第01話 冷めないうちに家を出る
家出の日も、卵は二つ茹でられていた。
一つは私の皿へ。一つは向かいの、誰も座っていない席へ。
銀の卵立てに腰を落ち着けたそれを見て、私は今日は食べてしまおうと決めた。
「旦那様の分ですが」
ユディトが指摘する。
「ええ。これから家を出る妻ですもの。卵くらい盗みます」
「追加で茹でさせます」
「そこは見逃してちょうだい」
私の侍女は、一瞬だけ唇の端を上げた。よく磨かれた銀の匙を、私の右手へもう一本並べてくれる。
向かいの席の卵を取った。
まだ温かい。
夫の朝食は、いつも冷めてから片づけられていた。婚姻して半年。小さな食堂を二人で使ったのは、初めの二週間に三度、それからずっと後に一度。その一度は宮廷から急使が来て、夫がパンを半分に割ったところで終わった。
だから卵を二つ食べる妻が何を考えているか、マティアス・フェルディン様が心配する必要はない。
そもそも見ていない。
「馬車は?」
「辻馬車を裏門へ。御者には南の乗合馬車場までと」
「ありがとう。あなたの姉上のところへは、お昼には着ける?」
「先ほどから、私の休暇ばかり心配なさいますね」
「あなたには、ちゃんと楽しい休暇を取ってほしいの」
「奥様にもです」
その言い方がひどくきっぱりしていたので、私は卵の殻を叩き損ねた。
殻に白い亀裂が走った。薄い膜を剝がす。こういう細かいことは、いつも人が済ませておいてくれる。私はほかの人が済ませたことを受け取り、今度は別の誰かのために、笑顔と予定を整える。
昨日もそうだった。
東の客殿の女主人が風邪を引いたため、外国使節の夫人たちを案内した。王太后様の慈善会で挨拶をするはずだった従姉が、頭痛のため私へ役を譲った。夜には王弟殿下の音楽会へ行き、王族用の椅子が余らぬよう、にこやかに座った。
音楽会の終わり、叔父に言われた。
『お前は本当に便利だ。どこへ出しても恥をかかん』
褒め言葉なのだろう。
そのあと、叔父は私の手へ扇を一本載せた。従姉が客殿へ忘れていったものだから、明日届けるようにと。
私は扇を受け取った。
「明日から留守にしますと、お伝えしたはずですが」
「海へ行く話か。あれは、また日を改めればいい」
「休暇の届けを」
「紙の話ではない。皆の都合があるだろう」
音楽会の出口では、人々が別れの挨拶を交わしていた。従姉はすぐそばにいて、別の女性へ腕を絡めている。
扇を持っていけば、その場で返せた。
でも彼女はすでに私へ背を向け、馬車寄せへ進んでいた。
私は二人のあとを追った。
「お忘れ物です」
扇を差し出すと、従姉は驚いた顔をした。
「明日でよかったのに」
「今、お渡しできますから」
「明日いらしたら、お昼の席も相談できたでしょう」
そのとき私は、扇を届ける用事が扇だけではないと知った。
家へ行けば、そのまま客を迎える話になる。席を確かめ、花を選び、足りない料理を相談する。帰ろうとするころには、当日もお願いね、と言われる。
その順番を、私はよく知っていた。
「明日は参れません」
私は扇を彼女の手へ置いた。
従姉の笑顔が少し薄くなった。
「イレーヌは、ずいぶん早く新婚を楽しみ始めるのね」
半年前に結婚した妻へ、早いと言った。
私は何と返すべきか、分からなかった。
彼女は私が夫と旅行へ行くと思っていたのだろう。新婚の楽しみなら、家の用事より軽いものとして後へ回せる。
一人で行くと説明すれば、また別の理由で軽くされそうだった。
その向こうに、夫が見えた。
マティアスは外国の客へ、王都の建物の説明をしていた。客の一人が熱心に尋ね、夫は柱の飾りを指して答えている。
その横顔は、楽しそうだった。
私は少し足を止めた。
あんなふうに好きなことを話す時間が、夫にもある。
それが嬉しくて、同時に、自分とはそんな顔で話してくれないことが寂しかった。
私が近づこうとすると、宮内府の者が夫の袖へ触れた。
「次のお客様が」
夫の表情が整った。
笑みが、誰へでも向けられる形になる。
彼は客へ一礼し、別の出口へ向かった。
私には気づかなかった。
私はその場へ立ったまま、さっきまで手にあった扇の感触を思い出していた。
