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86.5

燃え方には、

見覚えがあった。



都の真ん中。

寺とも、城ともつかぬ本陣が

炎に包まれている。


板戸が焼け、

梁が呻き、

畳が黒く縮んでいく匂い。


(また寺か)


自ら火を放たせた寺の夜を思い出し、

主君は自嘲気味に笑った。


(今度は、

 わしが焼かれる番か)


周囲では、

まだ数人の家臣が戦っていた。


廊下で、

部屋で、

障子の向こうで、

断末魔とも怒号ともつかぬ声が響く。


その中に、

裏切った男の声も混じっているはずだ。



彼は、

猿と同じく

実力主義の恩恵を受けた男だった。


身分は高くない。

しかし、

軍略の才は抜群で、

礼法にも通じ、

人の心の綻びを見る目もあった。


ひとつの戦を任せれば、

必ず筋を立てて戻ってきた。


「殿」


「ここを押さえれば、

 十年先の禍根を摘めます」


そう言って、

自分の身を惜しまず動く男だった。


(よく働いてくれた)


(猿に、

 西の一切を任せたあと)


(この都の周りは、

 あやつに預けていたようなものよ)


裏切られるまでは――

そう言いかけて、

思考を切る。


(裏切りも実力のうち、と

 誰かが言ったか)


(その実力を見抜けなかったのは、

 わしの目の方だ)



炎が、

天井に届き始めていた。


柱の一本が崩れ落ち、

火の粉が雪のように舞う。


熱気で息が重くなる。

それでも主君は、

まだ冷静だった。


(ここまで囲まれては、

 もはや脱出路はない)


(護衛も少ない)


(……是非もなし)


声に出したその言葉は、

不思議と軽かった。


悔いがないわけではない。

ただ、

この瞬間だけは

「こういう終わり方もある」と

どこかで納得している自分がいた。



ふと、

頭に浮かんだ顔がある。


(そういえば)


(鬼娘を、西に出してしまったな)


長い黒髪。

背に負う大太刀。

腰の太刀。

細身の身体に似合わぬ剛力。


何より、

桃の匂い。


(あの、強い桃の匂いを漂わせる鬼娘)


(さくら)


城門の前に立ち、

百千の矢を掴み取り、

人馬をまとめて吹き飛ばした姿。


寺を焼く夜に

刃を向けながら、

ぎりぎりの線で踏みとどまった目。


帝の前で

肩を落としながらも、

大太刀の柄から手を離さなかった背中。


(わしの刃が

 この場にいれば)


(この包囲も、

 ひょっとすると切り抜けられたかもしれぬ)


火矢を掴み、

炎の中を駆け抜け、

裏切り者の首筋まで

たどり着いたかもしれない。


そう思うと、

口元に自然と笑みが浮かんだ。


(……いや)


(今さら詮無きことか)


あの鬼は、

今、西で矢の国と向き合っている。


殿の刃として、

自分の代わりに

まだ来ぬ「天下」を

切り拓いている最中だ。


(あそこに出したのは、

 わしだ)


(ならば、

 ここは自分の刃だけで

 片をつけるよりほかない)



逆臣の顔が、

ふと脳裏をよぎる。


実直な声。

よく通る目。

礼を尽くし、

筋を立てることを好んだ男。


(あやつも、

 何かを見たのだろう)


(わしの天下に

 乗れぬと思ったのか)


(自分の描く線の方が

 正しいと信じたのか)


(あるいは、

 ただ己の名を

 歴史に残したかっただけか)


真意を問う暇もなく、

焼け落ちる。


(どれであろうと、

 もはやどうでもよい)


(裏切りは裏切りとして、

 誰かが、

 いつかどこかで線を引くだろう)



炎が、

すぐそばまで迫ってきた。


熱が頬を打ち、

衣の端が焦げる。


主君は、

最後にもう一度だけ

桃の匂いを思い出した。


戦場の血と火薬の中で、

ただひとつ異質な、

あの甘い匂い。


(鬼と呼ばれた娘よ)


(お前の大太刀が、

 この先の世に

 どんな「静けさ」をもたらすのか)


(見届けたかったが――)


(そこから先は、

 お前と猿に任せるとしよう)


「是非もなし」


今度は心の中で

もう一度だけ呟き、

目を閉じる。


燃え上がる天井の向こうに、

一瞬だけ

満月にも似た白い光が見えた気がした。


それが炎の幻か、

鬼娘の背にさす月か。


確かめる暇は、

もうなかった。

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