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北の山々に、
再び旗が立った。
◆
かつて北の名門が構えていた堅城。
今は、重臣筆頭の男の領地となっている。
天守の上に、
新たな旗が翻った。
――「正しき秩序」。
黒地に白く、その二文字。
(あやつの秩序に従うくらいなら)
(わしが、“正しき秩序”を名乗ってやる)
男の胸の内で、
長く燻っていたものに火がついた。
◆
広間に、家臣たちが並ぶ。
もと名門の譜代たち。
男と共に数多の戦を潜り抜けてきた武将たち。
重臣筆頭は、
上段の間に立ち上がった。
いつもなら、
穏やかな声で軍議を進める男の口から、
その日は鋭い声が飛んだ。
「――よく集まってくれた」
「今日より、この地は
“秩序への挑戦”の先陣となる」
ざわり、と空気が揺れる。
◆
「亡き主君の葬儀は済んだ」
男は続ける。
「仇も討たれた。
その矛先を一手に担ったのは、
西から戻った猿殿である」
名を出した瞬間、
何人かの目が険しくなった。
「猿殿の才は認める」
「西の国を従えた器も、
仇討ちの働きも、
否定はせぬ」
「だが――」
そこで、
声に熱が乗る。
「だからといって、
“かつて下だった者の秩序”を
この身が享受せねばならぬ道理はない!」
広間の空気が張り詰めた。
◆
男は一気呵成に続けた。
「わしは、
亡き主君がまだ一国の長であった頃から
槍を振るってきた」
「北の名門を討つ軍でも、
最初に矢面に立ったのは我らだ」
「殿が天下に名を知られる前から、
命を賭してその旗を支えてきた!」
「そのわしが、
百姓上がりの男の下で
“秩序”を教えられる筋合いはない!」
言葉そのものは、
己の傷ついた自尊心の叫びだった。
だが、
家臣たちの耳には
別の形で響き始める。
「北の名門は消えた」
「今、この北を治めているのは誰か」
「わしらだ!」
◆
男は、
亡き主君の妹――
自らの妻の名には触れなかった。
それを口にすれば、
「殿の縁者」であることが
一瞬で自分を縛ると知っていたからだ。
代わりに、
別の言葉を掲げる。
「亡き主君の死から、
まだ日も浅い」
「それだというのに、
“殿の後継”を名乗り」
「評定を仕切り、
葬儀を取り仕切り」
「都の者たちは、
早くもあやつを“新たな殿”と呼び始めている」
「本当にそれで良いのか!」
問いかけではなく、
断罪に近かった。
◆
「かつて下だった者の秩序に
何も言わず従うのか」
「実力主義の名のもとに、
家柄も、
年月も、
積み上げてきたものも」
「すべて“うまく立ち回った者”に
譲り渡すのが正しい世なのか!」
家臣たちの中に、
うつむく者、
歯を食いしばる者が出てくる。
彼らもまた、
亡き主君の下で
長く戦ってきた者たちだ。
(いつの間にか、
自分たちは“古い側”になっていた)
その痛みは、
どこかで共有されていた。
◆
男は、
最後に宣言した。
「わしは、
“猿殿の秩序”に従わぬ」
「亡き主君の志は、
猿殿一人のものではない」
「北の地から、
もう一つの道を示す!」
「“正しき秩序”は、
北にもあるのだと!」
広間に、
押し殺された歓声が走る。
・殿に仕えた年月
・北の名門を討ったという矜持
・今なお残る兵力と地の利
それらが、
「挑戦」の言葉と結びついた。
◆
外では、新たな旗が
風をはらんでいた。
黒地に白く、「正」。
それは、
猿がまとめた秩序に
正面から噛みつく牙として掲げられた。
「秩序への挑戦」――
そう男は呼んだ。
実のところ、
その根にあるのが
