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幕舎の中は、

さっきまでと別の戦場になっていた。



崩れ落ちた猿は、

畳に手をついたまま動かなかった。


「……殿が」


「わしを、

 土べたから引き立てて下さった方が……」


肩が震え、

言葉が途切れるたびに

涙が畳に落ちていく。


「百姓崩れのこの身を、

 侍に上げて、

 城主にまでしてくださったのだぞ……」


「殿の天下が、

 ここからなのに……」


声が、

途中で子どものように嗚咽に変わる。


策士は、

しばらく黙って見ていた。


その顔には、

いつもの薄い笑いはなかった。



やがて、

策士は一歩近づいた。


「……猿殿」


返事はない。


肩に手を置いても、

猿はなお伏せたままだった。


策士の指が、

ぐっと力を込める。


「ここで崩れ落ちてよいのは、

 ただの部将です」


「ただの臣です」


声は低く、

きつかった。


「あなたは、

 もう“ただの”ではない」


「殿が、その身を農民から引き立て、

 城主とし、

 国主とした」


「“天下を任せる器”として

 ここまで引き上げた」


「そのあなたが、

 殿の死の報せ一つで

 折れてしまってどうするのです!」


猿の背中が、

ぴくりと動いた。



策士は、

なお言葉を重ねる。


「殿の志を、

 ここで引き継げる者は誰か」


「殿の名のもとに

 天下をまとめ、

 帝の許しの内側に

 世を収められる者は」


「都で焼かれた殿でもなければ」


「殿を焼いた憎き逆臣でもない」


「西の国の三本の矢でもない」


「……ここで

 泣き崩れている、あなたなのですぞ!」


最後の一言には、

怒りと、

焦りと、

祈りが混じっていた。



猿の指が、

畳をつかんだ。


「……わしが」


嗄れた声が、

やっと出てくる。


「わしが……

 殿の志を、引き継ぐ……」


「そうです」


策士は頷く。


「殿の天下は、

 主君ひとりの夢ではなかった」


「あなたの夢でもあり」


「鬼娘殿の刃の行き場でもあり」


「ようやく形を得つつあったもの」


「それをここで投げ出せば」


「殿の死は、

 ただの無駄死にになります」


猿は、

ゆっくりと顔を上げた。


目は泣き腫れ、

それでも奥に

また火が戻りつつあった。


「……某が折れれば、

 殿の天下が折れる」


「某が立てば、

 殿の名もまだ立つ」


自分で自分に

言い聞かせるように。



さくらは、

そのやり取りを黙って聞いていた。


胸の中では、

別の火が燃えている。


(逆臣)


(殿を討った者)


(筋を通さず、

 主君の背を刺した者)


拳に力がこもる。


桃の匂いさえ

自分の中で苦く感じられるほど、

怒りに血が混ざっていた。


「……殿には、

 私も恩義があります」


口を開くと、

声が思ったより低く響いた。


「鬼と呼ばれるこの身を、

 刃として扱ってくださった」


「寺を焼いた夜も、

 将軍様の城に攻め入るときも」


「“できる限り”と線を引いてくださった」


「殿の筋に、

 逆らって刃を向けた者は――」


さくらは

大太刀の柄に手を置いた。


「討つべきです」


「この刃で」



猿が、

さくらを見た。


泣き腫らした目の奥に、

少しだけ笑いが戻っている。


「……頼もしいことを

 言ってくれますな」


「鬼娘殿」


さくらは頷く。


「殿の死に様が、

 “詮無きこと”で終わらぬように」


「鬼として、

 筋を通したい」


策士が、

ふっと息を吐いた。


「猿殿」


「鬼娘殿は、

 “殿の仇”に刃を向けたいと言っておられる」


「それは、

 殿の志を継ぐ一つの形です」


「ただ――」


そこで言葉を切り、

地図の上の西を指さす。


「今はまだ、

 西の大国がこちらを見ている」


「このまま背を見せれば、

 殿の名のもとに進めてきた西が崩れます」


「逆臣を討つ牙を研ぐためにも」


「まずは、この一手を

 打ち切るべきです」



猿は、

地図の西と東を見比べた。


都。

寺。

炎。


西の国。

三本の矢。

従属の座。


目を閉じ、

短く呼吸を整える。


やがて、

低く呟いた。


「……西を、

 殿の名でまとめ上げる」


「それが、

 殿への最初の供養だ」


目を開く。


そこには、

さっきまでの崩れた烏ではなく、

再び立ち上がる猿の顔があった。


「西を従え、背を固める」


「そののちに、

 殿を討った逆臣を討つ軍を上げる」


「殿が“魔王”と呼ばれたように」


「某も“逆臣討ちの猿”と呼ばれるくらいでなければ、

 あの方の足元にも及びませぬ」


策士が、

初めて少しだけ笑った。


「それでこそ、

 殿に拾われた男です」



さくらは、

静かに頷く。


(西をまとめる)


(殿の名の下に)


(そのあとで、

 逆臣に刃を向ける)


大太刀の柄に添えた手に、

力が入る。


(殿が最後に思い出したのは、

 鬼娘の刃だったと信じたい)


(もしそうでなかったとしても)


(この刃で逆臣を討てれば、

 殿の死に筋を一本

 通すことができる)


夜風が、

幕舎の端を揺らした。


さっきまで

泣き崩れていた猿の背は、

もう再び前を向いている。


その背中の少し後ろで、

さくらは静かに

鬼としての刃を磨き直す覚悟を固めていた。

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