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北の山々に、

再び旗が立った。



かつて北の名門が構えていた堅城。

今は、重臣筆頭の男の領地となっている。


天守の上に、

新たな旗が翻った。


――「正しき秩序」。


黒地に白く、その二文字。


(あやつの秩序に従うくらいなら)


(わしが、“正しき秩序”を名乗ってやる)


男の胸の内で、

長く燻っていたものに火がついた。



広間に、家臣たちが並ぶ。


もと名門の譜代たち。

男と共に数多の戦を潜り抜けてきた武将たち。


重臣筆頭は、

上段の間に立ち上がった。


いつもなら、

穏やかな声で軍議を進める男の口から、

その日は鋭い声が飛んだ。


「――よく集まってくれた」


「今日より、この地は

 “秩序への挑戦”の先陣となる」


ざわり、と空気が揺れる。



「亡き主君の葬儀は済んだ」


男は続ける。


「仇も討たれた。

 その矛先を一手に担ったのは、

 西から戻った猿殿である」


名を出した瞬間、

何人かの目が険しくなった。


「猿殿の才は認める」


「西の国を従えた器も、

 仇討ちの働きも、

 否定はせぬ」


「だが――」


そこで、

声に熱が乗る。


「だからといって、

 “かつて下だった者の秩序”を

 この身が享受せねばならぬ道理はない!」


広間の空気が張り詰めた。



男は一気呵成に続けた。


「わしは、

 亡き主君がまだ一国の長であった頃から

 槍を振るってきた」


「北の名門を討つ軍でも、

 最初に矢面に立ったのは我らだ」


「殿が天下に名を知られる前から、

 命を賭してその旗を支えてきた!」


「そのわしが、

 百姓上がりの男の下で

 “秩序”を教えられる筋合いはない!」


言葉そのものは、

己の傷ついた自尊心の叫びだった。


だが、

家臣たちの耳には

別の形で響き始める。


「北の名門は消えた」


「今、この北を治めているのは誰か」


「わしらだ!」



男は、

亡き主君の妹――

自らの妻の名には触れなかった。


それを口にすれば、

「殿の縁者」であることが

一瞬で自分を縛ると知っていたからだ。


代わりに、

別の言葉を掲げる。


「亡き主君の死から、

 まだ日も浅い」


「それだというのに、

 “殿の後継”を名乗り」


「評定を仕切り、

 葬儀を取り仕切り」


「都の者たちは、

 早くもあやつを“新たな殿”と呼び始めている」


「本当にそれで良いのか!」


問いかけではなく、

断罪に近かった。



「かつて下だった者の秩序に

 何も言わず従うのか」


「実力主義の名のもとに、

 家柄も、

 年月も、

 積み上げてきたものも」


「すべて“うまく立ち回った者”に

 譲り渡すのが正しい世なのか!」


家臣たちの中に、

うつむく者、

歯を食いしばる者が出てくる。


彼らもまた、

亡き主君の下で

長く戦ってきた者たちだ。


(いつの間にか、

 自分たちは“古い側”になっていた)


その痛みは、

どこかで共有されていた。



男は、

最後に宣言した。


「わしは、

 “猿殿の秩序”に従わぬ」


「亡き主君の志は、

 猿殿一人のものではない」


「北の地から、

 もう一つの道を示す!」


「“正しき秩序”は、

 北にもあるのだと!」


広間に、

押し殺された歓声が走る。


・殿に仕えた年月

・北の名門を討ったという矜持

・今なお残る兵力と地の利


それらが、

「挑戦」の言葉と結びついた。



外では、新たな旗が

風をはらんでいた。


黒地に白く、「正」。


それは、

猿がまとめた秩序に

正面から噛みつく牙として掲げられた。


「秩序への挑戦」――

そう男は呼んだ。


実のところ、

その根にあるのが

傷ついた自尊心であることを

誰よりもよく知っていたのは

本人自身だった。


それでも、

一度掲げた旗は降ろせない。


北の山風は、

その旗を高く、高く

吹き上げていた。


知らせが届いたのは、

葬儀からそう遠くない日の、

まだ空が白んでいる頃だった。



「北が、旗を上げました」


使者の声は、妙に乾いていた。


殿は、

しばらく無言で文を眺めていた。


北の城の名。

掲げられた旗の文。


――正しき秩序。


あの男の筆跡。


(やはり、そう来たか)


