青いスカーフ
男の無意識な優しさは、時に毒よりも残酷に少年を蝕んでいく……。
最近話題になった、とある出来事をモチーフにしたBL短編です。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」
体を揺すられてスイニーが意識を取り戻すと、顔中髭に覆われた大柄の男が心配そうに自分を見下ろしていた。人の良さが滲み出た顔。垂れた細い目を精一杯開いて、スイニーを見つめている。
何か答えようと声を出そうとした瞬間、激痛が全身を走った。無理もない。ここにたどり着くまで無数の傷を受けたのだから。
「今、助けてやるからな」
男は首に巻いていた青いスカーフを外した。空の色に似た鮮やかな青。どうやら、太ももを縛って血を止めようとしているらしい。
男の手がスイニーの体に触れる。無遠慮に触れ続けるのが嬉しくもあり、くすぐったくもあった。思わず笑みが零れてしまう。
けれども、男の左手には指輪が輝いていた。それが何を意味するのか、若いスイニーでも痛いほど分かる。追い討ちをかけるように男は
「俺の家は近くにあるんだ。女房に手当てしてもらおう」
と、のたまって、スイニーを荷物を運ぶような身軽さで背負った。
こんな時なのに、スイニーは男が結婚していることを残念に思った。男の広い背中から温もりが伝わってくる。束の間の幸せを感じながら、スイニーは再び意識を失った。
※
ミリアムは、夫のハルンが帰ってくるなり、持っていた鍋を落としそうになった。足元では五歳になったばかりの息子、ルカがじゃれるように遊んでいる。鍋の中には、ぐつぐつと煮立ったシチュー。危うく大やけどを負わせるところだった。
ハルンは、そんなミリアムの驚きを気にも留めず、背負っていた少年を何のためらいもなく、自分たちが使っているベッドに横たえる。思わず『今日、シーツを取り替えたのに』と、ミリアムは声を上げそうになった。
「この子の手当てをしてくれ。全身、傷だらけなんだ」
そう言いながら、ハルンは少年が着ているものを、剥ぎ取るように脱がせてゆく。露わになる白い肌に刻まれた無数の傷が、ミリアムには妙に艶めかしく見えた。同時に『助けてはいけない』と彼女の中で警鐘が鳴り響く。
「隣の国から逃げて来たんじゃないかい? そのうち追手が家までやってくるかもしれないよ」
この国の人間とは肌の色だけでなく、顔立ちも違う。すぐ近くの国境を越えてきたのは間違いなかった。
「そういや、さっき意識を取り戻した時、青い瞳をしていたな」
ハルンは、どこまでも暢気だ。
「悪いことは言わないよ。元いたところへ返しておいで」
ミリアムの忠告に、ハルンは怒鳴りつけるように返した。
「この子を見捨てろって言うのか!」
「私たちまで巻き添えを食らったら、堪ったもんじゃないからね。家にはルカだっているんだ」
幼心なりに、この緊迫した状況を理解しているのか、ルカはミリアムの服の裾をつまみ、不安げな顔をしている。
「分かった。俺が手当てをする。おまえたちは食事でもしていてくれ」
ハルンは、家中の包帯や軟膏をかき集めて、少年の手当てを始めた。ミリアムはあきらめて、ルカと食事を始めたが、見ず知らずの少年が放つ香水が混じったような体臭が鼻腔を擽り、どうにも食欲が湧かない。さらに、ハルンの手先は不器用で、うまく手当できないのも気になった。
「貸してごらん。私が包帯を巻いてやるよ」
「ありがとう。済まねぇな」
ハルンは照れ臭そうに笑う。いつも、人の良さそうな笑顔に騙されてしまうのだ。けれども、性格までお人よしで、厄介事を易々と引き受けてしまうのが欠点でもあった。
「お腹が空いているんだろ? この子は私に任せてシチューをお食べ」
その言葉を待っていたかのように、ハルンは椅子に座るなり、シチューを勢いよく食べ始めた。
ミリアムは、包帯を切るハサミを手に少年の体と対峙する。助けてはいけない。また、警鐘が心の中で鳴り響いた。なぜ、こんなに胸がざわつくのか。少年が異国の人間だから? いや、それ以上の何かを本能が察知して、彼女に注意を呼びかけているようだった。
ハサミを握る手に力がこもる。もし、刃先を少年に向けたら、それを勢いよく振り下ろしたら、ハルンはどんな顔をするだろうか。けれども、そんな考えとは裏腹に彼女は手際よく少年の体に包帯を巻いていた。
※
「助けていただいて、ありがとうございます」
