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さくらは、

一度だけ静かに息を吸った。


桃の匂いが、

胸の奥からふわりと立ちのぼる。



「……猿殿」


廊下に二人きりだった。


評定を終え、人の気配が遠のいたあと、

さくらはようやく言葉を選んだ。


猿が振り向く。

泣き腫らした跡はもうない。

代わりに、

殿のいない天下を背負う者の顔だけがある。


さくらは、その顔を見て、

すっと膝を突いた。


畳に手をつけ、

きれいに頭を垂れる。


桃の匂いが、

一気に廊下に広がった。



「これからは――」


さくらの声は低く、

しかしよく通った。


「これからは、

 『殿』とお呼びします」


一拍置いて、

顔を上げることなく続ける。


「私のことは、

 『さくら』とお呼びください」


それは、

初めて出会った日の

少し軽やかな呼びかけとは違う響きだった。


刃を預ける者が、

主君を選ぶときの声。


恩人の仇を討ったあと、

恩人の志を託す相手を

はっきりと定めるときの声。



猿は、

しばし言葉を失っていた。


廊下に漂う桃の匂い。

それを吸い込みながら、

自分の背に乗ってくる重さを感じる。


(殿と呼ばれて、

 嬉しいなどと言ってはいけない)


(これは、

 ただの栄誉ではない)


(鬼の大太刀が、

 その刃の行き先を

 わしに預けるということだ)


「……顔をお上げくだされ」


ようやく、

掠れた声が出る。


さくらがゆっくりと顔を上げる。

目は澄んでいた。


怒りも悲しみも、

その奥に沈めた目。



猿は、

ほんの少しだけ笑った。


「そうですか」


「某ごときに、

 『殿』の名を」


冗談めかした調子は、

いつもより薄い。


「では遠慮なく、

 そう呼ばれるに相応しいように

 悪あがきをせねばなりませんな」


「……さくら」


初めて、

殿の代理ではなく

自分の臣として

その名を呼んだ。


さくらの肩が、

かすかに震える。


それが、

嬉しさなのか、

覚悟の重さなのか。


本人にも分からない。


ただ、

桃の匂いだけが

一段と濃くなった。



(この香りは、

 戦場で鬼を連れてきた匂い)


(殿の前で

 刃を振るったときの匂い)


(その鬼が、

 今度はわしを「殿」と呼ぶ)


猿は、

その事実を

喉の奥に押し込んだ。


軽々しく口にすれば、

どこかが崩れる気がした。


「頼みますぞ、さくら」


「殿と呼ばれる身が

 道を踏み外しそうになったら」


「鬼として、

 遠慮なく刃を向けてくだされ」


さくらは、

迷わず頷いた。


「承知しました、殿」


「殿が、

 殿であることをやめるその日には」


「この刃で、

 必ずお止めします」


それは、

忠誠の誓いであり、

同時に処刑人の誓いでもあった。



廊下に、

桃の匂いが満ちていた。


かつて、それは

「女であることを隠せぬ匂い」だった。


今は違う。


魔王に拾われ、

鬼となった剣客が、


新たな「殿」を

自ら選んだ印のように

静かに漂っていた。


葬儀の日は、

不思議なくらい晴れていた。



城下の外れ、

小高い丘に向かう道。


黒い列が、

ゆっくりと伸びていた。


山の方から吹き下ろす風が、

香の煙を細くちぎっていく。


先頭に、

喪服をまとった「殿」がいた。


かつて猿と呼ばれた男。

今日はただ、

亡き主君の棺の前を歩く影だ。



棺の上に置かれたのは、

焼け残った甲冑の一部と、

欠けた太刀の柄。


寺の火の中で

ほとんど何も残らなかった。


それでも、

何かを置かずにはいられなかった。


(殿の形は、

 もうどこにもない)


(残っているのは、

 名前と、線と――)


(この世に刻まれた“跡”だけ)


新たな殿は、

それをよく知っていた。



葬列には、

かつての重臣たちが並んだ。


西の国を従えた将。

北の名門を落とした将。

南の狸の使い。

都の商人たち。


帝からの使いの姿もある。


「弔意を示す」


その一言が、

都の空気を決めていた。


(魔王は、

 帝の許しの内側で死んだ)


(逆臣は討たれた)


(残るは――

 後を継ぐ者は誰か)


人々の視線は、

自然と喪服の「殿」に集まる。



葬儀は、

静かに進んだ。


読経。

線香。

礼。


新たな殿は、

儀礼を一つひとつ

取りこぼすことなくこなしていく。


軍議で見せる顔とも、

城下で冗談を飛ばす顔とも違う。


一挙手一投足が、

すべて周囲から見られていることを

理解している人間の動きだった。


「亡き主君は――」


弔辞の場で、

殿は前に出た。


声は大きくはないが、

よく通る。


「魔王と呼ばれた」


「寺を焼き、

 将軍を退け」


「総本山と刃を納めて

 帝より言葉を賜った」


「そのすべてを、

 この目で見てきた」


言葉を選びながら、

決して「過ち」とは呼ばなかった。


「殿のなさったことに、

 是非をつけるのは」


「この先の天下の役目」


「某は――

 その天下を整えるために」


「殿の仇を討ち、

 殿の名を汚すことなく

 世をまとめる所存にございます」


深く、

長く頭を下げる。


それは、

亡き主君に向けてであると同時に、


見守る全ての目に対する

宣言でもあった。



さくらは、

少し離れたところから

その背中を見ていた。


喪服の下でも、

あの軽口を叩く猿の骨格は同じだ。


ただ今日は、

猿の影は消えていた。


(殿)


胸の奥で、

そっと呼ぶ。


(殿がいなくなったあと)


(殿と呼ぶ相手が

 もう一人できたことを)


(亡き主君に

 どう伝えるべきでしょうね)


桃の匂いは、

今日は抑えている。


葬儀の香の匂いと混ざらぬよう、

衣に香を焚きしめてきた。


それでも、

風がふと向きを変えると


(あ)


かすかに甘い香りが

殿の方へと流れていく。


新たな殿は、

それに気づいているかいないか、


ほんの少しだけ顎を上げただけだった。




葬儀を取り仕切ったのは、

紛れもなく新たな殿だった。


段取りを整え、

使いを迎え、

重臣たちを並べ、

言葉を選んだ。


その一つひとつが、

彼の影響力を

さらに強くしていく。


(殿がいなくなった後)


(この男が、

 殿の名を掲げるのだ)


それを、

重臣も、民も

同じように理解した。



葬儀の最後。


殿は、

墓の前にひとり立った。


誰も近づかない距離。


さくらだけが、

少し離れた位置から

その横顔を見ていた。


「……殿」


新たな殿が、

低く呟く。


「仇は討ちました」


「西も従えました」


「評定も、

 何とかまとめました」


「葬儀まで

 終えてしまいました」


そこで、

少しだけ笑う。


「もう、“殿”と呼べるのは

 この墓だけです」


「ですが、

 この名前を使うことは

 まだやめません」


「殿の名を掲げて

 天下をまとめるまでは」


風が、

桃とも香ともつかぬ匂いを運んだ。


さくらは、

胸の中で静かに頷く。


(この葬儀で)


(亡き主君は土に還り)


(新たな殿は、

 本当に「殿」になった)


葬儀は、

ひとつの終わりであり、


同時に――

殿なき天下の

「正式な始まり」でもあった。

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