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葬儀が終わった夜。
重臣筆頭の男は、
自分の城の一間で、
ひとり座っていた。
◆
灯りは一つ。
油の減った行灯が、
畳の上に頼りない輪をつくっている。
部屋の奥には、
新たに迎えた妻がいる。
亡き主君の妹。
今日はさすがに、
疲れたといって早く床に入った。
障子一枚隔てた向こうから、
かすかな寝息が聞こえる。
(殿の血を、
この身に受けた)
本来なら、
それだけで胸を張れるはずだった。
(それほどに信頼されていたはずだ)
(……だったはず、なのだがな)
行灯の火が揺れるたび、
男の眉間に刻まれた皺が
別の影を落とす。
◆
評定の光景が、
何度も頭の中を巡る。
喪服の猿。
いや、もう猿とは呼べぬ。
皆の前で、
亡き主君の志を継ぐと宣言し、
仇を討った将として
重臣たちの視線を一身に浴びていた男。
(仇討ち……)
(確かに、あれはあやつの手柄だ)
(わしはその間、
何をしていた)
問いを向けると、
答えは分かっている。
兵を整え、
国を守り、
東西の動きを探っていた。
「正しい」と教えられてきた
大名の務めを、
きっちりと果たしていたつもりだった。
だが、
人の口に上るのは
「守った者」の名ではない。
「討った者」の名ばかりだ。
◆
しかも、その男は
かつて自分の下にいた。
同じ席にいても、
猿というあだ名で笑い合っていた。
身分でいえば、
元は百姓上がり。
こちらは先祖伝来の武家。
(それが今では、どうだ)
(西の国を従えた功)
(仇討ちの軍勢)
(評定をまとめ、葬儀を仕切り)
(亡き主君の妹を娶ったのはわしだというのに)
妻の寝息が、
やけに遠く聞こえた。
(わしは、
“殿の縁者”という名札だけか)
(あやつは、
“殿の後継”の顔をしておる)
◆
「自惚れるなよ……」
誰に聞かせるでもなく、
口から零れる。
あの評定の席でも、
思わず立ち上がりかけた瞬間があった。
「殿の志を継ぐのは自分だ」と
白昼堂々言い切ったときだ。
(なぜあのとき、
わしは声を上げなかった)
拳が、
膝の上でぎゅっと握られる。
理由は分かっている。
・仇討ちをしていない
・西を従えていない
・亡き主君の最期の場にいなかった
そのすべてが、
あの場で自分の舌を縛った。
(……だからこそ、癪に障るのだ)
(本来、
あの席で殿の名を口にすべきは)
(このわしであったはずだ)
◆
さくらの顔も浮かぶ。
あの鬼娘。
長い黒髪。
大太刀。
桃の匂い。
西の戦でも、
龍との一合でも、
逆臣討ちの戦場でも、
常に一番槍のように名が上がるのは
あの女だ。
(殿の刃)
(そして今は、
あやつの刃)
それが、
傷口に塩を塗り込む。
(鬼までもが、
あやつを「殿」と呼ぶのか)
(わしを差し置いて)
◆
信じていたものが、
少しずつ崩れているのを感じる。
・上座に座り続けてきた年月
・先に殿に仕えた年数
・血筋
・縁戚
そういうものが、
一夜でひっくり返された気がした。
(実力主義、か)
亡き主君が口にしていた言葉。
その恩恵を受けてのぼったのは、
自分も同じはずだった。
槍働き。
城攻め。
幾つもの戦で
先鋒を務めてきた。
(だが、
いつの間にか)
(「下から上がってきた者」の方が
実力主義の象徴として語られる)
(わしは、
“昔からいる側”に押し込まれている)
それが、何より耐え難かった。
◆
障子の向こうで、
ふと寝返りの気配がする。
妻の静かな息。
亡き主君とよく似た横顔が
脳裏に浮かぶ。
(殿)
胸の奥が、
きゅうと締めつけられた。
(わしは、
あなたの妹を娶り)
(あなたのために槍を振るってきた)
(そのわしが、
なぜ今――)
殿のいない世で、
自分だけが取り残されていくような
奇妙な孤独があった。
◆
やがて男は、
行灯の火を少しだけ絞った。
暗がりの中で、
静かに心を整える。
(感情で動けば、愚か者だ)
(わしは愚かではない)
(あやつの腕も、
鬼娘の刃も、
策士の知恵も)
(すべて承知している)
だからこそ、
なおさら許しがたい。
(このまま黙って
従っているだけの器ではないと)
(いつか、
誰かに見せねばならぬ)
それが「誰か」は、
まだはっきりしない。
亡き主君か。
己の家臣か。
世の目か。
ただ、
胸の奥でくすぶる火だけが
消えずに残っていた。
◆
その夜、
男は何も決めなかった。
ただ、
決めないままではいられぬと
知ってしまった。
新たな殿が
葬儀で影を伸ばしたその日、
同じ場にいた重臣筆頭の男の影もまた、
別の方向へゆっくりと
歪み始めていた。




