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82.5

その夜、

龍はひとりでいた。



陣のざわめきから

少し離れた小高い丘。


薄い敷物の上に腰をおろし、

脇には徳利が一本。

杯がひとつ。


風が、

昼間の土と草の匂いだけを運んでくる。


(……あれは、良い一合だった)


杯を持たぬ方の手で、

わずかに指先が宙に線を描く。


馬上からの一太刀。

受け止められ、

馬ごと押し返された感触。


手首から肩、

背骨を通って馬の腹まで

逆流してきた力。


(地の上に立つ女の力が、

 馬の脚を浮かせる)


(世も変わったものだ)


そう思うと、

自然と笑いがこみ上げた。



少し前から、

自分の身体の“変な重さ”には

気づいていた。


戦のあと、

息が抜けるような疲れ方をする。

夜中、咳が出る。

酒の抜けが悪い。


医者を呼ぼうと思えば

いくらでも呼べた。

呼ばなかった。


(戦で死ねば、

 それで座りがいいと思っていたが)


(どうやら、

 そういう筋には乗っていないらしい)


昼間、さくらと刃を交えたとき、

その感覚は

さらにはっきりした。


一合受け、

押し返され、

馬ごと退いたとき。


(ああ)


(魔王の刃の片鱗を

 ここで味わえたか)


胸の奥のどこかで、

ひとつ帳面が閉じられた気がした。



「最後に、

 魔王に一太刀」


ほんの少し前まで、

そんなことも考えていた。


都へ出て、

天主閣の前まで進み、

どこかの戦場で

魔王と刃を交える。


一合か二合。

そこで首が飛ぶならそれもよし、

互いに退くならそれもよし。


(死に場所としては

 悪くなかった)


(軍神だの龍だのと

 言われてきた身の

 落とし前としては)


徳利から酒を注ぐ。

杯の中で月が揺れる。


(だが)


(魔王の前に、

 鬼が出てきた)


地の上に立つ、

桃の匂いを纏った女。


馬上の龍を

一太刀で押し返した剛力。


「おぬしとまともにやり合うことにならなくて良かった」


あの言葉は、

口から出た瞬間、自分で可笑しかった。


(本音だ)


(あの鬼と何十合も打ち合う余地が

 この身体にはもう残っていない)


(それを認めたうえで笑えたのだから、

 悪くない一日だ)



杯をあおる。


今夜の酒は、

ひどくうまかった。


喉を通る熱が、

ゆっくりと胸の中に広がっていく。


(魔王)


(鬼)


(帝)


(総本山)


(虎)


思いつく限りの名を

心の中で並べてみる。


どれも、

もう自分が刃を向けることはない相手だ。


(勝てぬ相手と

 わざわざ戦うほど、

 若くもない)


(勝ち負けの先にあるものを

 考える歳になってしまった)


さくらの一太刀は、

その区切りをつけるには

ちょうどよかった。


「龍殿」と呼ばれた背中に、

「そろそろ降りたらどうだ」と

そっと手をかけてくれたようなものだ。


本人にそんなつもりは

これっぽっちもないだろうが。



空を見上げる。


今夜の月は、

綺麗な満月だった。


輪郭がくっきりとしていて、

欠けるところがない。


(満ちすぎたものは、

 あとは欠けるだけだ)


(わしも軍も、

 そういうところまで来たのだろう)


満ちた月を見ながら、

不思議と怖さはなかった。


(どうせ、

 欠けるなら)


(今日の酒がうまい夜に

 そう悟れたのは、

 鬼娘のおかげかもしれんな)


昼間の一合。

馬ごと押し返された感覚。

桃の匂い。

地面にしっかりと根を張った足。


それらを思い出すたび、

口の中の酒の味が

少しだけ変わる。


苦みが減り、

甘さが増す。



「……魔王よ」


誰にともなく、

月に向かって呟く。


「天下の舵取りの役目は、

 どうやらおぬしに譲る」


「わしは、

 酒と月を連れて

 先に降りるとしよう」


そう言って笑えるうちは、

まだ死なないのかもしれない。


そう思いながらも、

龍は分かっていた。


この笑いが、

そう長く続かないことを。


「鬼娘…。

おぬしとはもっとはやく出会いたかった。

………やはり詮無き事か。」


杯に残った月を

一息で飲み干す。


満ちた光が、

喉の奥を通り過ぎていく。


今夜の酒は、

たしかにうまかった。

胸の奥で静かにそう刻みながら、

龍はもう一度だけ

丸い月を見上げた。

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