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幕舎の中は、
さっきまでと別の戦場になっていた。
◆
崩れ落ちた猿は、
畳に手をついたまま動かなかった。
「……殿が」
「わしを、
土べたから引き立てて下さった方が……」
肩が震え、
言葉が途切れるたびに
涙が畳に落ちていく。
「百姓崩れのこの身を、
侍に上げて、
城主にまでしてくださったのだぞ……」
「殿の天下が、
ここからなのに……」
声が、
途中で子どものように嗚咽に変わる。
策士は、
しばらく黙って見ていた。
その顔には、
いつもの薄い笑いはなかった。
◆
やがて、
策士は一歩近づいた。
「……猿殿」
返事はない。
肩に手を置いても、
猿はなお伏せたままだった。
策士の指が、
ぐっと力を込める。
「ここで崩れ落ちてよいのは、
ただの部将です」
「ただの臣です」
声は低く、
きつかった。
「あなたは、
もう“ただの”ではない」
「殿が、その身を農民から引き立て、
城主とし、
国主とした」
「“天下を任せる器”として
ここまで引き上げた」
「そのあなたが、
殿の死の報せ一つで
折れてしまってどうするのです!」
猿の背中が、
ぴくりと動いた。
◆
策士は、
なお言葉を重ねる。
「殿の志を、
ここで引き継げる者は誰か」
「殿の名のもとに
天下をまとめ、
帝の許しの内側に
世を収められる者は」
「都で焼かれた殿でもなければ」
「殿を焼いた憎き逆臣でもない」
「西の国の三本の矢でもない」
「……ここで
泣き崩れている、あなたなのですぞ!」
最後の一言には、
怒りと、
焦りと、
祈りが混じっていた。
◆
猿の指が、
畳をつかんだ。
「……わしが」
嗄れた声が、
やっと出てくる。
「わしが……
殿の志を、引き継ぐ……」
「そうです」
策士は頷く。
「殿の天下は、
主君ひとりの夢ではなかった」
「あなたの夢でもあり」
「鬼娘殿の刃の行き場でもあり」
「ようやく形を得つつあったもの」
「それをここで投げ出せば」
「殿の死は、
ただの無駄死にになります」
猿は、
ゆっくりと顔を上げた。
目は泣き腫れ、
それでも奥に
また火が戻りつつあった。
「……某が折れれば、
殿の天下が折れる」
「某が立てば、
殿の名もまだ立つ」
自分で自分に
言い聞かせるように。
◆
さくらは、
そのやり取りを黙って聞いていた。
胸の中では、
別の火が燃えている。
(逆臣)
(殿を討った者)
(筋を通さず、
主君の背を刺した者)
拳に力がこもる。
桃の匂いさえ
自分の中で苦く感じられるほど、
怒りに血が混ざっていた。
「……殿には、
私も恩義があります」
口を開くと、
声が思ったより低く響いた。
「鬼と呼ばれるこの身を、
刃として扱ってくださった」
「寺を焼いた夜も、
将軍様の城に攻め入るときも」
「“できる限り”と線を引いてくださった」
「殿の筋に、
逆らって刃を向けた者は――」
さくらは
大太刀の柄に手を置いた。
「討つべきです」
「この刃で」
◆
猿が、
さくらを見た。
泣き腫らした目の奥に、
少しだけ笑いが戻っている。
「……頼もしいことを
言ってくれますな」
「鬼娘殿」
さくらは頷く。
「殿の死に様が、
“詮無きこと”で終わらぬように」
「鬼として、
筋を通したい」
策士が、
ふっと息を吐いた。
「猿殿」
「鬼娘殿は、
“殿の仇”に刃を向けたいと言っておられる」
「それは、
殿の志を継ぐ一つの形です」
「ただ――」
そこで言葉を切り、
地図の上の西を指さす。
「今はまだ、
西の大国がこちらを見ている」
「このまま背を見せれば、
殿の名のもとに進めてきた西が崩れます」
「逆臣を討つ牙を研ぐためにも」
「まずは、この一手を
打ち切るべきです」
◆
猿は、
地図の西と東を見比べた。
都。
寺。
炎。
西の国。
三本の矢。
従属の座。
目を閉じ、
短く呼吸を整える。
やがて、
低く呟いた。
「……西を、
殿の名でまとめ上げる」
「それが、
殿への最初の供養だ」
目を開く。
そこには、
さっきまでの崩れた烏ではなく、
再び立ち上がる猿の顔があった。
「西を従え、背を固める」
「そののちに、
殿を討った逆臣を討つ軍を上げる」
「殿が“魔王”と呼ばれたように」
「某も“逆臣討ちの猿”と呼ばれるくらいでなければ、
あの方の足元にも及びませぬ」
策士が、
初めて少しだけ笑った。
「それでこそ、
殿に拾われた男です」
◆
さくらは、
静かに頷く。
(西をまとめる)
(殿の名の下に)
(そのあとで、
逆臣に刃を向ける)
大太刀の柄に添えた手に、
力が入る。
(殿が最後に思い出したのは、
鬼娘の刃だったと信じたい)
(もしそうでなかったとしても)
(この刃で逆臣を討てれば、
殿の死に筋を一本
通すことができる)
夜風が、
幕舎の端を揺らした。
さっきまで
泣き崩れていた猿の背は、
もう再び前を向いている。
その背中の少し後ろで、
さくらは静かに
鬼としての刃を磨き直す覚悟を固めていた。




