第一章 帰り道と、不器用な沈黙
図書室での一件の後、僕とルクスは並んで寮への帰り道を歩いていた。
時刻は夕暮れ。茜色の光が、白亜の校舎を優しく染め上げている。いつもなら、隣を歩くルクスは完璧な姿勢のまま一切の無駄口を叩かない。しかし今日の彼は、どこか思案顔で、歩調もいつもより少しだけ遅かった。
僕たちの間には、ぎこちない沈黙が横たわっていた。
あの手紙の解読で、僕は初めて彼の論理を打ち破った。その事実が、僕と彼との間にどういう変化をもたらしたのか、僕にはまだよくわからなかった。
「……シオン」
不意に、ルクスが前を向いたまま口を開いた。
「はい」
「君のあのやり方は、非常に非効率です。無駄な情報を拾い上げすぎている。一歩間違えれば、ノイズに埋もれて致命的な見落としをするリスクがある」
淡々とした、いつも通りの厳しい指摘。
けれど、その声には以前のような見下す冷たさはなかった。
「しかし、事実として、君のその非効率な解が、先生をより深く満足させました」
ルクスは前を向いたまま、一切の躊躇なく言い切った。
「私の演算よりも、君の拾い上げたノイズの方が、はるかに正確に真実を捉えていた。……君のそのアプローチこそが、最も完璧に近い解法でした」
「ルクス……」
感情的な褒め言葉など一つもない。ただの冷徹な事実の評価。
けれど、完璧な天才である彼からのその言葉がどれほどの重みを持つか、僕には痛いほどわかった。
「ありがとう。でも、ルクスの計算の速さがないと、僕だって間に合わないことはたくさんあるよ」
僕がそう言うと、ルクスは自嘲するように小さく目を伏せた。
「計算の速度など、何の意味もありません」
彼は茜色の空を見上げ、静かに言った。
「どれほど速くとも、拾い上げるべき前提を見誤れば、決して真実には辿り着けない。……今回の私の致命的な落ち度です。修正しなければなりませんね」
いつもの自信に満ちた姿とは違う、静かで真摯な彼の横顔を見て、僕は少しだけ嬉しくなって微笑んだ。
並んで歩く足音が、石畳の上で心地よく重なる。
「ねえ、ルクス」
ふと、僕は気になっていたことを口にした。
「先生って、毎日どこから来ているんだろうね」
僕たちは寮に住んでいるけれど、先生は夕方になると必ずどこかへ帰っていく。
外の世界。僕たちが一度も見たことのない場所。
「……宿舎があるのでしょう。職員用の」
ルクスが一瞬だけ沈黙を置いてから答えた。
「でも、今日、先生の目の下にクマがあった。すごく疲れているみたいだった。外の世界って、そんなに大変なのかな」
僕が言うと、ルクスはピタリと足を止めた。
彼も、あの微かな疲労のサインには気づいていたはずだ。彼の完璧な目は、誰よりも正確に先生を捉えているのだから。
「……私たちには、外の世界を推測するのに十分な情報がありません」
ルクスの声は、どこか硬かった。
「私たちがすべきことは、先生から与えられた課題を完璧にこなし、先生の負担を減らすことだけです。それ以上の詮索は、意味を持たない」
ルクスは再び歩き出し、僕はその後を追った。
ふと、学園の敷地の端に目をやる。
そこには、僕たちの生活圏をぐるりと囲む、白く高い壁が見えた。
美しく、滑らかで、一切の継ぎ目のない不自然なほどの完璧な境界線。
あの壁の向こうに何があるのか、僕たちは誰も知らない。先生があの壁の向こうへ帰っていく後ろ姿を、僕は今までどんな気持ちで見送っていたのだろう。
ルクスは何も言わず、前だけを見て歩いている。
僕も、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、茜色に染まる空を見上げながら、先生のあの疲れた笑顔を思い出していた。
明日もまた、先生の役に立てるように頑張ろう。
僕たちはきっと、そのためにここにいるのだから。
静かで温かい、だけどほんの少しだけ見えない不安が混ざった帰り道だった。