ベッドから体を起こしたスイニーは、手当てをしてくれたハルンやミリアムに礼を言った。ハルンは嬉しそうに目を細めて、我が事のように喜んでいる。その横でミリアムは渋い顔をしていた。
「あんなに傷だらけになって、何があったんだ?」
ハルンが心配そうに尋ねてくる。スイニーは助けてくれたお礼に本当のことを話そうとするが、出てきた言葉は口元で淀んでしまう。何も言えないスイニーに助け舟を出すように、ミリアムは
「人には言えない事情だってあるものさ」
と、まだ何か聞きたそうにしているハルンを遮るように、乾いた口調で話を打ち切った。
「これから、どこかへ行く当てはあるのか?」
ハルンの問いかけにスイニーは首を横に振った。この国に知り合いはいないし、もちろん隣の国へ戻ることはできなかった。
「もし良かったら、しばらく一緒に暮らさないか?」
「あんた!」
ハルンの申し出に、ミリアムは怒鳴るように声を上げた。
「だって、そうだろ。まだ、傷もふさがったばかりなんだ。このまま追い出したら、すぐ野垂れ死にするじゃねぇか」
「家だって、三人暮らすので精一杯なんだよ。もう一人増えるなんて……」
まして、正体の分からない異国人と一緒に暮らすのは、勘弁してほしいと思った。
「スイニーと言ったっけな。おまえはどうしたい?」
スイニーはハルンの目をじっと見つめた。本当はもう少し一緒にいたい。そうすれば露頭に迷うこともないし、何よりもハルンのことをもっと知りたかった。
「よし、決まりだ。しばらくは家にいていいぞ」
「何も言ってないじゃないか」
「目を見りゃ分かるんだよ」
「あんたは、いつもそうやって勝手に決めるんだね」
それでも、一度決めたことは覆らないと経験で知っているからか、ミリアムはそれ以上何も言わなかった。「洗濯ものを干さなきゃね」と言って外へ出ていく。
残されたハルンとスイニーは、しばし視線を交わした。スイニーの顔から笑みが零れる。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「もちろん、ただじゃ住ませないぞ。これから、俺の狩りを手伝ってもらうからな」
「何でもしますから、なんなりと申しつけてください」
ハルンは手のひらを差し出した。スイニーが釣られて差し出した手のひらを力強く握る。
「これから、よろしくな」
優しそうな笑み。それを見られただけでスイニーは満足だった。
※
「おまえはこれを使え」
ぶっきらぼうに渡されたのは簡素な弓だった。初心者向けだというのは弓に疎いスイニーでも分かる。
「俺が教えてやるから、早く一人前の狩人になるんだ」
ハルンは狩人として、家族の食料を調達したり、獲物を売ったりして生計を立てていた。渡された弓は、いつかルカが成長した時に持たせるつもりだったらしい。家を出る時に、それでミリアムと喧嘩になったのをスイニーは見ていた。
「こんな大事なもの、僕が使ってもいいのですか?」
「いいんだよ。ルカにはまた新しいのを買ってやればいいんだからな。それよりも、早く狩りを覚えてくれよ」
そう言いながら、ハルンはスイニーの肩をポンと叩く。動揺を悟られないように、スイニーは背筋をまっすぐに伸ばして頷いた。どうしても、ハルンの予期せぬスキンシップには慣れない。
ハルンが持つ弓はその体格に見合った大ぶりのものであり、ずいぶんと使い込まれているのが、染み込んだ脂のてかり具合で分かった。目ざとく獲物を見つけては、弦を引いて弓柄がしなる。その力強い姿を見るたびに、スイニーの胸は熱くなった。
矢は寸分違わず獲物に命中する。生き物が目の前で命を落とすのは我が事のように思えて、スイニーは抵抗を感じたが、生きるためには仕方ない。
ハルンに手取り足取り教えられながら弓を構える。まるで包まれるように、その大きな体に覆われて、スイニーは自分の鼓動が聞こえるのではないかと余計な心配をした。そのせいか、矢は獲物と見当違いの方向へ飛んでゆく。
「全然ですね」
ハルンの気持ちに先回りするようにスイニーが口走った。
「まずは経験が大事だ。そのうち当たるようになるさ」
暢気な声。これまでスイニーが接してきた、やみくもに怒鳴りつける厳しい教官たちとは雲泥の差だった。
「怒らないのですか?」
「初めてなのに怒ったって仕方ないだろ。教わったとおりにできなければ怒るけどな」
