表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

93/121

91

丘は、

もうほとんど形を失いつつあった。


人の列も、

旗も、

叫びも。


さくらが歩いたあとには、

ただ乱れた草と、

血の跡だけが残る。



「前を空けろ」


猿の声が、

背中越しに飛んできた。


「鬼の行き先は、

 ただ一つだ」


兵たちは、

本能で道を割いた。


さくらの前だけが、

まるで川が海へ伸びるように

まっすぐ開いていく。


その先。

小高い丘の頂に、

逆臣がいた。


かつて殿の傍らで

幾度も戦図を描いた男。


今は、

自らの旗のもとに立つ。


(あれが)


(殿の背中に刃を向けた男)


さくらの視界から、

周囲のものが消えていく。


敵も、

味方も、

太鼓も、

叫びも。


逆臣だけが、

まっすぐに残った。



逆臣も、

さくらを認めていた。


桃とも血ともつかぬ

異様な匂い。


風の中で、

ひとつだけ違う影。


「……鬼娘」


掠れた声でそう言い、

口元に薄く笑みを浮かべる。


「西で、

 殿の刃を振るっていると聞いていたが」


「ここまで戻ってきたか」


さくらは、

言葉を選ばなかった。


「黙れ」


噛み殺した声だった。


「殿の名を、

 お前の口から聞きたくありません」


逆臣は、

その言葉に傷ついた顔をしなかった。


むしろ、

どこか安堵したような目をした。


「そうか」


「それでいい」



斜面の中ほどで、

ふたりは止まった。


互いに距離を取る。

一合分。


「……一つだけ、

 言わせてくれぬか」


逆臣が、

静かに口を開いた。


「寺で殿に刃を向けたとき」


「わしは、

 己のためだけに

 刃を振るったわけではない」


さくらの指が、

大太刀の柄にさらに食い込む。


「聞くだけ聞きましょう」


「刃を振るう前に、

 せめて」



逆臣は、

遠いものを見るような目になった。


「殿は、

 龍殿とも、

 西の矢とも、

 総本山とも」


「すべてと向き合う覚悟を

 持っておられた」


「長い戦を越えて」


「天下は、

 ようやく一つの形を取り始めた」


「だからこそ」


そこで、

言葉が一瞬詰まる。


「だからこそ、だ」


「殿はもう、

 止まれなかった」


「龍殿が病で倒れたと聞いても」


「西の国がひざまずいたと知っても」


「殿自身の刃は、

 ますます深く刺さっていく」



さくらは、

理解しようとしなかった。


今はただ、

聞くだけにとどめる。


逆臣は続ける。


「魔王と呼ばれた人を止められるのは、

 魔王自身か」


「魔王に選ばれた刃だけだと

 思っていた」


「……だが、

 鬼娘を西に出してしまった」


「猿殿を西に出し、

 三本の矢を折る道に送り出した」


「残っていたのは、

 寺と都を預かるこの身と」


「殿の喉元に届く距離だけだった」


さくらは、

やっと言葉を挟む。


「だから刺したと?」


声には、

冷えた怒りがあった。


「殿が、

 自分では止まれぬと決めつけて」


「お前が“代わりに”

 止めたと?」


逆臣は、

否定もしなければ肯定もしなかった。


「筋を通そうとした、とは言えぬ」


「ただ――」


少しだけ笑う。


「鬼娘よ」


「おぬしと猿殿が

 西で“殿の天下”を描いている間」


「都で魔王を殺す汚れ役を

 買って出たのがわしだ」


「それだけは、

 確かだ」



さくらは、

一瞬目を閉じた。


(殿を、殺した)


(それを“汚れ役”と言う)


(筋が通っているように見せかけて)


(結局は、

 自分の刃の行き場を

 そこに求めただけ)


目を開く。


怒りが、

再び胸の底からあふれ出す。


「殿は、

 あなたを信じていました」


「猿殿と同じように」


「力を見て、

 礼法を見て、

 志を見て」


「だからこそ、

 寺と都を預けた」


「その信を裏切った」


「それだけで、

 討たれるには十分です」



逆臣は、

穏やかに頷いた。


「そうだろうな」


「殿の刃が、

 わしを断つのなら」


「それは、

 この世に残る筋だ」


「……鬼娘よ」


そこで、

初めてさくらを真正面から見た。


「殿は最後に、

 おぬしのことを思い出しておられた」


「“ここに鬼娘の刃があれば”と」


さくらの心臓が、

一度大きく跳ねた。


「嘘でしょう」


反射的に出た言葉だった。


逆臣は首を振る。


「火の中で

 何を思い出そうと、

 わしの勝手だが」


「少なくとも、

 あの方の脳裏には」


「火矢を掴み、

 大太刀で道を切り開く

 お前の姿があっただろう」


「……わしの刃には、

 届かぬものを」



さくらは、一歩踏み出した。


「ならなおさら」


声が震える。


「なおさら、

 あなたを許せません」


「殿が最後に思い出した

 “刃の行き場”を」


「寺の火で、

 自分の手で遮った」


「その罪は、

 鬼が斬るしかない」


逆臣は、

静かに刀を抜いた。


その動きには、

未練も、

恐怖も、

虚勢もない。


「……望むところだ」


「殿に選ばれた刃が」


「殿を殺した刃を断つ」


「それ以上の“筋”は、

 わしには思いつかぬ」



風が止んだ。


ふたりの間だけに、

静けさが降りる。


さくらは、

大太刀を構えた。


怒りで視界が赤くなりそうなところを、

ぎりぎりで抑え込む。


(殿の刃として)


