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命が下ったのは、
軍議の終わり際だった。
◆
北討伐の布陣が決まり、
重臣たちが次々に下がっていく。
地図の上には、
北の山々と堅城。
かつて名門が居した城に、
今は重臣筆頭の旗が立っている。
殿とさくらと策士だけが残った。
しばし沈黙。
殿は地図から目を離さずに言った。
「……ひとつ、忘れるな」
声は低い。
「北の城には、
亡き主君の妹君がいる」
さくらのまぶたが、
かすかに震えた。
あの、気丈な女の横顔が浮かぶ。
婿を討つ戦のときに
複雑な目をしていた姿も。
「北を討つ以上、
夫としてのあの男は
もはや救えぬ」
殿は、
はっきりと言った。
「だが――
妹君だけは別だ」
ようやく地図から視線を外し、
さくらの方を見る。
「何とか救い出せ」
「たとえ城が炎に包まれようと、
降りようと」
「妹君の命だけは、
決して失わせるな」
◆
さくらは、
静かに頭を垂れた。
「承知しました。殿」
胸の奥に、
重いものが落ちる。
(殿の妹)
(かつて婿を討つときに、
複雑な目でこちらを見ていた)
(今度は、
夫の側に立っている)
(それでも――
救い出さねばならない)
殿の命だからというだけではない。
亡き主君の顔が、
一瞬よぎった。
(あの方が生きていたなら、
どんなに怒っていても)
(妹君だけは見捨てなかったはず)
(ならば)
(殿の志を継ぐと名乗った者の下で
刃を振るう自分も)
(その線だけは、
外してはならない)
桃の匂いが、
ふっと濃くなった。
◆
策士が、
淡々と補う。
「北の城は、
籠城に慣れた地です」
「降る気がないなら、
長く引き延ばすでしょう」
「妹君を楯に取る可能性もある」
さくらの指先に、
力がこもる。
「楯にされる前に」
彼女は短く言った。
「こちらの手で
引き抜きます」
殿が頷く。
「妹君を殺さぬよう気を遣え、とは言わぬ」
「ただ一つ」
少し言葉を選ぶように続ける。
「“鬼の刃”だからこそ、
救える命がある」
「鬼にしか行けない場所がある」
「その先に、妹君がいると思え」
◆
さくらは、
その言葉を胸の奥にしまい込んだ。
(討伐と、救出)
(同じ戦場で
両方をやり遂げるのは難しい)
(でも、
殿の命は、そういうものだ)
(難しいからといって
線を減らす人ではない)
自分の剛力と、
大太刀と、
桃の匂い。
すべてを、
「討つ」のではなく
「抜き出す」ために使う時が来る。
◆
廊下に出ると、
風が頬をなでた。
少し冷たい風。
北からの気配が混じっている。
(北の山風の中で)
(殿の妹君を抱えながら
この刃で道をこじ開けなければならない)
(鬼でなければ通れぬ道)
その想像に、
背筋が静かに震えた。
桃の匂いが、
ふわりと流れていく。
その匂いが、
やがて北の堅城の中で
一人の女の命を
引き戻す手がかりになることを、
このときのさくらは
まだ知らない。
北の城に、
静かな死支度の空気があった。
◆
妹君は、
櫓の上から山の端を見ていた。
雪こそないが、
風は冷たい。
かつて、
兄の軍がこの山を越えて
北の名門を討った日にも
似た風だった。
(今度は、
その旗がこちらに向かってくるのね)
かつての婿を討たれ、
今は新たな夫――
重臣筆頭の男の妻となった身。
夫は広間で、
「正しき秩序」を掲げている。
妹君は、
その背を責めるつもりはなかった。
(あの方は、
あの方なりの筋で立っている)
(兄上もそうだった)
武家に生まれた女の筋は、
その背に添って
静かに落ちること。
城を枕に、
共に死ぬこと。
それが、
ここまで教えられてきた「武士の娘」の終い方だ。
(兄上、
不孝をお許しください)
(あなたの刃と
夫の刃がぶつかるなら)
(私は、こちら側に座って死にます)
指先が、
着物の裾をきゅっと掴む。
それでも顔は、
凛としていた。
◆
一方で――
南から北へ向かう軍の中。
さくらは、
馬の腹を軽く蹴りながら
山風を嗅いでいた。
(冷たい匂い)
(北の城の匂い)
その奥に、
かすかに懐かしい匂いが混じっている気がした。
亡き主君と同じ血の匂い。
あの鋭くも穏やかな妹君の横顔。
殿の命は、一つだけだった。
――何としてでも救え。
(死ぬつもりでおられるでしょうね)
(夫の隣で、
武家の女として)
(でも)
さくらは、
馬上で大太刀の柄に手を添えた。
(私は鬼です)
(「立派な最期」などという
きれいな話で終わらせません)
(生きて出してみせる)
(たとえ、
腕をもがれようと)
胸の奥に、
怒りとも違う熱がたまっていく。
仇討ちに向かうときとも、
大軍を薙いだときとも違う熱。
一人の女を
「死なせぬため」に向かう熱。
◆
妹君は、
櫓から降りると
静かに衣を改めた。
白小袖。
数珠。
髪をひとつにまとめ、
後ろで結う。
(武士の娘として)
(武士の妻として)
(最後まで恥じぬように)
胸のうちでそう繰り返すと、
不思議と恐れは薄れた。
ただ一つだけ、
喉に刺さる棘がある。
(さくら殿……)
兄の配下。
鬼娘。
桃の匂いの剣客。
兄の側にあったあの刃が、
今は新たな殿の刃として
こちらへ向かっている。
(あの人に、
わたくしの骸を見られたくはないのだけれど)
唇が、
かすかに笑みに歪んだ。
◆
山道の途中。
さくらは、
ふいに馬を止めた。
風が、一瞬変わったのだ。
冷たい北風の中に、
ごくごくかすかに
懐かしい香が混じった気がした。
兄と共に出陣した日の、
あの城下の香。
(……生きておられる)
確信のようなものが
胸の奥に降りてくる。
(まだ、
死に場所を決めただけ)
(ならば、
決め直してもらいましょう)
自分勝手な理屈だと分かっている。
それでも、止められない。
「殿」
先頭を行く殿の背に声をかける。
「妹君の救出、
必ず果たします」
「城がどうなろうと、
あの方だけは生かして連れ出します」
殿は振り返らず、
ただ一度だけ頷いた。
「任せる」
その一言が、
さくらの決心を
さらに固くする。
◆
北の城の中では、
妹君が静かに座していた。
南からの道では、
鬼娘が大太刀を背負っていた。
片や死ぬ覚悟。
片や絶対に死なせぬ覚悟。
二つの覚悟が、
まだ互いを知らぬまま
同じ山風の中で
音もなく近づいていく。




