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小高い丘は、

本来ならただの目印に過ぎないはずだった。


そこに陣取った側が有利になる、

それだけの話。


けれどその日は――

戦場の中心そのものになった。



逆臣の軍は、

丘の肩に旗を並べていた。


かつて殿の軍の一角を預かった旗印が、

今は殿の名を焼いた者の旗として

風をはらんでいる。


「……あそこか」


猿が、

遠目にそれを見て吐き捨てるように言った。


さくらは、

何も返さなかった。


いつもなら、

出陣前でも静かに息を整え、

心拍を落とす。


今日は違った。


胸の底から、

何か熱いものが

とめどなく上がってくる。


(殿を斬った男)


(殿に刃を向け、

 士道に背いた男)


(殿の恩を、

 仇で返した男)


思えば思うほど、

刃の重さが軽く感じられる。


大太刀が、

いつもより身体の一部に近かった。



軍が動いた。


太鼓が鳴り、

槍の列が進む。


さくらは、

いつものように前に出た。


だが、その足運びは

いつもとは違う。


距離を測らない。

間合いを量らない。


ただ、

丘の上の旗印だけを見ている。


「主君の恩を喰い潰しておいて、まだ武士の名を名乗るかああッ!!」


自分でも驚くほどの声が、

喉からほとばしった。


それは、

戦場の掛け声というより

呪詛に近かった。


その叫びと同時に――

匂いが変わった。



桃。


いつものさくらの匂いだ。


しかしこの日は、

それが異常だった。


近くの兵だけでなく、

丘の上の敵兵にまで届く。


風下にいた者が思わず顔をしかめる。


「……なんだ、この匂いは」


「女の、匂い……?」


甘い。

若い。

息苦しいほどに濃い。


そのくせ、

不快ではない。


むしろ、

ふっと気を抜けば

足元の力が抜けそうになるような

妙な心地よさがあった。


(あの寺の夜、

 殿の御前で嗅いだ匂いだ)


逆臣自身も、

ほんの一瞬だけ

記憶を呼び起こされていた。


「鬼娘……」


掠れた声が漏れる。



さくらは、

それまでで一番深く息を吸っていた。


怒りが、

肺いっぱいに膨らむ。


(殿の火の匂いも)


(焼けた木の匂いも)


(血の匂いも)


(全部、

 私の中に入り込んでしまった)


(ならば今度は――)


(私の匂いで

 塗り替えるしかないでしょう)


足が地を蹴った。


丘へ向かう斜面を、

さくらはほとんど跳ぶように駆け上がる。


敵兵の槍が、

慌ててこちらを向いた。


「止めろ!

 あれが――」


号令は最後まで届かなかった。


大太刀が、

抜かれた。



一振りだった。


本当に、一振り。


半円を描く軌道。


音が、

いつもと違って低い。


空気ごと裂かれたような、

鈍く重い音。


その刃の前にいた十数人が、

そろって前に、横に、後ろに

吹き飛んだ。


切っ先が、

触れたのか触れていないのか。


目で追えなかった者には

分からない。


ただ、

次の瞬間には

人の列の中に

ぽっかりと穴が空いていた。


そして――

匂いが変わった。



桃の甘さの上から、

鉄の匂いがかぶさった。


血の匂い。


暖かくて、

重くて、

鼻の奥に貼りつく匂い。


さっきまで兵の心を

ふっと緩ませかけていた甘さが、

そのまま血の匂いと混じり合って

異様なものに変わっていく。


「……鬼だ」


誰かが、

素直にそう言った。


甘さと血の匂いを同時に纏うものなど、

人間ではない。



さくらは、

自分の周りの匂いが

変質していくのを感じていた。


(桃の匂いなど、

 戦場には似合わない)


(女だと嗅ぎ分けられ、

 舐められ、

 噂され)


(殿の名のもとで

 刃を振るってきたのに)


今日だけは違う。


桃の匂いは、

怒りで過ぎてしまった。


(殿を焼いたこの世を)


(今日は、女ではなく鬼として斬る)


(女の匂いを、

 血の匂いで上書きする)


二振り目は、

もう数えなかった。



丘の上から、

逆臣がそれを見ていた。


(やはり、鬼だ)


かつて殿の側で

共に戦場を見たとき、

あの匂いを嗅いだ。


桃の甘さに隠れた剛力と、

血と火の気配。


(ここにあの刃を残しておけば)


(寺の火も、

 別の形になっていたやもしれぬ)


(だが)


「今さら詮無きことか」


思わず、

かつての主君と同じ言葉を

心の中で繰り返していた。


剣を握り直す。


(せめて)


(殿を焼いたこの身が、

 最後に斬られる刃が)


(殿が選んだ鬼の大太刀なら)


それが、

彼に許された

わずかな筋の通し方だと

どこかで理解していた。



「士道を捨てた愚か者ども!

 一人残らず、このさくらが

 切り刻んで土くれにしてくれる!」


さくらの怒号と、

大太刀の風圧と、

血と桃の匂い。


それらが、

小高い丘一つを

完全に鬼の領分に変えていた。


今日のさくらの憤怒は、

敵も味方も見たことがなかった。


感情の高ぶりのままに、

それでも刃筋だけは狂わない。


鬼娘は、

殿の仇の方角だけを見つめながら――


自身の匂いを、

血の匂いで塗り替え続けていった。

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