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短編集

氷が溶ける音のあとで

作者:

 カウンターの端には、いつも同じ女が座っていた。

 黒のタートルネックに、細いシルバーのネックレス。髪は肩にかかるくらいで、毎回きちんと整えられている。きれいなのに、どこか疲れが抜けない影が残っていた。


 注文は決まってジン・リッキー。  私は、ライムをカットして、グラスの縁を軽く濡らす。

 タンブラーに氷を落として、ジンを注ぐ。ソーダを静かに足して、バー・スプーンで一回だけ混ぜる。

 最後にライムを沈める。  彼女はその一連を黙って見ている。言葉はほとんど出さない。


 それでも、黙っているだけの客じゃない。

 時折、視線だけがこちらへ飛んでくる。短いのに、妙に長く感じる。

 店に入ってからずっと、この店でいちばん途切れないのは、その視線だった。


 ある雨の夜、彼女が珍しく先に口を開いた。


「……いつも、ありがとう」


 声は低くて、少し(かす)れていた。私はシェイカーを置いて、軽く頭を下げる。


「こちらこそ。気に入ってもらえて嬉しいです」


 彼女は小さく笑った。初めて見る笑顔だった。目尻に細かい皺が寄って、どこか切なげで、でも柔らかかった。


「この店、いつからやってるの?」


「もう七年目ですね。最初は一人で回してたけど、今は週に二回だけ手伝いが来てくれてます」


「七年……長いね」


 彼女はグラスを回しながら、ぽつりと言った。


「私も、七年くらい前からここに来てる気がする。でも、覚えてない」


「……覚えてますよ。開店して間もない頃の、雨の夜でした。ドアが開いた瞬間、湿った風が店に入ってきて。コートがびしょ濡れのまま、カウンターに座りました。最初の一杯を頼んだ時、手が少し震えてました」


 彼女は目を細めた。少し驚いたように。


「そんな細かいことまで……?」


「ええ。忘れないです。席も、頼むものも、ずっと同じですから。ジン・リッキー。ライムを軽く潰して、氷が落ち着くまで待ってから飲む。あの頃から変わっておりません」


「……覚えててくれたんだ。なんか、変な感じ」


「変な感じ、ですか?」


「ううん……嬉しい、のかな。忘れられてると思ってたから」


「覚えていてよかったです。お客様が通ってくださるのが、毎日の楽しみの一つですから」


「……ありがとう」


 その夜から、彼女の来店頻度が少し上がった。

 週に一度だったのが、二度、三度。閉店間際の時間帯に、現れるようになった。


 ある日、彼女はいつものジン・リッキーではなく、珍しく違うのをを頼んできた。


「……何か、甘いのが飲みたい気分」


 私は少し考えて、提案した。


「アマレット・サワーはいかがでしょうか。優しい甘さで、アルコールも控えめです」


「……それでお願い」


 シェイクしながら、私はちらりと彼女を見た。

 今日はネイルが塗られていた。淡いラベンダー色。いつもより華やかだ。

 グラスを滑らせて渡しながら、静かに言った。


「今日は少し明るいお色をなさっていますね」


 グラスを受け取った手が一瞬止まって、驚いた顔になって、すぐに苦笑が戻る。


「バレるかな……。会社の飲み会があって、抜け出してきた」


 私は彼女の顔を見ながら小さく頷いた。


「ううん。むしろ抜け出せてよかった。みんな楽しそうだったけど、私だけ浮いてる気がして」


 そう言いながらグラスに口をつけ、ゆっくり一口飲む。目を閉じたまま、息を吐いた。


「美味しい……。こんな味、久しぶり」


「よかったです」


 そこで会話が途切れて、静けさが落ちた。雨音だけが、店の奥まで響いていた。


「……ねえ」


 彼女が顔を上げた。


「私の名前教えてもいいかしら」


私は頷いた。


「もちろんです。お名前をお教えいただけますか?」


 彼女はグラスを両手で包むように持って、小さく言った。


「まどか。まどかって呼んで」


「まどか様……。私は——」


「知ってるよ」


 まどかが遮った。


「カウンターの札、見てるから。ずっと見てた」


 私は少し照れて、微笑んだ。


「では、まどか様。今夜はゆっくりとお過ごしください」


 それから、まどかは少しずつ話すようになった。


 仕事のこと。昔好きだった人のこと。別れてから、ずっと誰とも深く関われなくなったこと。

 私は黙って聞いていたり、時々相槌を打ったりしていた。

 彼女の声が少しずつ柔らかくなっていくのがわかった。


 ある冬の夜。雪がまた降っていた。

 まどかはコートを脱がずにカウンターに座った。

 頬が赤くて、息が白い。


「今日は……もう、限界かも」


 私はグラスを置いて、カウンターの下からティッシュの箱をそっと滑らせた。

 言葉はかけず、ただ彼女の前に置く。

 まどかはそれを取って、目を拭った。声は震えていた。


「上司に、はっきり言われた。『お前みたいなのは、会社にいらない』って」


 私は黙って、新しいグラスに氷を入れ、軽くジンを注いだ。

 いつもより少なめで、ソーダを多めに。

 ライムを薄くスライスして、そっと浮かべる。

 グラスを彼女の前に置くと、まどかは小さく息を吐いた。


「……ありがとう」


 私は静かに言った。


「無理に話さなくてもいいんですよ。ここにいるだけで、十分です」


 まどかはグラスを両手で包んで、ゆっくり一口飲んだ。氷がカチンと鳴る音が、雪の音に混じる。

 しばらくの沈黙。


「……ここに来ると、いつも少しだけ、息ができる」


 まどかがぽつりと言った。

 私は頷いて、カウンターの向こう側に立った。

 触れそうで触れない距離。


「まどか様がお越しくださる日を、いつもお待ちしております」


 まどかは顔を上げて、私を見た。

 涙で濡れた目が、カウンターの灯りに映る。


「……私も」


 声は小さかったけど、はっきりしていた。


「この灯りがついてるか、いつも確認しながら来てた。あなたがいるか、確かめながら」


 私たちは黙って見つめ合った。


 雪の音。

 氷の溶ける音。

 まどかの息遣い。


「……キス、していい?」


 まどかが囁いた。

 私は答えずに、そっと顔を近づけた。

 唇が触れた瞬間、彼女の体が小さく震えた。

 冷たい頰に、温かい涙の跡。

 でも、息は優しかった。

 ゆっくり離れると、まどかは泣き笑いのような顔をしていた。


「私……もう、逃げない」


 私は静かに頷いた。


「はい」


「ここに、いてもいい?」


「もちろんです。いつでも、お待ちしております」


 その夜、店を閉めた後、

 私たちはカウンターの向こう側で、寄り添った。

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