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86

夜だった。


西の空に沈みきれない夕焼けの残りが、

まだ幕舎の端を赤く染めていた。



交渉の準備は、

ほとんど整っていた。


西の大国。

三本の矢の国。


すでに矢は折れかけ、

弦の張りを失いつつある。


あとは、

殿からの大軍が山を越えて現れ、

敵の城からそれが見えればよかった。


「勝てぬと知っている者が

 “勝てぬと確信する瞬間”を作る」


「そのうえで、

 従属の席に座らせる」


猿は、

そういう筋書きを描いていた。


策士も頷いていた。


さくらも、

その形を理解していた。


今夜は、

その前夜だった。



幕舎の外は、

静かだった。


遠くで波の音。

近くで兵たちの笑い声。

鍋の匂い。

湿った夜風。


猿の幕舎の中では、

最後の詰めが行われていた。


矢文の文句。

明日の席次。

どこまで譲り、

どこから譲らぬか。


猿は扇子で机を叩きながら、

いつものように冗談を飛ばしていた。


「さて、

 西の国を従えたら」


「某もいよいよ、

 腰に差すのは刀ではなく

 “国主の扇”になるやもしれませんな」


さくらは、

半ば呆れたような顔で聞いていた。


(いつもの猿殿)


(いつもの調子)


その「いつも」が、

これからも続くものだと

誰も疑っていなかった。



風が変わったのは、

そのときだった。


幕舎の外で、

馬の蹄の音が乱れた。

誰かが転ぶような足音。

息を切らし、

声にならない声。


「猿殿、急ぎの伝令!」


衛士が遮る暇もなく、

幕が跳ね上がる。


土埃と汗と、

焦げたような匂いが流れ込んだ。


「都より……!」


伝令は、

膝をついたまま顔を上げた。


その目の色だけで、

さくらは嫌な予感を覚えた。


(これは、

 いつもの“戦の報”ではない)


(戦の匂いではなく、

 何かが急に断ち切られた匂い)


「殿が――」


言葉が喉でつかえる。


猿が、

扇子を握ったまま近づく。


「殿が、どうした」


声はまだ平坦だった。


伝令は、

ようやく絞り出すように言った。


「……逆臣に討たれました」


「都の寺において、

 火を放たれ――」


「殿は、

 討死されたと――」


その瞬間、

幕舎の空気が崩れた。



しばらく、

誰の声も出なかった。


時間が止まった、と

錯覚するほどに。


「……嘘だ」


最初に言葉にしたのは、

猿だった。


笑うでもなく、

怒鳴るでもなく。


ただ、

子どものような声だった。


「嘘だろう」


「殿が、

 そんな……」


足元から力が抜けたのか、

猿の膝が畳に落ちた。


扇子が手から転がり、

机の足に当たって止まる。


伝令の続きの言葉は、

もう誰の耳にも入っていなかった。


寺の名も、

逆臣の名も、

火の回り方も。


「嘘だ……」


猿は、

繰り返すしかできなかった。


「殿が、

 あの殿が」


「わしより先に

 死ぬはずがないだろう」


「まだ……

 まだ、何も…」


言葉がほどけ、

声にならなくなる。


肩が震えた。


ぼろぼろと、

大きな涙がこぼれ落ちた。


それは、

今まで彼が見せたどんな笑いとも

どんな怒りとも違う表情だった。



さくらは、

その場に立ち尽くしていた。


(殿が……)


(死んだ?)


頭の中で

言葉だけが空回りする。


(帝の御前で、

 「……許す」と言葉を受けて)


(総本山と約を交わし)


(天下の形が

 ようやく見え始めたところで)


(殿が、逆臣に)


胸の奥で、

何かがぐしゃりと潰れた。


怒りか、

悲しみか、

戸惑いか。


どれと名付ければいいか分からない

黒い塊だけが残る。


(納得できません)


(戦場で倒れたのなら、

 まだ受け入れられたかもしれない)


(敵の大将の首を取りに行って

 矢に射抜かれたのなら)


(総本山の牙を抜き損ねて

 討たれたのなら)


(殿の筋として

 どこかで理解できたでしょう)


でも――

逆臣。


自ら選んだ家臣の刃で。


火に巻かれ。


(そんな筋の通らない死に方を、

 殿がするなど)


(鬼である私の頭では、

 どうにも飲み込めません)



猿の嗚咽が、

幕舎の中に広がっていた。


「殿……」


「殿……」


いつもなら、

冗談に逃がす言葉が

ひとつも出てこない。


策士も、

いつもの薄い笑いを浮かべられずに

ただ黙っていた。


「……西の国など、

 どうでもよい」


誰にともなく、

猿が吐き捨てる。


「三本の矢も、

 天下も」


「殿がいなければ、

 何の意味がある」


その言葉に、

さくらの胸も痛んだ。


(殿のために戦ってきた)


(魔王と呼ばれる殿の刃として、

 鬼として)


(その殿がいない世で)


(私は、

 何のために大太刀を背負えばいい)



外では、

次の伝令が来たらしい。

ざわめきが遠くに聞こえる。


西の陣中に、

都からの炎の噂が

じわじわと広がっていく。


「殿が逆臣に討たれた」


「魔王が、

 寺で焼け死んだ」


尾ひれのついた言葉が、

夜風に乗る。


さくらは、

幕舎の隅で

静かに拳を握った。


(信じたくない)


(でも、

 信じねばならない)


(この報せは、

 本当に“現”なのだと)


その現実を飲み込むまでに、

彼女には

しばらくの時間が要った。


そして――

その時間の間に、西の戦も、

天下の形も、

静かに軋みはじめていた。

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