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その日のうちに、

地図は裏返された。



西の城を出たとき、

まだ陽は高かった。


従属の文は交わされた。

酒も酌み交わした。

形式はすべて整った。


あとは、本来なら

ゆるやかに兵を引き上げ、

西の守りを固めるだけ――

のはずだった。


だが、その日は違った。


「……行くぞ」


猿が、城門を出たところで

くるりと馬首を東へ向けた。


西の山と海ではない。

都の方角。


「今からだ」


猿は振り返らない。


「今夜、

 ここで眠るわけにはいかぬ」


「殿の仇を討つまで、

 足を止める気はない」


声は低いが、

迷いはなかった。



さくらは、

その馬の横に並んだ。


(西の大国を従えたその足で)


(今度は、

 殿を討った逆臣に向かう)


(猿殿にとっても、

 私にとっても)


(ここからが本当の戦)


大太刀の重みが、

いつもより確かに感じられる。


桃の匂いも、

自分の中で少し強くなっていた。



行軍は、

まるで弓を放ったようだった。


西から東へ。

矢が戻るように。


だが、

ただ突っ走るだけではない。


道のあちこちで

小さな村が、

ささやかな備蓄を抱えて

彼らを待っていた。


米俵が二つ三つ。

干し魚が縄でぶら下がり、

井戸には水が張られている。


「用意しておけ、と

 前々から言っていたでしょう」


策士が、

馬上で淡々と告げる。


「西を攻めるにも、

 東を戻るにも」


「“殿の軍”がいつ通ってもいいようにと」


今までは、

西を深く攻めるための準備だった。


そのすべてが、

今は殿の仇討ちという

まったく別の線のために

一斉に開かれていく。


「補給線を待つ軍は、

 遅い軍です」


策士が、

どこか愉快そうに言う。


「“補給が追いついてくる軍”こそが

 神速と言われるもの」



軍は止まらなかった。


村に入る。

すぐに用意された飯をかきこむ。

馬には桶一杯の水と、

前に結わえられた草束。


口の中に米が残っていても、

すでに足は次の一歩を踏んでいる。


夜になっても、

完全には止まらない。


後続は交代で眠り、

前列は交代で進む。


焚き火を囲む「陣」は

どこにも築かれない。


その代わり、

道そのものが

長い一本の陣と化していた。



「さくら殿」


走りながら、

猿が声をかける。


「足はまだ持ちますか」


「もちろん」


息は荒い。

だが、目は冴えている。


「戦の前に疲れ切るような

 鍛え方はしておりません」


猿が笑う。


「鬼は頼もしい」


「殿が、

 “あの桃の匂いの鬼を

 手元から離すな”と仰った理由が分かる」


さくらは、

一瞬だけ目を伏せた。


(殿)


(今、この足は

 殿のために走っています)


(殿の刃として)



途中、

山道に差しかかる。


普通なら、

ここで一泊して

明るくなってから

峠を越えるだろう。


猿は迷わなかった。


「灯りを絶やすな」


松明が灯る。

細い山道が、火の筋になって伸びる。


山の村々も、

事前の密書で知らされていたのか

峠の途中に

湯気の立つ桶と

握り飯を用意していた。


兵たちは走りながら受け取り、

走りながら食う。


唇を火傷しても、

誰も文句は言わない。


(殿の仇が、

 都の寺のどこかで

 まだ息をしている)


(そのまま朝を迎えるなど、

 許されるはずがない)



さくらは、

走りながら思っていた。


(不思議なものです)


(寺を焼くときも、

 私は殿のために刃を振るいました)


(今、

 殿を焼いた寺に向かって走るのも)


(やはり殿のため)


(同じ寺という場所で、

 片や火を放ち)


(片や火を消しに向かう)


戦国というものが

回っている輪の中で、

自分たちもまた

ぐるりと一周しているような気がした。



道端で、

村の女が子を抱えて立っていた。


兵たちが駆け抜ける脇で、

深々と頭を下げる。


「殿の仇を……」


その言葉が

風にちぎれて耳に届いた。


さくらは、

一瞬だけ顔を上げた。


(殿の名は)


(もう西の果ての村まで

 届いている)


(魔王と呼ばれながら)


(“仇を討ってほしい主君”として)


そのことが、

胸の中の炎をさらに強くした。



行軍は、

本当に止まらなかった。


太鼓は、

出発のときから

ほとんど同じ調子で鳴り続けた。


・補給線を待つ軍

・補給線を引きずる軍

・補給線を追いかけさせる軍


自分たちは今、

最後のそれに変わっていた。


猿の策と、

策士の準備と、

殿の名と、

鬼の足と。


それらすべてが

一本の矢になって、

都へ向かって飛んでいる。



夜が薄れ始める頃。


遠くの空が、

かすかに赤く染まっているのが見えた。


「……まだ燃えている」


誰かが呟いた。


殿が討たれた寺か。

その周りの屋敷か。

都そのものか。


それを確かめるのは、

もう少し先になる。


さくらは、

胸の奥で静かに刀の柄を握り直した。


(止まらずに来た)


(補給を待つことなく、

 一度も足を止めずに)


(あとは、

 この足とこの刃で)


(殿の死に筋を通すだけ)


神速の行軍は、

ただ速かっただけではない。


その一本の線の上には、

殿に救われた者たちの

恩と怒りと覚悟が

ぎゅっと詰め込まれていた。

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