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北の城が見えた。
山の上に、
かつての名門と同じように
きっぱりと座っている。
石垣。
土塀。
高い天守。
そこに、新しい旗が翻っていた。
――正しき秩序。
◆
まず、矢文が送られた。
城下に陣を敷き、
殿の名を書き連ねた文を
矢に括りつけて放つ。
「亡き主君の妹君を、
こちらに戻されよ」
「兵を解き、
城を明け渡すならば」
「あなたの首ひとつで済む」
静かな言葉だった。
しかし、譲らぬ線が一本通っている。
矢文は、
ほどなくして城の中へと運ばれた。
◆
広間。
重臣筆頭の男は、
矢から文を外して黙読した。
そばには、
妹君も座している。
彼女の目が、
文に走る字を追い、
やがて静かに閉じられた。
(兄上の名は、もう使われていない)
(だが、
兄上が拾った者の筆だ)
男は、
文をくしゃりと握りつぶした。
「……やはり、
あやつの字だ」
唇の端に、
自嘲とも怒りともつかぬ笑いが浮かぶ。
「“首ひとつで済む”とは、
都合の良い話だ」
「北の秩序は、
わしの首だけで立っているわけではない」
顔を上げる。
「返答は、一つだ」
「――拒む」
◆
妹君は、
その横顔を見つめていた。
(この人は、
こういう人だった)
(兄上と同じように)
(退き所を知りながら、
退かない人)
「わたくしのことは?」
ふと問う。
男は、
ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「……武士の妻なら、
城を枕にする覚悟はあるのだろう」
正面からの答えではなかった。
だが、それで十分だった。
妹君は、
静かに頷いた。
(最期まで、
あなたの側にいましょう)
そう決めた瞬間、
不思議と心は静まった。
◆
南からの陣では、
矢文の返答を待つ時間が
重く流れていた。
やがて、
城の方角から
一本の矢が返ってきた。
矢には、
紙切れが巻かれているだけ。
広げてみれば、
墨一文字。
――「拒」。
殿は、
短く息を吐いた。
「そうか」
予想していた通りの文字だった。
◆
さくらの胸中は、
むしろ冴えていく。
(説得で妹君を渡すつもりはない)
(楯にするか、
共に死ぬか)
(どちらにしても)
(この城を壊しながら
中から引き抜くしかない)
鬼娘の役目は、
はっきりしていた。
◆
その夜、
軍議が開かれた。
「正面から攻めれば、
北の城は骨が折れる」
誰かが言う。
「山裾に砦も多い。
長引けば、
雪の季節が来る」
策士が、
地図に指を滑らせる。
「正面は殿の軍が押さえる」
「さくら殿には、
別口から入っていただきたい」
指先が示したのは、
城の裏手の崖だった。
「かつて名門が
急ぎの連絡に使った小道がある」
「荷駄は通れぬが、
鬼なら通れる」
殿がさくらを見る。
「行けるか」
さくらは、
迷いなく頷いた。
「行きます」
(鬼にしか行けぬ道なら、
なおさら)
◆
同じ夜。
北の城の一室で、
妹君は灯りを落とそうとしていた。
そこへ、
かすかな揺れが走る。
……風、ではない。
耳を澄ます。
石垣の向こう。
闇の底で、
何かが岩を掴む音がした。
ぎり、と硬いものが擦れる音。
微かな土の崩れる気配。
(……来た)
胸の奥で、
何かがわずかに震えた。
(あの人だ)
桃の匂いが、
記憶から立ちのぼる。
(さくら殿が、
こちらに向かっている)
(わたくしを――
生かそうとして)
◆
さくらは、
崖の途中だった。
手に食い込む岩肌。
靴の裏を滑らせないよう
慎重に足場を探る。
背中には、
大太刀。
普通なら、
こんな場所で背負うものではない重さ。
それでも、
置いてはいかなかった。
(この刃がなければ
壊せない扉がある)
(切れぬ縄がある)
下を見れば、
闇の底。
落ちれば終わるだけ。
上を見れば、
城の影。
伸びる石垣の縁。
(鬼だからこそ、
行ける道)
自分にそう言い聞かせながら、
一手一手を確かめる。
◆
石垣の縁に手がかかった瞬間、
ふいに別のものも掴んだ。
風の匂い。
冷え切った石の匂いに、
ほんのわずかな香が混ざる。
上から、
誰かが灯りを消したあとの
微かな香。
(……妹君)
さくらは、
息をひとつ整えた。
(死ぬつもりでおられるでしょうね)
(でも)
(ここから先は)
(わたしの勝手を
貫かせてもらいます)
石垣の上に、
静かに鬼の影が現れた。