夫も私も、人に会っている。
なのに、お互いには会えない。
馬車へ乗るとき、従者が夫を待つか尋ねた。
「いいえ。先に帰ります」
私は答えた。
帰ったあとで、机の上にある旅の鞄を開いた。
服を一枚足し、すぐ取り出した。重くなるからではない。迷いを増やしたくなかった。
扇は返した。
休むと伝えた。
それでも出られないのなら、何を済ませれば出られるのだろう。
明日の私にまで、その問いを残したくなかった。
私は王位を争うほど血が濃くなく、王家と無関係だと言えるほど血が薄くない。適度に高貴で、適度に暇だと思われている。嫁いだ夫もよく似た位置にいた。
夫は二十八歳だった。年齢のわりに落ち着いているとよく褒められるが、疲れて黙っている夜まで落ち着きに数えられているのではないかと、私はときどき思う。四歳年下の私も、愛想よく黙っていれば、思慮深い妻として褒められた。
実際には、二人とも暇ではない。
自分たちのことをする時間がないくらいには。
朝食室の扉が開き、家令のロベールが銀盆を持って入ってきた。もう八時なのに、まだ朝の用事が届く。
「宮内府より、奥様へ」
銀盆には封書が三つ載っていた。
「明日の庭園の昼食会でしょうか」
「そちらと、王妃陛下のお茶会、それから本日の出迎えについてです」
「本日?」
「急に御都合がお変わりになったとのことで」
私は封筒を取らなかった。
代わりに夫の卵を食べた。
塩を少し振りすぎた。
「お断りしてください」
「……三件ともでございますか」
「はい」
ロベールは盆を水平にしたまま動かない。こちらが冗談だと言うのを待っているのではない。私の体調を測っているのだ。熱がある、あるいは頭痛がする、それなら理由が付く。
私は健康だった。
寝不足ではあるけれど、顔色も悪くない。朝食の卵を二つ食べた。
「以前お伝えしたとおり、今日から十日間、休みます。宮内府にも届けを出しました」
「はい。お控えは書斎にございます。ただ、ご旅行の御許可について、正式なお返事がまだ」
「旅行を願い出たのではありません。欠席をお知らせしたのです」
自分で言って、少しだけ胸が鳴った。
こういう物言いをする女性を、私はいくらでも知っている。声を荒らげず、当然のこととして人を待たせる。彼女たちの代わりを私は何度も務めた。
だったら一度くらい、本人から学んでもよいだろう。
「御用がありましたら、十日後に伺います」
「旦那様は御存じで?」
痛いところを突かれた。
「お手紙を書きました」
「御返事は」
「今日はお手紙を机に置きました」
ロベールが、盆の上の封書へ視線を落とした。
分かっている。よい妻なら、先に夫の了解を得るべきなのだ。
先週から三度、話そうとした。一度目は夫が帰らず、二度目は私が起きていられず、三度目は夫の従者が、これから至急のお話があると私の言葉に被せた。
そのとき夫は私へ顔を向け、確かに「明日、聞く」と言った。
翌日の夜、私が待っていた居間には、夫の好きな渋い紅茶が届いた。
夫は届かなかった。
「反対されたわけではありません」
言い訳に聞こえて、私は少し腹が立った。夫ではなく、自分に。
馬車を手配した。着替えも詰めた。お金も確かめた。なのに最後の最後で、私はまだ、誰かが許したから出ていく人間であろうとしている。
匙を置いた。
「ロベール。私は海を見に行きます」
「はい」
「母の生まれた町に、まだ行ったことがないので」
「承知しております」
「では、それだけで十分でしょう」
家令の目が少し和らいだ。
「お帰りまで、お部屋を整えておきます」
彼は、どうぞとは言わなかった。
帰ってくる場所を用意すると言った。
それで、喉の奥が急に狭くなった。
旅支度は寝室の長椅子に収まっていた。
濃紺の旅行着。上から羽織る薄い灰色の外套。小さな鞄が一つ。
ユディトには何度も、少なすぎると指摘された。私は着替えを三組に絞った。宮廷へ行くのでなければ、同じ服を二度着ても王家の面目は潰れまい。
「その靴ですか」
侍女の目が、床の青い靴に止まった。
「歩ける靴よ」
「御庭なら」
「底も低いわ」
「御庭の靴ですから」
