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小高い丘は、
本来ならただの目印に過ぎないはずだった。
そこに陣取った側が有利になる、
それだけの話。
けれどその日は――
戦場の中心そのものになった。
◆
逆臣の軍は、
丘の肩に旗を並べていた。
かつて殿の軍の一角を預かった旗印が、
今は殿の名を焼いた者の旗として
風をはらんでいる。
「……あそこか」
猿が、
遠目にそれを見て吐き捨てるように言った。
さくらは、
何も返さなかった。
いつもなら、
出陣前でも静かに息を整え、
心拍を落とす。
今日は違った。
胸の底から、
何か熱いものが
とめどなく上がってくる。
(殿を斬った男)
(殿に刃を向け、
士道に背いた男)
(殿の恩を、
仇で返した男)
思えば思うほど、
刃の重さが軽く感じられる。
大太刀が、
いつもより身体の一部に近かった。
◆
軍が動いた。
太鼓が鳴り、
槍の列が進む。
さくらは、
いつものように前に出た。
だが、その足運びは
いつもとは違う。
距離を測らない。
間合いを量らない。
ただ、
丘の上の旗印だけを見ている。
「主君の恩を喰い潰しておいて、まだ武士の名を名乗るかああッ!!」
自分でも驚くほどの声が、
喉からほとばしった。
それは、
戦場の掛け声というより
呪詛に近かった。
その叫びと同時に――
匂いが変わった。
◆
桃。
いつものさくらの匂いだ。
しかしこの日は、
それが異常だった。
近くの兵だけでなく、
丘の上の敵兵にまで届く。
風下にいた者が思わず顔をしかめる。
「……なんだ、この匂いは」
「女の、匂い……?」
甘い。
若い。
息苦しいほどに濃い。
そのくせ、
不快ではない。
むしろ、
ふっと気を抜けば
足元の力が抜けそうになるような
妙な心地よさがあった。
(あの寺の夜、
殿の御前で嗅いだ匂いだ)
逆臣自身も、
ほんの一瞬だけ
記憶を呼び起こされていた。
「鬼娘……」
掠れた声が漏れる。
◆
さくらは、
それまでで一番深く息を吸っていた。
怒りが、
肺いっぱいに膨らむ。
(殿の火の匂いも)
(焼けた木の匂いも)
(血の匂いも)
(全部、
私の中に入り込んでしまった)
(ならば今度は――)
(私の匂いで
塗り替えるしかないでしょう)
足が地を蹴った。
丘へ向かう斜面を、
さくらはほとんど跳ぶように駆け上がる。
敵兵の槍が、
慌ててこちらを向いた。
「止めろ!
あれが――」
号令は最後まで届かなかった。
大太刀が、
抜かれた。
◆
一振りだった。
本当に、一振り。
半円を描く軌道。
音が、
いつもと違って低い。
空気ごと裂かれたような、
鈍く重い音。
その刃の前にいた十数人が、
そろって前に、横に、後ろに
吹き飛んだ。
切っ先が、
触れたのか触れていないのか。
目で追えなかった者には
分からない。
ただ、
次の瞬間には
人の列の中に
ぽっかりと穴が空いていた。
そして――
匂いが変わった。
◆
桃の甘さの上から、
鉄の匂いがかぶさった。
血の匂い。
暖かくて、
重くて、
鼻の奥に貼りつく匂い。
さっきまで兵の心を
ふっと緩ませかけていた甘さが、
そのまま血の匂いと混じり合って
異様なものに変わっていく。
「……鬼だ」
誰かが、
素直にそう言った。
甘さと血の匂いを同時に纏うものなど、
人間ではない。
◆
さくらは、
自分の周りの匂いが
変質していくのを感じていた。
(桃の匂いなど、
戦場には似合わない)
(女だと嗅ぎ分けられ、
舐められ、
噂され)
(殿の名のもとで
刃を振るってきたのに)
今日だけは違う。
桃の匂いは、
怒りで過ぎてしまった。
(殿を焼いたこの世を)
(今日は、女ではなく鬼として斬る)
(女の匂いを、
血の匂いで上書きする)
二振り目は、
もう数えなかった。
◆
丘の上から、
逆臣がそれを見ていた。
(やはり、鬼だ)
かつて殿の側で
共に戦場を見たとき、
あの匂いを嗅いだ。
桃の甘さに隠れた剛力と、
血と火の気配。
(ここにあの刃を残しておけば)
(寺の火も、
別の形になっていたやもしれぬ)
(だが)
「今さら詮無きことか」
思わず、
かつての主君と同じ言葉を
心の中で繰り返していた。
剣を握り直す。
(せめて)
(殿を焼いたこの身が、
最後に斬られる刃が)
(殿が選んだ鬼の大太刀なら)
それが、
彼に許された
わずかな筋の通し方だと
どこかで理解していた。
◆
「士道を捨てた愚か者ども!
一人残らず、このさくらが
切り刻んで土くれにしてくれる!」
さくらの怒号と、
大太刀の風圧と、
血と桃の匂い。
それらが、
小高い丘一つを
完全に鬼の領分に変えていた。
今日のさくらの憤怒は、
敵も味方も見たことがなかった。
感情の高ぶりのままに、
それでも刃筋だけは狂わない。
鬼娘は、
殿の仇の方角だけを見つめながら――
自身の匂いを、
血の匂いで塗り替え続けていった。




