86.5
燃え方には、
見覚えがあった。
◆
都の真ん中。
寺とも、城ともつかぬ本陣が
炎に包まれている。
板戸が焼け、
梁が呻き、
畳が黒く縮んでいく匂い。
(また寺か)
自ら火を放たせた寺の夜を思い出し、
主君は自嘲気味に笑った。
(今度は、
わしが焼かれる番か)
周囲では、
まだ数人の家臣が戦っていた。
廊下で、
部屋で、
障子の向こうで、
断末魔とも怒号ともつかぬ声が響く。
その中に、
裏切った男の声も混じっているはずだ。
◆
彼は、
猿と同じく
実力主義の恩恵を受けた男だった。
身分は高くない。
しかし、
軍略の才は抜群で、
礼法にも通じ、
人の心の綻びを見る目もあった。
ひとつの戦を任せれば、
必ず筋を立てて戻ってきた。
「殿」
「ここを押さえれば、
十年先の禍根を摘めます」
そう言って、
自分の身を惜しまず動く男だった。
(よく働いてくれた)
(猿に、
西の一切を任せたあと)
(この都の周りは、
あやつに預けていたようなものよ)
裏切られるまでは――
そう言いかけて、
思考を切る。
(裏切りも実力のうち、と
誰かが言ったか)
(その実力を見抜けなかったのは、
わしの目の方だ)
◆
炎が、
天井に届き始めていた。
柱の一本が崩れ落ち、
火の粉が雪のように舞う。
熱気で息が重くなる。
それでも主君は、
まだ冷静だった。
(ここまで囲まれては、
もはや脱出路はない)
(護衛も少ない)
(……是非もなし)
声に出したその言葉は、
不思議と軽かった。
悔いがないわけではない。
ただ、
この瞬間だけは
「こういう終わり方もある」と
どこかで納得している自分がいた。
◆
ふと、
頭に浮かんだ顔がある。
(そういえば)
(鬼娘を、西に出してしまったな)
長い黒髪。
背に負う大太刀。
腰の太刀。
細身の身体に似合わぬ剛力。
何より、
桃の匂い。
(あの、強い桃の匂いを漂わせる鬼娘)
(さくら)
城門の前に立ち、
百千の矢を掴み取り、
人馬をまとめて吹き飛ばした姿。
寺を焼く夜に
刃を向けながら、
ぎりぎりの線で踏みとどまった目。
帝の前で
肩を落としながらも、
大太刀の柄から手を離さなかった背中。
(わしの刃が
この場にいれば)
(この包囲も、
ひょっとすると切り抜けられたかもしれぬ)
火矢を掴み、
炎の中を駆け抜け、
裏切り者の首筋まで
たどり着いたかもしれない。
そう思うと、
口元に自然と笑みが浮かんだ。
(……いや)
(今さら詮無きことか)
あの鬼は、
今、西で矢の国と向き合っている。
殿の刃として、
自分の代わりに
まだ来ぬ「天下」を
切り拓いている最中だ。
(あそこに出したのは、
わしだ)
(ならば、
ここは自分の刃だけで
片をつけるよりほかない)
◆
逆臣の顔が、
ふと脳裏をよぎる。
実直な声。
よく通る目。
礼を尽くし、
筋を立てることを好んだ男。
(あやつも、
何かを見たのだろう)
(わしの天下に
乗れぬと思ったのか)
(自分の描く線の方が
正しいと信じたのか)
(あるいは、
ただ己の名を
歴史に残したかっただけか)
真意を問う暇もなく、
焼け落ちる。
(どれであろうと、
もはやどうでもよい)
(裏切りは裏切りとして、
誰かが、
いつかどこかで線を引くだろう)
◆
炎が、
すぐそばまで迫ってきた。
熱が頬を打ち、
衣の端が焦げる。
主君は、
最後にもう一度だけ
桃の匂いを思い出した。
戦場の血と火薬の中で、
ただひとつ異質な、
あの甘い匂い。
(鬼と呼ばれた娘よ)
(お前の大太刀が、
この先の世に
どんな「静けさ」をもたらすのか)
(見届けたかったが――)
(そこから先は、
お前と猿に任せるとしよう)
「是非もなし」
今度は心の中で
もう一度だけ呟き、
目を閉じる。
燃え上がる天井の向こうに、
一瞬だけ
満月にも似た白い光が見えた気がした。
それが炎の幻か、
鬼娘の背にさす月か。
確かめる暇は、
もうなかった。