青い革に、飾りのない銀の留め具。華美ではないし、踵もない。旅行の本に、踵の低い靴を選べとあったので買ったばかりだった。
「革が柔らかいほうがいいと思ったの」
「下から石が当たります」
「では次に買うときは、底を見ます」
ユディトは私を見た。もう止めない、と判断した顔だった。
代わりに靴下をもう一足、鞄へ押し込んだ。
「姉のところへ手紙を送ってください。屋敷宛てですと、私より先に皆様がお読みになるでしょうから」
「毎日?」
「毎日でなくて結構です。美味しかったものをお書きください」
「助言ではなく、注文ね」
「お帰りになりましたら、料理人に渡します」
旅先での私が、帰ったあとの私に何か食べさせる。
その考えは気に入った。
私は鏡を見た。暗い栗色の髪は、ユディトが編んで後頭部へ留めてくれた。耳飾りを外した顔は、いつもより少し若く見えた。二十四歳なのに、年下の親戚たちの母親のように席を回ることが多いせいだろうか。
胸元へ手を入れ、小さな貝殻を確かめる。
母がくれたものだった。
薄紅色の内側に、真珠のような光が残っている。母の故郷の海には、この殻を落とす貝がたくさんいるという。
『朝、砂浜を歩くと見つかるの。まだ誰も踏んでいないところに』
母は王都で暮らし、王都で死んだ。
私へ海の話をたくさんしたのに、最後まで帰らなかった。
帰れなかったのかもしれない。
彼女の娘は、少なくとも今日、帰れなくなる前に出発する。
鞄を持ち上げると、想像より重かった。
「お持ちします」
「裏門までは自分で持つわ」
「では裏門で一度、お預かりします」
「どうして」
「門を開けますので」
なるほど。そういう協力は必要だった。
私たちは部屋を出た。
廊下の向かいに夫の寝室がある。扉は閉まっていた。夜明け前に帰宅したらしい。寝ているなら起こさないで、と私は言った。
そのせいで、最後まで会えなかったのだ。
置手紙は夫の書斎に置いた。
何度も書き直したが、結局、短くなった。
マティアス様
十日ほど、オーブの海へ行ってまいります。
宮内府へは欠席の届けを出しています。
お身体を大切になさってください。
イレーヌ
追伸を書こうとして、やめた跡があった。
何を書きたかったのか、自分でもよく分からない。
ご心配なく、ではない。心配してもらえないのも嫌だった。
探さないでください、でもない。探されるほど愛されている自信はない。
結局何も足さずに、封筒を使わないで机の中央へ置いた。
夫の書斎は整っていた。
紙の束も、ペンも、国境沿いの街道地図も、それぞれ正しい場所にある。窓際の椅子には夫の上着が掛かり、肘のあたりに皺が寄っていた。
こんな時間まで着ていたのかと思う。
私は一歩近づいて、その皺を指で押さえた。
同情していたら家出ができない。
だから上着を直して、出ていった。
裏門の先では、小柄な栗毛の馬が尻尾を振っていた。
辻馬車は、屋敷のものより狭い。馬車に紋章がないのを見て、気分が少し明るくなった。行く先々で私が誰の親戚か説明しなくて済む。
御者は鞄を受け取りながら、南の乗合馬車は九時だと言った。
「あと半刻ありますよ」
「では間に合いますね」
「混み具合にもよりますが」
それは困る。
「急いでください」
「石畳では、これ以上は」
まだ出発してもいないのに、予定表がぐらついた。
私は息を吐いて、頷いた。
「ええ。では、間に合うくらいでお願いします」
御者が笑った。ユディトも笑った。
私まで、少し笑ってしまった。
扉が閉まる。
馬車が動き始めた。
何もかも綺麗に整えてから出発するのは、無理だった。私がいなくなったあと、誰かが困る。出迎えを自分でする従姉が、文句を言う。叔父は手紙を書くだろう。
夫は、いつ置手紙を読むのだろう。
窓から身を乗り出し、屋敷を見た。
二階の窓の一つが開いた。
人影があった気がしたけれど、街路樹が視界を遮った。
私は座り直し、膝の上で両手を重ねた。
これで、よかったのだ。
そう思うまでに三つ角を二つ曲がり、そう思えなくなるまでに、夫の好きな菓子屋を一軒通り過ぎた。
私はその菓子屋の名を知っていた。
夫がどの菓子を買うのかは、知らなかった。