そう言ってハルンは豪快に笑う。釣られて微笑みを浮かべながら、スイニーは早くこの人に追いつけるようになろうと決心するのだった。
※
スイニーがハルンに助けられてから、三ヶ月が経とうとしていた。その頃になると、元々の勘の良さからスイニーはめきめき上達し、今や狙った獲物は必ず仕留められるほどになった。そのたびにハルンは、目を細めてスイニーを褒めてくれる。
「よくやったな。これで今夜もごちそうにありつけるぜ」
「ハルンのおかげです」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
ふと、獲物に気づいたハルンが弓を構える。すかさず、スイニーは背負っていた籠から矢を一本取り出し、ハルンに渡した。直後、矢は放たれて獲物に命中する。
「助かったぜ。ありがとうよ」
こうして、ハルンの満足げな笑顔を見られるのが、スイニーは何よりも嬉しかった。
家に帰ると、ミリアムがハルンに駆け寄り、何やら耳打ちしている。スイニーは目を伏せた。次に言われることは決まっている。すぐに話を終えたハルンが申し訳なさそうな顔でスイニーに告げた。
「済まねぇな。今夜は小屋で寝てくれないか?」
ハルンの家には農具や収穫したものを保管する小屋がある。月に何度か、そこで寝るのがスイニーの日課になっていた。
スイニーは、ハルンを心配させないように笑顔で頷く。けれども、内心は寂しさで一杯だった。きっと今夜、ハルンはミリアムを抱くのだろう。それは、外にいても漏れ聞こえてくる嬌声で分かっていた。
夜になり、草原のざわめきに混じってミリアムの嬌声が聞こえてきた。スイニーは耳を澄まして、その中からハルンの音を探す。荒い呼吸、ため息、咆哮……。そして、スイニーもまた小屋の中で果てるのだった。出したことを気づかれないように、手のひらで受け止めたものを舐め取る。苦くて生臭い味に涙が零れた。
そう。自分はミリアムの代わりになれないし、この想いは絶対に気づかれてはいけない。ハルンのそばにいたいなら。
※
その日は夢中になり過ぎていたのかもしれない。スイニーは獲物を追いかけ、狙いが定まったところで矢を放った。しかし、気づくとそこは池の上で、スイニーはそのまま水中に落ちてしまった。浅い池だったので自力で這い上がれたが、全身がびしょ濡れになってしまった。まだ、風は冷たく、ハルンの家までも遠かった。
「このままじゃ風邪を引いてしまうな」
幸い近くには大きな獣が使ったと思われる洞穴があった。そこに入るなり、ハルンは枯れ枝を集めて火を熾した。そして、スイニーの濡れた服を脱がしにかかった。
「な、何をするのですか」
「服を乾かすんだ。いいから早く脱がせろ」
大柄なハルン相手では分が悪い。スイニーはあっという間に一糸まとわぬ姿になってしまった。せめて自分が変化しないよう、ハルンから意識を逸らすので精一杯だった。スイニーは股間を手で隠しながら火にあたる。それでもハルンは容赦しなかった。
「おい、体を広げなきゃ乾かないだろ」
そう言って、スイニーの手を避けようとする。
「僕の裸なんて見たくないでしょう?」
「何を恥ずかしがっているんだ。男同士じゃないか」
スイニーの気持ちをまるで分かっていないような声色。それでも頑なに手を避けないスイニーに焦れたハルンは、突然着ているものを脱ぎ始めた。スイニーと同じく、一糸まとわぬ姿になる。
初めて見るハルンの体。顔と同じく全身が毛むくじゃらで、鍛えられた胸板や腕、脚は逞しく、それでいてお腹周りは、最近美味しい食事にありつき過ぎているせいか、ポッコリとせり出ていた。
ハルンは脱いだものの中から自分の下着をスイニーに差し出す。
「これでも着ておけ。裸でいるより少しはマシだろう」
スイニーはまるで宝物を扱うかのような慎重さで下着を受け取った。まだ温もりが残っている。背中を向けて身に着けると、ハルンに包み込まれているようだった。再び振り向くと、ハルンは既に上着を羽織っていた。
「こいつも着けると暖かいぞ」
そう言って、ハルンは青いスカーフを外し、スイニーの首元に巻きつけた。汗と脂が混じったハルンの匂いが鼻腔を擽る。
もう我慢の限界だった。スイニーの体は傍目に分かるほど反応していた。それを隠すように焚き火のそばへ慌てて腰かけた。ハルンは当然、焚き火の反対側へ座ると思ったのに、スイニーの隣へ腰を下ろす。そして、何の躊躇もなく肩を抱いてきた。
