82.5
その夜、
龍はひとりでいた。
◆
陣のざわめきから
少し離れた小高い丘。
薄い敷物の上に腰をおろし、
脇には徳利が一本。
杯がひとつ。
風が、
昼間の土と草の匂いだけを運んでくる。
(……あれは、良い一合だった)
杯を持たぬ方の手で、
わずかに指先が宙に線を描く。
馬上からの一太刀。
受け止められ、
馬ごと押し返された感触。
手首から肩、
背骨を通って馬の腹まで
逆流してきた力。
(地の上に立つ女の力が、
馬の脚を浮かせる)
(世も変わったものだ)
そう思うと、
自然と笑いがこみ上げた。
◆
少し前から、
自分の身体の“変な重さ”には
気づいていた。
戦のあと、
息が抜けるような疲れ方をする。
夜中、咳が出る。
酒の抜けが悪い。
医者を呼ぼうと思えば
いくらでも呼べた。
呼ばなかった。
(戦で死ねば、
それで座りがいいと思っていたが)
(どうやら、
そういう筋には乗っていないらしい)
昼間、さくらと刃を交えたとき、
その感覚は
さらにはっきりした。
一合受け、
押し返され、
馬ごと退いたとき。
(ああ)
(魔王の刃の片鱗を
ここで味わえたか)
胸の奥のどこかで、
ひとつ帳面が閉じられた気がした。
◆
「最後に、
魔王に一太刀」
ほんの少し前まで、
そんなことも考えていた。
都へ出て、
天主閣の前まで進み、
どこかの戦場で
魔王と刃を交える。
一合か二合。
そこで首が飛ぶならそれもよし、
互いに退くならそれもよし。
(死に場所としては
悪くなかった)
(軍神だの龍だのと
言われてきた身の
落とし前としては)
徳利から酒を注ぐ。
杯の中で月が揺れる。
(だが)
(魔王の前に、
鬼が出てきた)
地の上に立つ、
桃の匂いを纏った女。
馬上の龍を
一太刀で押し返した剛力。
「おぬしとまともにやり合うことにならなくて良かった」
あの言葉は、
口から出た瞬間、自分で可笑しかった。
(本音だ)
(あの鬼と何十合も打ち合う余地が
この身体にはもう残っていない)
(それを認めたうえで笑えたのだから、
悪くない一日だ)
◆
杯をあおる。
今夜の酒は、
ひどくうまかった。
喉を通る熱が、
ゆっくりと胸の中に広がっていく。
(魔王)
(鬼)
(帝)
(総本山)
(虎)
思いつく限りの名を
心の中で並べてみる。
どれも、
もう自分が刃を向けることはない相手だ。
(勝てぬ相手と
わざわざ戦うほど、
若くもない)
(勝ち負けの先にあるものを
考える歳になってしまった)
さくらの一太刀は、
その区切りをつけるには
ちょうどよかった。
「龍殿」と呼ばれた背中に、
「そろそろ降りたらどうだ」と
そっと手をかけてくれたようなものだ。
本人にそんなつもりは
これっぽっちもないだろうが。
◆
空を見上げる。
今夜の月は、
綺麗な満月だった。
輪郭がくっきりとしていて、
欠けるところがない。
(満ちすぎたものは、
あとは欠けるだけだ)
(わしも軍も、
そういうところまで来たのだろう)
満ちた月を見ながら、
不思議と怖さはなかった。
(どうせ、
欠けるなら)
(今日の酒がうまい夜に
そう悟れたのは、
鬼娘のおかげかもしれんな)
昼間の一合。
馬ごと押し返された感覚。
桃の匂い。
地面にしっかりと根を張った足。
それらを思い出すたび、
口の中の酒の味が
少しだけ変わる。
苦みが減り、
甘さが増す。
◆
「……魔王よ」
誰にともなく、
月に向かって呟く。
「天下の舵取りの役目は、
どうやらおぬしに譲る」
「わしは、
酒と月を連れて
先に降りるとしよう」
そう言って笑えるうちは、
まだ死なないのかもしれない。
そう思いながらも、
龍は分かっていた。
この笑いが、
そう長く続かないことを。
「鬼娘…。
おぬしとはもっとはやく出会いたかった。
………やはり詮無き事か。」
杯に残った月を
一息で飲み干す。
満ちた光が、
喉の奥を通り過ぎていく。
今夜の酒は、
たしかにうまかった。
胸の奥で静かにそう刻みながら、
龍はもう一度だけ
丸い月を見上げた。




