのように見えます」

 私は夫の書斎へ行った。

 床に本が積まれていた。

 海辺の小さな家の、寝室一つ分くらいありそうだった。

「マティアス」

「減らしている」

 先に言われた。

 私は笑った。

「本棚を、家の大きさに合わせてください」

「分かっている」

 彼は一冊を取り、別の山へ移した。

 私は表紙を見た。

 外交の古い記録だった。

「お仕事の本?」

「あれば、役に立つかもしれない」

「なくても、困らないかもしれません」

 夫は少し黙り、本を置いた。

「確かに」

 最後に残ったのは、星図と、地図の本が数冊、それから私たちが旅で買った詩集だった。

 私はその山を見て頷いた。

「それなら」

「あなたの歌の本も入れた」

「ありがとうございます」

 私たちは箱を閉じた。

 必要なものを選ぶことは、好きなものを全部否定することではない。

 また戻って読める本もある。

 そう思えるだけで、箱は少し軽くなった。


 祭りの絵には、もう額が付いていた。

 会食の翌日、私たちは小さな店で選んだ。金の飾りも、家の紋章もない、細い木の額だった。

 私はそれを布で包み、箱へ入れようとした。

 夫が手を伸ばした。

「それは、馬車の中へ」

「割れますか」

「少し心配だ」

 私は頷き、手荷物のほうへ移した。

 壁には、婚礼の肖像画が掛かっている。

 立派な衣装を着た私たちが、立派な顔で並んでいた。

 私は二枚を見比べた。

「こちらも、綺麗です」

 私は婚礼の絵を見て言った。

 夫が頷いた。

「ああ」

「あの日は、よい夫婦になりたいと思っていました」

「私も」

 私は夫を見た。

 彼は絵の中の自分を見ていた。

「何も困らせない夫になれば、よいのだと思っていた」

「私は、困っていない妻の顔をしていました」

 夫が小さく息を吐いた。

 私は彼の手へ触れた。

「でも、あの日の私も、嘘ばかりではありません。嬉しかったですから」

 夫がこちらを向いた。

「私も、嬉しかった」

 その答えを、私はもう疑わなかった。

 最初から何もなかったのではない。

 小さくあったものを、二人で見る時間がなかった。

 私は婚礼の絵を残し、祭りの絵を抱えた。

「次に絵を描いてもらったら、また違う顔になるのでしょうね」

「白髪が増えるかもしれない」

「そんなに先まで、描かないおつもりですか」

「途中でも、描こう」

 私は笑った。

 夫は祭りの絵の包みを、鞄の上へ置いた。

 角がぶつからないように、柔らかい布を挟む。

 彼がそこまで大事にすることが、たまらなく嬉しかった。

「あのとき、別の部屋が残念だったとおっしゃいましたね」

 私は尋ねた。

「覚えている」

「なぜ、残念だったのですか」

 夫が私を見た。

 分かっていて聞いていると、見抜いた顔だった。

「あなたと、もう少し話したかった」

「それだけ?」

「それだけではない」

 私は満足して頷いた。

 夫が笑い、私の腰へ腕を回した。

「今も、荷造りを止めたいと思っている」

「ユディトが戻ってきます」

「では、今夜」

 私は彼の胸へ軽く額を寄せた。

 婚礼の絵の私たちには、まだこんな会話はできなかった。

 祭りの絵の私たちにも、できなかった。

 次の絵には、今の顔が残るのだろう。

 私はそれを、楽しみに思った。


 夫は、父の机を残した。

 大きく、重い机だ。

 子どものころ、下へ潜って遊んだことがあるという。

 私は書斎の入口から、その机を見た。

「寂しくありませんか」

「少し」

 夫は木の縁へ手を置いた。

「でも、持っていけば父を連れていけるわけではない」

 私は頷いた。

 母の家を見た日を思い出した。

 同じ家に、別の暮らしが続いていた。

 夫の父の机も、ここに残ってよいのだろう。

 私たちの新しい卓は、海辺で選べばよい。

 夫がこちらを向いた。

「あなたの長椅子は?」

「残します」

「気に入っていただろう」

「はい。でも、あそこで待つ時間は、あまり好きではありませんでした」

 夫は少し目を伏せた。

 私は彼の手へ触れた。

「戻ってきたら、今度は二人で座ります」

 彼が頷いた。

 残すものにも、新しい使い方があってよかった。


 出発の前日、叔父から小さな包みが届いた。

 中には、古い鍵が一本入っていた。

 母が使っていた小箱の鍵だという。

 父の遺品を整理したときに見つかり、そのままになっていたらしい。

 手紙は短かった。

 必要なら取りに来なさい。

 それだけ。

 謝罪はなかった。

 私は鍵を指の上で転がした。

 叔父が急に別人になるわけではない。

 私も、すべてを許したわけではない。

 でも、母の小箱を受け取るために訪ねることと、また何でも引き受けることは別だった。

 私は礼の返事を書いた。

 次に王都へ戻ったとき、受け取りに伺います。

 それ以上は書かなかった。

 夫が隣で見ていた。

「行くときは、一緒に?」

「はい。お時間が合えば」

「合わせる」

 私は笑った。

 心強かった。

 でも、その手紙を書くのは私だった。


 最後の夜、屋敷の食堂に皆が集まった。

 大きな送別の会ではない。

 料理人が少し多く菓子を焼き、ロベールが酒を一本開けた。

 海へ来る者も、王都へ残る者もいた。

 ユディトは冬から来る。

 しばらくは、彼女が紹介してくれた年上の女中が手伝うことになった。海辺の町の出身で、親類へ会えるのを楽しみにしているという。

 私たちの都合だけで、皆の人生を並べ替えずに済んだことが、嬉しかった。

 夫は一人ずつ礼を言った。

 私は料理人へ、魚の煮込みの作り方をもう一度教えてもらった。

「奥様、塩は最後に」

「はい」

「旦那様、玉葱はもう少し小さく」

「承知した」

 食卓に笑いが起きた。

 ロベールが、海へ行く荷箱へ小さな包みを足した。

「朝食用に」

 開くと、木の卵立てが二つ入っていた。

 私は言葉を失った。

 銀ではない。

 海辺の小さな卓へ、よく似合いそうだった。

「ありがとうございます」

 声が少し震えた。

 夫も礼を言った。

 私たちは卵立てを、木の匙と一緒に包んだ。


 翌朝、正面玄関から出発した。

 裏門ではなかった。

 鞄は一つではなく、箱もある。

 置手紙もない。

 行き先も、帰る時期も、家の皆が知っている。

 それでも、胸は家出の朝と同じように高鳴った。

 ユディトが私を抱きしめた。

「お手紙を」

「ええ。食べ物の話を」

「旦那様の失敗も、少し」

 夫が聞こえたらしく、こちらを見た。

「選んで書いてくれ」

 私は笑った。

 馬車へ乗る。

 夫が隣へ座る。

 屋敷の扉が遠ざかった。

 私は窓から手を振った。

 ロベールたちが見えなくなっても、寂しさだけにはならなかった。

 残したものがある。

 持っていくものがある。

 隣には、同じ行き先を選んだ人がいた。


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