「あ、あの……」
「ん、どうした?」
「奥さんじゃないのに悪いと思って……」
「何、言ってるんだ? こうしていると暖かいだろ」
スイニーにとって、こんなにハルンと密着するのは初めてだった。いつも小屋で渇望していた想いが現実のものとなっている。特にハルンが何かをするわけではないと分かっていても、スイニーは十二分に興奮した。
急に体がビクビクと震えて、目の前が白く弾ける。気づいた時には、ハルンの下着の中に大量に漏らしてしまった。スイニーは蒼ざめながら、ハルンに気づかれぬように股間を隠す。それでも漂う匂いは隠しようがなかった。
ハルンは目を閉じたまま、じっとしている。どうやら焚き火が心地良くて眠っているらしい。スイニーは安堵しながら、どうかこのひとときが長く続くように願っていた。
※
「あんた。スイニーに自分の下着を貸したのかい?」
「ああ、裸のままでいるのも可哀想だと思ってな」
ハルンの答えにミリアムは呆れて言葉を返せなかった。誰かが履いた下着を別の誰かに履かせるなんて。おそらくハルンは単なる善意によって履かせたのだろうが、それでもミリアムは胸のざわつきを抑えられなかった。
少し遅れて、スイニーも戻ってきた。ミリアムは努めて明るい声で
「ハルンから下着を借りたんだろ? 洗濯かごの中に入れといておくれ」
と、促す。しかし、スイニーは小声で返事をすると、顔を赤らめながら脱いだ下着を洗濯かごの中に入れた。その瞬間、ミリアムの中で黒い靄が広がった。スイニーがいなくなったのを見計らって、下着を取り上げる。そこには大きな染みがついていた。
これ以上、関心を持ってはいけない。理性が忠告してもミリアムは、下着を鼻に宛がうのを止められなかった。尿とは違う生臭い匂い。それが何なのか、大人のミリアムは十分に理解していた。もちろん、なぜこんな染みがついたのかも。
その夜、食事を終えた後で、ミリアムは静かに切り出した。
「スイニー。家に来てから随分経ったんだ。そろそろ一人で暮らしてもいいんじゃないかい」
突然の申し出にスイニーはハッとした表情を浮かべ、それでも静かに俯いた。むしろ、ハルンが怒鳴り声を上げる。
「なんでだよ。別に追い出す必要はないじゃないか。スイニーが来てから狩りもうまくいくようになったし、稼ぎも良くなった。ずいぶんと贅沢させてもらっているだろう?」
ハルンの言葉に、涙目のスイニーが嬉しそうな顔をしたのをミリアムは見逃さなかった。
「スイニーは家族じゃないんだ。遅かれ早かれ出て行かなければいけない。スイニーだって、それを望んでいるだろう。ならば、早い方がいいじゃないか」
ハルンは立ち上がり、スイニーの両肩を掴む。その眼差しは、一点の曇りもないほど綺麗だった。
「おまえはどうなんだ? 俺たちのそばにいたくないのか?」
スイニーが言い淀んだ時だった。突然、家のドアが乱暴に叩かれた。一瞬の沈黙。再びドアが乱暴に叩かれる。
「俺が出る。おまえたちは隠れていろ」
そう言って、手近にあった斧を携えたハルンが勢いよくドアを開けると、そこにはサーコートを纏った兵士たちが立っていた。刺繍された紋章で隣国の兵士だと分かる。
「王子を引き渡していただけますか」
兵士の一人が前に進み出て、スイニーに目を向ける。思わずミリアムが「王子?」と声を上げた。すぐに他の兵士たちが、づかづかと家の中へ入り込み、スイニーを取り囲んだ。
「王子。国へ戻っていただきます」
有無を言わさずスイニーの腕が掴まれ、戸口へと引っ張られる。観念したのか、スイニーは抵抗せず、されるがままだった。
「待ってくれ!」
兵士たちの前にハルンが立ちはだかった。
「これは何かの間違いだ。こいつは俺の大切な仲間なんだ」
縋るような眼差し。それをスイニーはやんわりと止めた。
「私は隣国の第一王子、スイニーです」
信じられないと言わんばかりの表情で、ハルンが体を震わす。スイニーが「今までお世話になりました」と一礼すると、兵士たちはその体を外へ引っ張り出した。「待ってくれ!」と言って、ハルンも外へ飛び出す。
ミリアムは「あんた!」と叫んで止めようとするが、その声はハルンに届かなかった。
※
強い風が吹く草原を抜け、一行は国境にたどり着いていた。有刺鉄線の壁にぽっかりと作られた穴。そこを一人ずつくぐり抜けてゆく。そして、スイニーがくぐる番になった。
