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その日のうちに、
地図は裏返された。
◆
西の城を出たとき、
まだ陽は高かった。
従属の文は交わされた。
酒も酌み交わした。
形式はすべて整った。
あとは、本来なら
ゆるやかに兵を引き上げ、
西の守りを固めるだけ――
のはずだった。
だが、その日は違った。
「……行くぞ」
猿が、城門を出たところで
くるりと馬首を東へ向けた。
西の山と海ではない。
都の方角。
「今からだ」
猿は振り返らない。
「今夜、
ここで眠るわけにはいかぬ」
「殿の仇を討つまで、
足を止める気はない」
声は低いが、
迷いはなかった。
◆
さくらは、
その馬の横に並んだ。
(西の大国を従えたその足で)
(今度は、
殿を討った逆臣に向かう)
(猿殿にとっても、
私にとっても)
(ここからが本当の戦)
大太刀の重みが、
いつもより確かに感じられる。
桃の匂いも、
自分の中で少し強くなっていた。
◆
行軍は、
まるで弓を放ったようだった。
西から東へ。
矢が戻るように。
だが、
ただ突っ走るだけではない。
道のあちこちで
小さな村が、
ささやかな備蓄を抱えて
彼らを待っていた。
米俵が二つ三つ。
干し魚が縄でぶら下がり、
井戸には水が張られている。
「用意しておけ、と
前々から言っていたでしょう」
策士が、
馬上で淡々と告げる。
「西を攻めるにも、
東を戻るにも」
「“殿の軍”がいつ通ってもいいようにと」
今までは、
西を深く攻めるための準備だった。
そのすべてが、
今は殿の仇討ちという
まったく別の線のために
一斉に開かれていく。
「補給線を待つ軍は、
遅い軍です」
策士が、
どこか愉快そうに言う。
「“補給が追いついてくる軍”こそが
神速と言われるもの」
◆
軍は止まらなかった。
村に入る。
すぐに用意された飯をかきこむ。
馬には桶一杯の水と、
前に結わえられた草束。
口の中に米が残っていても、
すでに足は次の一歩を踏んでいる。
夜になっても、
完全には止まらない。
後続は交代で眠り、
前列は交代で進む。
焚き火を囲む「陣」は
どこにも築かれない。
その代わり、
道そのものが
長い一本の陣と化していた。
◆
「さくら殿」
走りながら、
猿が声をかける。
「足はまだ持ちますか」
「もちろん」
息は荒い。
だが、目は冴えている。
「戦の前に疲れ切るような
鍛え方はしておりません」
猿が笑う。
「鬼は頼もしい」
「殿が、
“あの桃の匂いの鬼を
手元から離すな”と仰った理由が分かる」
さくらは、
一瞬だけ目を伏せた。
(殿)
(今、この足は
殿のために走っています)
(殿の刃として)
◆
途中、
山道に差しかかる。
普通なら、
ここで一泊して
明るくなってから
峠を越えるだろう。
猿は迷わなかった。
「灯りを絶やすな」
松明が灯る。
細い山道が、火の筋になって伸びる。
山の村々も、
事前の密書で知らされていたのか
峠の途中に
湯気の立つ桶と
握り飯を用意していた。
兵たちは走りながら受け取り、
走りながら食う。
唇を火傷しても、
誰も文句は言わない。
(殿の仇が、
都の寺のどこかで
まだ息をしている)
(そのまま朝を迎えるなど、
許されるはずがない)
◆
さくらは、
走りながら思っていた。
(不思議なものです)
(寺を焼くときも、
私は殿のために刃を振るいました)
(今、
殿を焼いた寺に向かって走るのも)
(やはり殿のため)
(同じ寺という場所で、
片や火を放ち)
(片や火を消しに向かう)
戦国というものが
回っている輪の中で、
自分たちもまた
ぐるりと一周しているような気がした。
◆
道端で、
村の女が子を抱えて立っていた。
兵たちが駆け抜ける脇で、
深々と頭を下げる。
「殿の仇を……」
その言葉が
風にちぎれて耳に届いた。
さくらは、
一瞬だけ顔を上げた。
(殿の名は)
(もう西の果ての村まで
届いている)
(魔王と呼ばれながら)
(“仇を討ってほしい主君”として)
そのことが、
胸の中の炎をさらに強くした。
◆
行軍は、
本当に止まらなかった。
太鼓は、
出発のときから
ほとんど同じ調子で鳴り続けた。
・補給線を待つ軍
・補給線を引きずる軍
・補給線を追いかけさせる軍
自分たちは今、
最後のそれに変わっていた。
猿の策と、
策士の準備と、
殿の名と、
鬼の足と。
それらすべてが
一本の矢になって、
都へ向かって飛んでいる。
◆
夜が薄れ始める頃。
遠くの空が、
かすかに赤く染まっているのが見えた。
「……まだ燃えている」
誰かが呟いた。
殿が討たれた寺か。
その周りの屋敷か。
都そのものか。
それを確かめるのは、
もう少し先になる。
さくらは、
胸の奥で静かに刀の柄を握り直した。
(止まらずに来た)
(補給を待つことなく、
一度も足を止めずに)
(あとは、
この足とこの刃で)
(殿の死に筋を通すだけ)
神速の行軍は、
ただ速かっただけではない。
その一本の線の上には、
殿に救われた者たちの
恩と怒りと覚悟が
ぎゅっと詰め込まれていた。




