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交渉の日は、
妙に空が澄んでいた。
◆
西の大国の城。
三本の矢のうち、
矢筒を預かる嫡男が
謁見の座にいた。
猿は、
いつもより少しだけ
上等な装束をまとっていた。
扇子を持つ手は軽く、
背筋はいつも通り。
ただ、
その内側だけが
綱の上を歩いている。
(殿が死んだことを)
(気取られてはならぬ)
(今ここで“魔王なき国”と悟られれば)
(西の国は、矢を全部こちらに向ける)
策士の言葉が、
背中に張り付いている。
「殿の名は、
まだ“天”として
彼らの頭の上にある」
「殿が生きていようがいまいが、
今この場で重要なのは」
「“生きているように”見えることです」
◆
「遠路、ご苦労であった」
嫡男は、
父譲りの濃い顔つきをしていた。
軍装ではなく、
半ば礼服、半ば戦装束。
「東の魔王殿が
直々にお越しとは」
猿は、
笑みを浮かべて首を振った。
「いえいえ」
「殿は、
お忙しくしておられる」
「東も、北も、
あれこれと火種が尽きませぬゆえ」
「西のことは、
某のような猿に任せた、と」
わざと軽く言う。
「生きている日常」の口ぶりで。
嫡男は、
その軽さの裏を探るように
一瞬だけ目を細めた。
「……魔王殿ともなると、
天下中を歩き回らねばなりますまいな」
「さぞお忙しいことだ」
(気づいているか?)
(まだだ)
さくらは、
一歩後ろでそのやりとりを見ていた。
桃の匂いは、
今日は抑えている。
交渉の場で鬼の存在感を
必要以上に立たせるべきではない。
ただ、
矢の国の家臣たちの目が
時折こちらを盗み見るたびに、
(“魔王の刃”は
ちゃんとここにいる)
という示しにはなっていた。
◆
やがて、
本題に入る。
「西の国は、
強い」
猿は、
最初にそう言った。
「一代で国を成した父君の力と」
「それを守るために
三本の矢を束ねてきた
諸卿の働きのおかげ」
「某も、
何度か骨を折らされました」
嫡男の眉が
わずかに動く。
「……誉れなことですな」
「東の猿殿にそう言われるとは」
「ただ」
猿は扇子を畳み、
静かに畳に置いた。
「強い国が、
必ずしも生き残らぬのが戦国」
「虎殿も」
「虎とも渡り合った軍神も」
「今はもう、
この世におられぬ」
一瞬、
空気が冷えた。
「父もまた、
同じ道を辿りました」
嫡男が
低く応じる。
「強さではなく、
“どこに座るか”が
生き残りを決める世だと
思い知らされております」
猿は頷いた。
「その通り」
「だからこそ」
「西の国には、
“どこに座るか”を
今ここで決めていただきたい」
◆
「……東の魔王殿の、
お傍ということですかな」
嫡男の声には、
少し棘が混じった。
「従属せよと」
「平たく申せば」
猿は隠さない。
「西の国は、
今のままでも強い」
「だが」
「東からは、
殿の大軍が
じきに山を越えて見えるでしょう」
「北は、
すでに殿の旗が立っている」
「南は、
狸殿と殿の古い約束のもとにある」
「ここで“独立”を選べば」
「父君が成した国は、
少しずつ削られていくことになる」
淡々と言いながら、
その実、
猿の心臓も早く打っていた。
(殿の大軍は、来ない)
(殿はもう、この世におらぬ)
(だが、
ここでそれを悟らせてはならぬ)
策士の描いた「虚像」の軍勢が、
猿の背後に立っているふりをしている。
◆
「脅し、ですかな」
嫡男が問う。
猿は、
少しだけ口元を上げた。
「勧め、です」
「従ってくだされば、
西の国の名も
父君の名も」
「この先の天下で
消えずに済む」
「殿のもとで
“西の守り手”として
残る道もある」
「拒めば、
いずれは誰かの軍に」
「あるいは、
飢えや内乱に」
「少しずつ
削られていくでしょう」
言いながら、
自分が寺を囲んだ夜や、
米で城を締め上げた日々が
脳裏にちらついた。
(“削る”ことはできる)
(殿がいなくとも)
(策と刃があれば)
それを、
今ここであえて口に出さない。
◆
沈黙が落ちた。
城の奥で、
風が廊下を吹き抜ける音がする。
嫡男は、
長く目を閉じていた。
(今、
この男もまた)
(内側で何かと戦っている)
さくらには分かった。
父の国を守るための矢か。
父の名に縛られた矢か。
自分の器を試すための矢か。
それとも――
三本の矢を束ねる手を
自らほどく覚悟か。
◆
やがて、
嫡男は目を開けた。
「……父が
一代で作った国です」
声に、
まだ少しだけ悔しさが残っている。
「一度くらい、
“矢を放って”みたかった」
「誰にも束ねられずに」
猿は黙って聞いていた。
「ですが」
「父の国を、
この先も残す道が
“束ねられること”だと言うならば」
「矢を放たずに終えるのも、
また一つの志でしょう」
静かに、
そう言った。
そして頭を垂れる。
「西の国は、
東の殿のもとに従います」
「父の名と
この国の名を残すために」
その瞬間、
幕の外で
押し殺したような息の気配がした。
猿の背中で、
何かがほどける。
(通った)
(殿の名は、まだ“天”にある)
(西の国も、
その天の下に入った)
◆
形式が続く。
盟約の文。
酒のやりとり。
名を並べた印判。
そのすべてを
猿は「殿の代理」として執り行った。
一度たりとも、
「殿」の名を過去形にしなかった。
さくらは、
その一部始終を見つめながら、
胸の奥で静かに息を吐く。
(主君は、もういない)
(でも今、
この場で交わされている約束は)
(すべて“生きている殿”の名で
結ばれている)
それが偽りなのか、
延命なのか。
今はまだ分からない。
ただ――
従属の盟約が結ばれた瞬間、
(逆臣を討つ刃を
いつか振るえる)
(その背を固める一歩が
今、確かに踏まれた)
とだけは、
はっきり感じられた。
◆
城を辞したあと。
城外の風が
少しだけ柔らかくなった気がした。
猿は馬上で、
誰にも聞こえない声で呟いた。
「殿」
「西は、
殿の名で、
殿の代に従えました」
「……今から、仇を討ちにまいります」
さくらは横で、
その言葉を黙って聞いていた。
西の大国は、
倒れなかった。
ただ、
ひざまずいた。
それを、
遠く炎に包まれて消えた主君に
どう伝えるべきか。
答えのない問いを抱えたまま、
彼らは次にすべきこと――
「逆臣討ち」の刃を研ぐ日のことを
それぞれの胸で固め始めていた。