(ここで取り乱すわけにはいかない)


(殿のために)


(殿が最後まで通そうとした筋のために)


逆臣も、

腰を落とし、

刀を水平に構える。


かつて殿の前で披露したとき、

褒められた構えだ。


(魔王よ)


(あなたの鬼と)


(あなたを殺した逆臣と)


(どちらの刃が

 この世に残るべきか)


(今、ここで決める)



最初に動いたのは、

さくらだった。


叫びもなく。

ただ、一歩。


次の瞬間には、

大太刀の刃先が

逆臣の懐を掬い上げるように走っていた。


逆臣は、

その刃を読み切っていた。


一度だけ、

寺の夜に見た刃筋。


受けるのでなく、

逸らす。


すれすれに身をずらし、

刃の腹で大太刀の軌道を滑らせる。


火花が散る。


重さが、

腕にのしかかる。


(これを、

 毎度受けていたのか)


(鬼娘は)


(あの細い肩で)


刃を外した瞬間、

逆臣は踏み込んだ。


鬼の懐に、

自分の刃を入れる。


寺で殿に届いた

あの一太刀と同じ距離。



さくらは――

それを見ていた。


殿の喉元に届いたであろう

あの距離。


その刃が、

今度はこちらに来ている。


怒りが、

そこで冷えた。


(ここで同じように

 喉を差し出すなら)


(殿と何も変わらない)


(殿が“魔王”として

 受けた一太刀を)


(鬼が同じように受けてどうする)


身体が勝手に動く。


足を半歩引き、

腰を捻り、

刃の線からわずかに外れる。


逆臣の刀が、

着物の襟を掠めた。


布が裂け、

肌に薄い熱が走る。


(これは、

 殿が受けた痛みの影だ)


(影だけで十分)


大太刀が返る。


今度は、

小さく。


逆臣の首ではなく、

握られた刀を狙って。



金属の悲鳴がした。


逆臣の刀が、

途中からぽきりと折れる。


寺の夜、

殿の刃を裏切るために抜かれた刀が。


今、この丘で

鬼娘の大太刀に折られた。


逆臣は、

その感触に

かすかに笑った。


「……是非もなし、か」


殿と同じ言葉を口の中で転がし、

折れた刃を手放す。


「鬼娘よ」


「殿の刃よ」


「最後に一つ、

 頼みがある」


さくらは、

大太刀を構えたまま応じた。


「聞くだけなら」


「斬り損ねるような頼みなら、

 斬ってから忘れます」


逆臣は、

それでいいと言わんばかりに頷く。


「殿の名を、

 これからも使い続けてくれ」


「殿の天下は、

 まだ途中だ」


「わしの裏切りで途切れた線を」


「お前と、猿殿と……」


「殿が拾った者たちで

 もう一度繋いでくれ」


それだけ言うと、

まっすぐ背筋を伸ばした。


首を差し出す構えではない。

最後まで「武将」としての姿勢だった。



さくらは、

大太刀を下ろした。


怒りは消えていない。

許しもしない。


それでも――

殿の筋を思えば、

刃の向け方は一つだった。


「殿の名は」


「たとえこの世から殿が消えようと」


「私たちが

 勝手に手放すことはありません」


「殿に拾われた者たちが

 殿の名を背負い続ける限り」


「あなたの裏切りは、

 ただのひとつの傷で終わる」


大太刀が、

水平に振られた。


血が散る。


桃の匂いと、

血の匂いが

一瞬だけ強く絡み合い――


そのあと、

風の中にほどけていった。


逆臣の身体が、

静かに崩れ落ちる。



丘の上に、

短い静寂が訪れた。


その静けさの中で、

さくらは大太刀を地に突き立てた。


「殿」


胸の内で、

そっと呼ぶ。


(仇は討ちました)


(ですが、

 これで終わりではないのでしょう)


(あなたが描いた天下の線は)


(まだ途中です)


丘の下では、

猿の軍が前進を再開していた。


策士が旗を振り、

兵たちが前を押す。


逆臣の旗が折れた瞬間から、

戦の形は決まっていた。


さくらは、

しばらく立ち尽くしたまま

血と桃と風の匂いが入れ替わっていくのを

静かに味わっていた。


それからようやく、

大太刀を引き抜き、

その刃を一度だけ

自分の袖で拭った。


(鬼として)


(殿の刃として)


(まだ振るうべき戦が

 この先にもある)


それを知っているからこそ、

この仇討ちの一太刀は――

鮮烈でありながら、

どこかやるせない後味を残していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