「本当に行ってしまうのかよ」
暗くて、その表情はよく見えないけれども、ハルンは寂しそうな声をしていた。スイニーは手のひらを伸ばして、ハルンの頬に触れる。一瞬、身を引かれたような気がしたが、もう遠慮はいらなかった。
「その方が奥様も安心でしょう。もちろん、ハルンのためにも」
スイニーの青い瞳から涙が零れる。ハルンが気づいてくれたらと願う自分を、スイニーは心の中で嘲笑した。
「俺はおまえと一緒にいられて楽しかったよ」
もう、その言葉だけで十分だった。どんなに想っても、この人と結ばれることはない。たとえ自分が王子であっても。
「王子、そろそろ行きますよ」
兵士の一人から促されて、スイニーは逡巡する。国境を越えてしまえば、もうハルンと再会することは叶わないだろう。ハルンのことをずっと覚えている自信はあったが、せめて忘れ形見が欲しかった。本当は下着が欲しかったけれども、そんなことでせっかく築き上げた信頼関係を壊したくはない。
その時、ハルンの首元ではためく青いスカーフが目に入った。いつもハルンが身に着けていたもの。そして、池に落ちた時は寒いからと言って着せてくれたもの。
「その青いスカーフをいただけませんか?」
スイニーの願いに、ハルンは戸惑いを露わにした。
「俺のスカーフを? こんなもの欲しがってどうするんだ?」
「貴方を覚えていたいのです。仲間の証として」
「……仲間か」
青いスカーフが外され、スイニーの首に巻かれた。束の間、ハルンのごつい指がスイニーに触れる。温もりが離れると、スイニーは覚悟を決めた。
「どうか、お元気で」
踵を返して有刺鉄線の穴をくぐり抜ける。何か声が返ってくるのを待ったが、振り向いても見えるのは一面の暗闇だった。
「さあ、王子。行きますよ」
一歩、前へ踏み出す。とめどなくあふれるスイニーの涙を強い風がさらっていった。
※
降りしきる矢の雨の中、スイニーの意識はすでに戦場の喧騒から遠ざかろうとしていた。指先に触れるのは、いつしか首から解けてしまった青いスカーフ。それは、かつてスイニーを救い、弓を教え、そして最後まで真意に気づかなかった男の「匂い」そのもの。
スイニーは最後の力を振り絞り、獣のように体を丸めて青いスカーフを庇うように抱きしめた。
「ハルン……」
絶命する間際、スイニーの口から漏れたのは、王国の行く末でも、自分を最前線へ送った者への呪いでもなかった。ただ、焚き火のそばで自分を抱きしめてくれた、無骨な男の名前だった。
※
それから、ひと月も経たないうちに、隣国の紋章が刺繍されたサーコートを纏った兵士が、ハルンたちの家にやってきた。そして、座るなりテーブルに青いスカーフを差し出した。スイニーにねだられて、ハルンが着けてあげたものである。血や泥にまみれて、ところどころ破けていた。
あの日、ミリアムはハルンからスイニーに青いスカーフをあげたという話を聞いて激怒した。
「身に着けていたものを渡すなんて、あんたは何も分かっちゃいないんだね!」
「おんぼろの安物だからいいじゃねぇか。何をそんなに怒っているんだよ……」
ハルンは戸惑いを露わにする。なんでこんな大バカ者に惚れたんだろうねぇと、ミリアムは独り言のように言い捨てた。
そして今、その青いスカーフが目の前にある。それが何を意味するのかミリアムは痛いほど分かっていた。
「王子は戦地で亡くなりました。見事な死に様でした」
兵士は何の感情もなく、淡々と事実を述べる。
「死に様に見事も無様もあるものか!」
ハルンは怒りのやり場を見つけられず、握りこぶしでテーブルを叩いた。
「王子はこのスカーフを最後まで大事そうに抱きしめていました」
それだけ言い残すと、兵士は帰ってしまった。後に残されたのは青いスカーフだけ。ハルンはそれを呆然と見据えたまま身じろぎさえしなかった。
ミリアムは怒りに震えていた。スイニーが死んだことを怒っているわけではない。この期に及んで何も分かっていないハルンが許せなかった。
「あの子は、最後まであんたを抱きしめて死にたかったんだね」
まるで芝居のような口調で言い放つ。次の瞬間、ハルンはハッとした表情を浮かべ、細い目から大粒の涙を流し始めた。
「やっと気づいたのかい。……まったく鈍いわね」
ハルンは、青いスカーフを抱きしめながら声を上げて泣きじゃくる。ミリアムは大きな子どもをあやすように、ハルンを抱きしめるのだった。