傷ついた自尊心であることを
誰よりもよく知っていたのは
本人自身だった。
それでも、
一度掲げた旗は降ろせない。
北の山風は、
その旗を高く、高く
吹き上げていた。
知らせが届いたのは、
葬儀からそう遠くない日の、
まだ空が白んでいる頃だった。
◆
「北が、旗を上げました」
使者の声は、妙に乾いていた。
殿は、
しばらく無言で文を眺めていた。
北の城の名。
掲げられた旗の文。
――正しき秩序。
あの男の筆跡。
(やはり、そう来たか)
心のどこかで、
すでに予感していたものだった。
◆
評定が開かれた。
殿の前に、
重臣たちが座す。
すでに、
北の様子は噂になっている。
「……挑戦ですな」
策士が、
さっぱりとした口調で言った。
「『秩序への挑戦』と
自ら呼んでいる」
「殿の名のもとに
まとまりかけたものへ
別の筋を通そうとしている」
誰も、
「放っておけ」とは言わなかった。
ここで見過ごせば、
新しく形になりつつあるものが
音を立てて崩れると
皆分かっていた。
◆
ただ、
別の躊躇いもあった。
「相手は、
亡き主君の古参です」
ひとりが言う。
「北の名門を討つ軍でも
先陣を張っていた」
「妹御を娶ったのも、
あの男です」
殿は黙していた。
(殿の妹を娶り)
(殿のもとで
長く槍を振るった男)
(その男を、
“新たな殿”としての手で討つのか)
沈黙が、
しばし続く。
◆
さくらは、
その沈黙の重さを
壇下から感じていた。
(あの方も、
殿を支えた一人)
(北の山で、
肩を並べて槍を受けたこともある)
(それでも今は――)
(殿の秩序に牙を向いた)
鬼としての目と、
人としての目が
ひどく噛み合わない。
けれど、
どちらも閉じるわけにはいかなかった。
◆
やがて、
殿は口を開いた。
「……戦を起こすのは、
好きではない」
静かな声だった。
「殿がこの世を去ってから、
いくつかの矛は納めてきた」
「西も、
総本山も、
寺も、
ひとまずは刃を収めている」
「ここで、
身内の牙を見逃せば」
「殿の天下は、
名ばかりになる」
誰も、
反論できない。
「北は敵ではなく、
“乱れ”です」
策士が言葉を添える。
「乱れを正さねば、
他の地も真似をする」
「最初の一本を
折り損ねれば――」
殿が手を上げた。
「分かっている」
その一言で、
評定の空気が固まった。
◆
「討伐軍を出す」
殿は、はっきりと言った。
「ただし」
少しだけ、声の調子を落とす。
「北は、
亡き主君の血が混じる地だ」
「最初から根こそぎにするような
手は使わぬ」
「矢文を送る」
「降る気があるなら、
一度だけ機会を与える」
「それでもなお
“秩序への挑戦”を名乗るなら――」
そこで言葉を切り、
さくらを見た。
「さくら」
呼ばれて、
立ち上がる。
「はい、殿」
「そのときは、
鬼の刃で断て」
殿の目は、
さくらの大太刀を見ていた。
「北の山風ごと」
「かつて殿を支えた槍ごと」
「“今の秩序”に
刃を向けたすべてを」
◆
評定が解散すると、
城の中は一気に忙しくなった。
兵を集める声。
馬を引く音。
槍の穂先を確かめる武具師の手。
討伐の軍が、
黙々と形を取り始める。
さくらは、
大太刀の刃を布で拭いながら
静かに空を見た。
(北の山風は、
冷たくて好きでした)
(その風の中で、
殿の旗が揺れるのを見るのは)
(きっと、
悪い景色ではないのでしょう)
(その代わり)
(一本の古い影は、
そこで終わる)
桃の匂いが、
ほんのわずかに強くなる。
鬼娘の匂いは、
ふたたび戦の支度の匂いへと
変わり始めていた。