心のどこかで、

すでに予感していたものだった。



評定が開かれた。


殿の前に、

重臣たちが座す。


すでに、

北の様子は噂になっている。


「……挑戦ですな」


策士が、

さっぱりとした口調で言った。


「『秩序への挑戦』と

 自ら呼んでいる」


「殿の名のもとに

 まとまりかけたものへ

 別の筋を通そうとしている」


誰も、

「放っておけ」とは言わなかった。


ここで見過ごせば、

新しく形になりつつあるものが

音を立てて崩れると

皆分かっていた。



ただ、

別の躊躇いもあった。


「相手は、

 亡き主君の古参です」


ひとりが言う。


「北の名門を討つ軍でも

 先陣を張っていた」


「妹御を娶ったのも、

 あの男です」


殿は黙していた。


(殿の妹を娶り)


(殿のもとで

 長く槍を振るった男)


(その男を、

 “新たな殿”としての手で討つのか)


沈黙が、

しばし続く。



さくらは、

その沈黙の重さを

壇下から感じていた。


(あの方も、

 殿を支えた一人)


(北の山で、

 肩を並べて槍を受けたこともある)


(それでも今は――)


(殿の秩序に牙を向いた)


鬼としての目と、

人としての目が

ひどく噛み合わない。


けれど、

どちらも閉じるわけにはいかなかった。



やがて、

殿は口を開いた。


「……戦を起こすのは、

 好きではない」


静かな声だった。


「殿がこの世を去ってから、

 いくつかの矛は納めてきた」


「西も、

 総本山も、

 寺も、

 ひとまずは刃を収めている」


「ここで、

 身内の牙を見逃せば」


「殿の天下は、

 名ばかりになる」


誰も、

反論できない。


「北は敵ではなく、

 “乱れ”です」


策士が言葉を添える。


「乱れを正さねば、

 他の地も真似をする」


「最初の一本を

 折り損ねれば――」


殿が手を上げた。


「分かっている」


その一言で、

評定の空気が固まった。



「討伐軍を出す」


殿は、はっきりと言った。


「ただし」


少しだけ、声の調子を落とす。


「北は、

 亡き主君の血が混じる地だ」


「最初から根こそぎにするような

 手は使わぬ」


「矢文を送る」


「降る気があるなら、

 一度だけ機会を与える」


「それでもなお

 “秩序への挑戦”を名乗るなら――」


そこで言葉を切り、

さくらを見た。


「さくら」


呼ばれて、

立ち上がる。


「はい、殿」


「そのときは、

 鬼の刃で断て」


殿の目は、

さくらの大太刀を見ていた。


「北の山風ごと」


「かつて殿を支えた槍ごと」


「“今の秩序”に

 刃を向けたすべてを」



評定が解散すると、

城の中は一気に忙しくなった。


兵を集める声。

馬を引く音。

槍の穂先を確かめる武具師の手。


討伐の軍が、

黙々と形を取り始める。


さくらは、

大太刀の刃を布で拭いながら

静かに空を見た。


(北の山風は、

 冷たくて好きでした)


(その風の中で、

 殿の旗が揺れるのを見るのは)


(きっと、

 悪い景色ではないのでしょう)


(その代わり)


(一本の古い影は、

 そこで終わる)


桃の匂いが、

ほんのわずかに強くなる。


鬼娘の匂いは、

ふたたび戦の支度の匂いへと

変わり始めていた。

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